ここは眩しすぎる夜長@


 ※犬飼・夢主共に大学進学後設定


 犬飼澄晴は悩んでいた。
 元来、犬飼はそうくよくよと思い悩むたちではない。考えて答えが出ることならば即断即決するし、そうでなければ考えるのをやめにする。名前とのことにしても、普段の犬飼はあまり悩んだりしない。そもそも名前と付き合うにあたって、犬飼が頭を悩ませなければならないほどの問題は、そうそう持ち上がらない。
(名前ちゃんとは、拍子抜けするくらい、うまくやってる)
 だが、今目の前に広がる光景はどうだろう。これという脅威もなく、犬飼の中で堅牢なものとなりつつあった、『名前ちゃんとの付き合い安泰説』は、いとも容易く揺るがされている。
 今、犬飼がいるのはラウンジの片隅――が確認できる位置にある、柱の影。B級ラウンド戦夜の部も終了し、ラウンジに普段溢れているC級隊員の姿はほとんどない。だから犬飼が柱の陰にいたところで、誰が不審に思うこともない。
 その犬飼が柱の影から見守っている先にいるのは、犬飼を待つ私服姿の名前と、隊服姿の荒船だった。
 意外な組み合わせだが、意味が分からないというほどではない。先日、犬飼が荒船と穂刈とともにいるところに、たまたま名前と鉢合わせた際、犬飼が仲立ちになって双方を紹介した。だから名前と荒船は、親しくしているわけではないとはいえ、一応、顔見知り程度の知り合いではある。
 しかし、その程度の付き合いにしては――
(名前ちゃんがおれと付き合ってそこそこ経つけど、名前ちゃん、おれの前ではなかなか笑わないのにな)
 荒船と楽しげに談笑する名前の笑顔を眺め、犬飼は思った。
 ラウンジの壁を背にして、壁際に置かれたベンチの前に立った名前は、通りかかったらしい荒船と何やら話し込んでいる。ベンチの前に立っているのは、そこに座って犬飼が来るのを待っていたが、荒船が来たので腰を上げたからだろう。名前の性格を考えれば、相手に立たせて自分だけ座って会話をしたりはしない。
 荒船と名前の間に流れる空気は、意外にも気安い。犬飼の胸に、不安というほどではない小さな違和感が、ざらりとぎる。
(荒船と名前ちゃんがどうこうなる、とはまったく思わないけど……)
 諏訪にせよ影浦にせよ、名前は内気で人見知りのわりに、相手のふところに潜り込むのがうまい。犬飼の見るかぎり、名前は面倒見のいい人間がついつい手を貸したくなるような性質をしている。
 一方の荒船も、名前が気を許しやすい気さくさを備えている。名前にしてみれば、それこそ初期の犬飼よりはよほど打ち解けやすい相手に違いない。
 不愉快とまでは言わない。しかし犬飼にとって、面白い話でもないのはたしか。
 もともとが影浦に対する名前の笑顔を見初め、告白するに至った犬飼だ。だから当然、犬飼は名前の笑顔がほしくて付き合っている。だというのに、名前は付き合ってしばらく経つ今もなお、犬飼に対して無邪気な笑顔を見せることはない。
 ほほえみや照れ笑いのようなものならば日常的に見せるものの、犬飼が最初にほしいと思った笑顔は、そんな淡いものではない。告白した当初は、付き合ってさえしまえばどうとでも手に入るだろうと高をくくっていた犬飼だが、実際にはそう首尾よく事は運んでいなかった。
 それなのに、名前は今、荒船に対して屈託なく笑顔を向けている。
(それはちょっと、ひどいんじゃない?)
 何ということも無さげな表情の裏側で、不貞腐れる犬飼。と、犬飼が声もなくふたりを観察していると、ふいに荒船が顔をあげた。荒船と犬飼の視線がぶつかる。
 つられて名前も視線を荒船から、荒船の視線の先へと移す。そこでようやく、名前は犬飼に気が付いたようだった。
「あ、犬飼くん」
「よう、犬飼」
 名前と荒船が、声を揃えて犬飼を呼んだ。
(やけに気が合ってる……)
 他意はないのだろうが、面白くない。不満を押し殺し、犬飼はふたりの方へと近寄った。
「お待たせ、名前ちゃん。荒船は休憩中? どういう流れでこういうことになってるの?」
 矢継ぎ早に尋ねると、名前が困ったような顔で荒船を見て、それから「ええっと」と口を開いた。
「ここで犬飼くんのこと待ってたら、たまたま荒船隊長が通りかかって」
「『おつかれさまです、荒船隊長』って挨拶されたから、つっこみどころしかないなと思って話しかけた」
 名前の言葉を引き継いで、荒船が言う。つっこみどころというのは、名前からの『荒船隊長』という呼び方のことだろう。
 正隊員ではなく運営職員である名前は、基本的には正隊員のことは一律「隊長」「隊員」と役職呼称で呼ぶ。相手が年下であろうと敬語を崩すこともない。例外は犬飼と影浦隊の隊員くらいのものだ。
「さすがに、荒船隊長のことを荒船くんとお呼びするのは」
「なんでだよ。犬飼のことは犬飼くんだろ」
 たじたじと返す名前に、荒船はすぱすぱ切り返す。
「いや、でも、犬飼くんはクラスメイトだったので……」
「俺も同じ学年だぞ」
「でも、荒船隊長はほら、同級生以前に隊長でいらっしゃいますので」
「いらっしゃらないだろ」
「いらっしゃらないー……」
 荒船に完全に反論を封じられ、名前はがくりと肩を落とした。しょげる名前に荒船は「まあ、呼びやすい呼び方でいいけどな」と今更すぎるフォローをする。
「じゃあ、荒船隊長、で……」
 名前がしょんぼり肩を落としたまま答えた。
 そんなふたりの遣り取りを、じっと無言で見つめる犬飼。普段ならば弁の立つ犬飼がこれほど黙っているのも珍しい。その沈黙は、かえって犬飼の存在感を増していた。
「犬飼くん?」
 犬飼が最初の一言以来まったく言葉を発していないことに気付き、名前が首を傾げて犬飼を見上げる。犬飼は、すばやく思考を巡らせた。
(今は余計なことは言わない方がいいか)
 荒船の前だということもある。犬飼はうすい笑顔を顔に貼り付けて、名前と荒船に交互に視線を向けて答えた。
「名前ちゃんに友達が増えてよかったなと思って」
「は? なんだそれ」
「隊員同士でどっかご飯食べに行くときとか、名前ちゃんのこと誘いやすくなるでしょ」
「さすがにそこに割り込んでいく勇気はないよ……」
 困った顔をして呟く名前。犬飼は日頃から連絡がまめなので、誰かと食事に行ったときには大抵その旨の連絡を名前に遣る。写真が添付されていることもあるが、犬飼と一緒にいるのは大抵、名前とは面識のない、あってもほとんど言葉を交わしたことがないような隊員たちだった。
「大人数で飯行くときも多いから、苗字ひとり増えたところで気にならないとは思うけどな」
 気遣いの言葉を添える荒船。続けて、
「しかしまあ、男ばっかのときのが多いっていうので、苗字が居づらいってのはあるかもな」
 と言い添えた。
「たしかに、それはそうですね……」
 名前が頷く。もしそんな場面になったとして、名前はおそらく犬飼くらいとしかまともに話せない。それはさすがに、場の空気への配慮がなさすぎる。
「でもおれ、女子とごはん行かないしなぁ」
「なんだ、いい彼氏アピールか?」
「いやいや。単に一緒にごはん行くほど仲いい女子の友達っていないなって話」
「氷見は」
「ひゃみちゃんとごはん行く時は、ふつうにうちの隊全員でって時かな。作戦室でふたりとかにはなるけど」
 そんな話をしていたところで、荒船がふいに壁の時計に視線を遣った。荒船は腕をあげると、キャップをかぶりなおす。
「さて。俺はそろそろ行くか」
「そっか。じゃあね、荒船」
「失礼します、荒船隊長」
「おー、またな」
 ふたり揃って荒船を見送ってから、名前と犬飼も踵を返した。今夜はこのまま、犬飼の部屋に泊まることになっていた。

