容赦のない青春

 ボーダー本部の飾り気のない廊下を、名前は己に可能な限りの早足で歩いていく。
(急げ急げ、万が一にも気付かれたり追いつかれたりする前に、絶対に部屋に着くっ)
 昼と夜のあわいの時間。昼夜を問わず人の出入りの激しいボーダー本部基地にもかかわらず、メディア対策室の各部に通じる通路には今、名前以外の人の気配はない。多くの隊員がたむろするラウンジや作戦室のある区域を一歩出れば、そこにあるのはひっそりとした事務局、事務室の数々だ。
 足元で支給品のパンプスの踵がかつかつ鳴っている。気が急く名前には、音を立てて歩かないようにと気をつけるだけの余裕もない。名前の頭にあるのは、ただひとつ。とにかく一刻も早く、彼から距離をとらなければということだ。
 名前の心を乱し、文字通り追い詰める人物。優秀で有能で――底知れない。
「あれ、名前ちゃん。今から仕事行くところ?」
「わぁっ!?」
 ふいに背後から投げかけられた声に、名前は文字通り、飛び上がって驚いた。ぎこちない動作でゆっくりと背後を振り向けば、そこには形の良い目をくにゃりと楽し気に歪ませた、長身の男がゆらりと立っている。
 犬飼澄晴――ボーダーの誇る腕利き銃手であり、名前と同じ六頴館高等学校三年D組のクラスメイトでもある。
 そしてまた犬飼は、ここ数日、名前がかたくなに遭遇を避けている相手でもあった。
 いつのまにか犬飼は名前の前方へと移動している。名前は一歩、小さく後ずさった。犬飼とここで遭遇することは、名前にとって完全に予期せぬ問題だった。
 名前の背を、じとりとした汗が伝う。
「い、犬飼くん……、どうしてここに? その、さっきまでラウンジにいたのでは……」
「ん? いたよ?」
「では、あの、何故ここに……?」
 ラウンジからこの通路まではそれなりに距離がある。ラウンジでほかの隊員と談笑している犬飼の姿を名前が発見したのが数分前。そこから名前は大急ぎで回れ右をして、支給された制服のスカートが許す限りの歩幅と速度でここまで歩いてきたのだ。だというのに一体なぜ、ここで犬飼につかまってしまったのか。名前にはまったく理解できなかった。
(そもそも私が今日、本部にいること自体、犬飼くんには知られていないはずなのに)
 名前はメディア対策室の事務署員、いわば裏方仕事を担っている。隊員とは違うシフトで動いており、また防衛上の機密から、ボーダー内でも所属が違えば、互いの勤務状況をそう容易に知りえない。
 そんな名前の疑問を察して、犬飼は飄飄と言った。
「名前ちゃん夕方からシフトって聞いてたから」
「聞いてた!? 誰に……!?」
「それはほら、企業秘密」
「私の個人情報……」
 防衛上の機密は、悲しいほど簡単に漏洩していた。漏洩とはいえ組織内のことであるし、名前のシフトなど機密というほどのものでもないのだが、それでも名前はどっと脱力した。犬飼の顔の広さとコミュニケーション能力の高さは、名前が警戒していたよりも遥か上をいっていた。
 無機質な通路を、犬飼と名前以外の誰かが通る気配はない。脱力しながらも、名前の頭はどうにかさっさとこの場を切り上げられないかと思案し始めた。と、そのとき、
「そういえば」おもむろに、犬飼が切り出した。
「名前ちゃん、明日の古典の小テストの勉強した?」
「へっ?」
「重要古語単三十問のやつ」
 脈絡なく話題を転じられ、名前は思わず素直に頷いた。
「あ、ええと、はい。一応」
 名前と犬飼は同じクラスで机を並べている。なので小試験や授業のことなど、共通の話題を振られること自体には、特に不自然なことは何もない。しかし、会話の流れとしては不自然なことこのうえない。小テストについての雑談など、わざわざ名前のシフトを把握し、こんなところまで追いかけてきてするような話ではない。
 企業秘密、と笑ったのと同じ声と表情のまま、犬飼はしれしれと学生生活の話を続ける。
「さすが。おれもやらなくちゃなぁ。範囲って、この間の休み前に配られた古語単のプリントからでいいんだよね?」
「そのはず、だけど」
「あれ、今日持ってきてたかなぁ。この後時間あったら詰め込もうと思ってたんだけど。ああいう嵩張るプリントって、一教科ならいいけど複数教科分たまるとなかなかの荷物だよね。名前ちゃんは置き勉とかしなさそうだな」
「そうだね、わりと……」
「おれは結構置きっぱなしにしてるんだよね。あ、でも古語単は持って帰ってきてたはず。もし忘れてきてたら、あとで名前ちゃんに見せてもらいにいってもいい?」
「ええと、時間があえば」
「助かるー」
「いえいえ……?」
 ぽんぽんとテンポよく投げられる会話に、名前は狼狽えながら応じた。かたくなに犬飼のことを避けていたはずなのに、いつのまにか彼のペースにはまってしまっている。そのことにはたと名前は気が付いて、同時に慄然とした。
(だめだ、完全に犬飼くんに持っていかれてる……!)
 名前は体の横におろした手の、手のひらをぎゅっと握りこむ。そして胸のうちで気合いを入れなおすと、きっと目に力をこめて犬飼の顔を直視した。
「い、犬飼くん!」
「ん?」
 掴みどころのない笑顔で首を傾げられ、すぐに名前は言葉に詰まった。その間に犬飼は、一歩名前の方に踏み込み距離を詰めてくる。圧を感じるわけではない飄飄とした雰囲気と、物理的な圧迫感。相反する印象があいまって、名前は一層混乱する。
「いや、ええと……」
 しどろもどろになる名前を、犬飼はますます愉しそうに眺めた。そしてしばらく名前の周章ぶりを堪能してから、
「あ、もしかして告白の返事?」
「ひえっ」
 いきなりずばりと切り込まれ、名前は情けない悲鳴を上げた。

 ・

「おれ、名前ちゃんのことが好きみたい。良かったら、おれと付き合ってくれませんか」
 放課後の三年D組の教室で、名前が犬飼に告白されたのは、今から三日前のことだった。その日名前は、犬飼とともに授業後の教室に残って、日直日誌を仕上げていた。ペンを走らせているのは名前ひとり。犬飼は名前の文字を目で追っているだけだった。
 はっきり言えば犬飼がそこにいる必要はどこにもなかった。日誌なんて、ひとりいれば十分書ける。もしも犬飼が一緒に日直をしていたという義務感でそこに居残っているのであれば、いつでも帰ってくれて構わないと名前は思っていた。
 犬飼が唐突に告白したのはまさに、そんな白けた空気が薄く流れるときだった。
 それまで名前と犬飼は同じクラス、ボーダー所属という共通点こそあるものの、ほとんどまともに会話を交わしたこともなかった。人あたりのいい犬飼は男女を問わず人気があったが、反対に引っ込み思案で友達の少ない名前にとっての犬飼は、話しかけるなど論外の雲上人にも等しい存在だった。
 犬飼にしても、わざわざ名前のやんわりとした消極的拒絶を無視してまで、名前に話しかける用はなかったのだろう。元A級隊員と、組織の下っ端、ぎりぎりどうにか組織の裾に引っかかっている程度の名前では、同じボーダー所属といっても共通点はほとんどない。これまで同じ教室の空気を吸いながら、ふたりの接点はほとんど皆無に等しかった。
 とはいえ、互いに相手を意識していなかったというわけではない。名前が犬飼を雲上人と見做すほどではなくても、犬飼も名前を認識くらいはしていた。
 防衛任務を担う各隊員はともかく、裏方ともいうべき仕事に従事する高校生は、ボーダー内にもそう多くない。目立たぬ部分の業務従事者は一般の民間企業と同様、その大多数を社会人が占めている。名前の資質とは無関係に、名前の立場は珍しくて人目を引いた。
 閑話休題――
 日直日誌を仕上げていた名前は、唐突すぎる犬飼からの告白に、完全に思考を停止した。ただでさえ犬飼とふたりでの日直で、名前のキャパシティは大幅に圧迫されている。そこにきての、犬飼からの告白。自分の置かれている状況を処理するのに、名前は束の間時間を要した。
「え……?」
「あはは、聞き返しちゃうか。好きだよって、告白したつもりだったんだけど」
 犬飼が言葉を加えたところで、名前の混乱はより深まる。
(告白? 好きだよって、告白……?)
 復旧中の脳で、名前はぐるぐる思考をめぐらせる。愛の告白というのなら、犬飼の言葉は少しばかり重みが足りていない。
 名前は異性に愛の告白をしたことなどない。だがもしもそういう機会があるとすれば、もう少し言葉を選び、必死の形相で告白するはずだ。間違っても椅子に反対向きに腰かけて、くるくるとペンを回しながら告げたりはしない。
(というか、犬飼くんが、私に? 私を? なんで?)
 名前の頭の中を疑問が埋めつくす。訝しさが、犬飼への淡い拒絶感に勝った。
 つと視線を上げ、名前は犬飼の顔を見る。その瞬間、自分の顔のすぐ目の前に犬飼の顔があることに、名前は驚き息をのんだ。
 ひとつの机を、前と後ろから挟んで座っている。互いに机の上に身を乗り出していれば、その顔が近づくのは自然なことだった。けれど日誌にばかり目を落としていた名前は、そのことに気付いていなかった。だから目が合った瞬間に、名前は弾かれたように顎を上げ、犬飼から顔をそらした。
(び…………っくりした!)
 慌てて椅子から立ち上がる。がたがたみっともなく椅子が鳴る。立った瞬間、椅子の座面が張り出した部分で、名前は膝の裏をしたたかに打った。痛みに上げかけた小さな悲鳴を、名前はどうにか飲み込んだ。
「ご、ごめんなさい……!」
 顔が近かったことへの謝罪のつもりだった。だが、犬飼はにんまりと目を歪めて笑った。
「え、それ告白の返事?」
「違う!」
「じゃあ告白の返事はOKってこと?」
「それも違う!」
 けたけたと笑っている犬飼に、名前は膝の裏の痛みと羞恥心がごたまぜになって、泣きたくなった。告白。告白。意味が分からない状況ではあるが、犬飼が自分に好意を伝えているらしいということだけは、どうにかこうにか理解する。
 理解はしたが、受け容れることはできなかった。
「日誌、出してくるので! さようなら!」
 引ったくるように鞄と日誌を掴むと、名前は転がり出るように教室を飛び出した。

 顔が熱くて、目の奥がじんじんする。廊下を全力疾走していると、次第に先程までの犬飼との遣り取りがすべて、自分の妄想か何かのように思えてきた。
 バカげている。ありえない。
(あの犬飼くんが、私のことを好きになるだとか)
 顔の表面がひりひりして、痛みと痒みがいっぺんに襲ってきたようだった。息が苦しい。わきばらが刺すように痛む。めちゃくちゃな呼吸で、慣れない全力疾走をしたせいだった。
 ゆっくりと足を止め、来た道を振り返る。そこには誰の姿もなく、ただ放課後の森閑とした廊下が伸びているだけだ。窓からさしこむ光を反射し、埃が舞うようにちらちら光っている。
 犬飼が追いかけてきていないことに、ほっとした。
 制服のそでで、ひりついた頬をごしごし拭う。ふと窓にうつった自分の顔を見ると、頬が痛そうなくらいに真っ赤になっていた。直前に袖でこすったせいだろうと名前は思った。そうでなければ、こんなに真っ赤になるはずがない。
 名前は長く深い息を吐き出して、ふたたび歩き出す。とぼとぼと力ない足取りで、職員室にゆっくり向かった。犬飼がもう教室を出たのか、どんな顔をしているのか、どういうつもりなのか。それらの疑問を、名前は考えないことにした。

 それ以来、学校でも本部基地でも、名前は犬飼とふたりきりになるのをかたくなに避けてきた。犬飼の方も名前を追いかけ回すようなことはしなかった。そうして距離をとっているうちに、名前はだんだんと告白の件は何かの間違いかいたずらだったのではないかと、そう思うようになりつつあった。
 そうだ、そうに決まっている。名前は自分が犬飼に対して褒められた態度をとっていないことを知っている。だから犬飼に嫌われることこそあったとしても、好かれる理由などひとつもない。ないはずだった。
 もちろん悪戯で告白なんて、かなり悪質ではある。しかし本気で告白をされるよりは、悪戯の方がいくらかましだと思えなくもない――
 そんなふうに考えていた名前の希望を、犬飼はいとも容易く打ち砕いた。
「あれ、まさかと思うけど忘れてたりする? 大丈夫? おれこの間、名前ちゃんに告白したつもりだったんだけど。もう一回告白しなおした方がいい?」
 笑みを崩さないまま尋ねる犬飼に、名前はぶんぶんと首を横に振った。
「大丈夫! 間に合ってます!」
「そう?」
 今度は勢いよく首肯を繰り返す。脳震盪になりそうなくらい激しい頭の動きに、視界がぐにゃりとぐらついた。
「あはは、名前ちゃん顔真っ白だ。告白されて真っ赤になるなら分かるけど、真っ白になるのはどういう心境のあらわれなの?」
「あっ、あの、犬飼くんっ」
 もう、やめてもらえないでしょうか。
 しかし名前がそう続けるより先に、犬飼が機先を制した。
「なに? 返事の準備ができてるなら、おれはいつでも聞くよ?」
 あくまで余裕たっぷりの犬飼の態度に、名前は反論する気をごっそり削られた。
 きっと犬飼は名前の気持ちを分かっていて、なおもわざとやっている。狼狽える名前をおもちゃにしているのだ。
 そこまで分かっているのに、犬飼を目の前にすると拒み切れない。そんな自分が、名前は情けなかった。
 いや、拒んでいることには拒んでいる。少なくとも、名前にできる精いっぱい、全身全霊で犬飼を遠ざけているのだ。これが拒んでいないはずがない。
 ただ、告白に否の返事をできない。
 それが名前の致命的な欠点で、そして同時に犬飼の付け込む隙でもあった。
 顔を俯け、名前は肩を震わせる。犬飼に否を突き付けられない理由なら、名前は嫌というほど自覚していた。犬飼とはまったく何の関係もない、名前の個人的な記憶。それが原因で、犬飼の告白をしりぞけることができないでいる。
 結局今も、名前にできるのは弱弱しい拒絶と、その場からの逃亡だけだった。
「し、仕事に遅れるのでまた後日っ!」
 言うが早いか、名前は犬飼の返事も待たずに駆け出した。犬飼が追いかけてこないだろうということは、すでに学習済みだった。

 ・

 名前の背中が小さくなっていくのを、犬飼は笑みを崩さぬまま見送る。お世辞にもスマートな逃亡とはいえない名前のばたついた姿に、犬飼は日頃心の奥底に沈ませている欲が煽られるのを感じた。
(可愛いなぁ)
 皮肉でもなんでもなく、本心からそう思う。だからこそ、思いを自覚してすぐに名前に告白したのだ。どうせ片思いをするのなら、その期間にも名前に意識してもらっていた方が話が早い。そんな打算が犬飼にはあった。
 告白の効果はてきめんだった。名前は過剰なほどに犬飼を意識するようになった。
 しかしいきなり告白の返事を求めたところで、気の小さい名前が怯えることは分かり切っている。雑談をまじえて多少気持ちをほぐしてから切り込む――緩急をつけることでうっかり望み通りの返事を引き出せたりしないかとも思ったのだが、さすがにそこまで簡単ではなかった。そもそも名前は犬飼に好意など持っていないのだから、望んだ返事をもらえたとして、それが名前の意に沿わないものであることくらい、犬飼にもよく分かっている。
 好かれているどころか、避けられている。嫌われているわけではなさそうなことだけが救いだが、それは嫌うほど犬飼のことを知っているわけでなく、嫌うに至るほど積極的な感情を、名前が犬飼に対し持っていないという事実の裏返しでもある。
「どうしたら、好きになってもらえるかな」
 名前の目は、犬飼をけして映さない。かたくななほどに、名前は犬飼から目をそらす。何故名前に避けられているのか、犬飼には思い当たる理由はなかった。
 ほんの一瞬だけ、名前が自分を好きであるがゆえに照れているという可能性も考えた。だが犬飼は、すぐにその可能性は捨てた。もしもそうなら、名前の態度にもう少し隙と可愛げがあるはずだ。
 結局、どれだけ考えたところで答えは分かりそうになかった。犬飼は早々に、真相を追及するのをやめにした。
 早々に名前に告白したのは、意識してほしかったからという打算によるところが大きい。だが手っ取り早く名前の視界に入りたかったというのも、犬飼が告白した理由のひとつだった。嫌われるにせよ意識してもらえるにせよ、意味も分からずただ避けられているだけなのは不毛だ。それならば無理やりにでも視界に入る方が、遥かにましなように思えた。
 だが、今の状況は犬飼にとって望ましいものではない。
「正攻法で逃げられるなら、搦め手で攻めた方がいい……かな?」
 模擬戦の作戦でも考えるような気軽さで、犬飼は微笑みまじりにひとりごちる。搦め手の策をとれば、もしかすると今以上に、名前は犬飼に対して心を閉ざすかもしれない。だが、こうして不意打ちを狙って逃げられ続けていては埒が明かない。諸刃の剣でも、やってみないことには始まらない。
「まあ、失敗したらリカバリーするだけだ」
 犬飼がひとり笑みを深めたそのとき、名前の背すじを凄まじい悪寒が走ったことは、蒼褪めた名前以外には誰も知らない。

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