 肩を並べて、基地を出る。すでに夜の帳がおりた街には、しっとりとした空気が満ちている。基地から犬飼の暮らすマンションまでの道順も、すでにすっかり馴染みのものになっていた。途中、マンション近くのコンビニで翌朝の朝食用のパンと飲み物を買い足し、手を繋いで帰路につく。
 マンションまでもう僅かとなったところで、そういえば、と犬飼は切り出した。
「荒船とふつうに話せてたから、結構びっくりした」
 そう言う犬飼に、名前はぎこちなく笑う。
「え、そ、そうかな? かなりドキドキしてたんだけど」
「ドキドキしたんだ? 妬けるー」
「全然違うの分かってて、そういうこと言うよね」
 溜息を吐く名前。犬飼は声を立てて笑う。笑いながら、犬飼は以前、名前が犬飼の恋人として人からいろいろ言われないように頑張っているところ、と言っていたことを思い出した。
 名前が緊張していたことは、犬飼の目にも明らかだった。だが一方で、犬飼が思っていたよりずっと、名前は自然に話せていたとも思う。ひとえに荒船の懐の広さゆえではあるのだろうが、名前の努力も多少はあるのだろう。
 犬飼は名前の友人との交流もそつなくこなす。生来、人付き合いは苦手でないし、むしろ得意な分野だ。だが名前には、そういう器用さはまるでない。犬飼もその辺りを名前に期待しているわけではなかった。それでも、名前にも名前なりに、思うところがあるのだろう。
(手始めとして、荒船との会話に積極的に挑む、ということだったのかな)
 真面目だが、ずれているとも思う。犬飼はふっと笑みをこぼした。二宮隊の面々はともかく、犬飼は別に、自分以外の隊員が名前と親しくする必要を感じていない。
 そんな犬飼の呆れ混じりの苦笑は、夜闇にまぎれて名前に気付かれぬまま消えた。名前は犬飼の気も知らず、呑気にとことこ歩いている。
「犬飼くんにこの間紹介してもらったときにも思ったけど、荒船隊長とか、あと蔵内隊員とかは、私にとっては同級生っていうよりも正隊員の方って感じだよ」
「へえ。おれは?」
「犬飼くんは、さっき荒船隊長にも言ったけど、同じクラスだったから……。それに隊員の犬飼くんと話すより、クラスメイトの犬飼くんと話す方が先だったよね」
「それはあるね」
 そう言いつつ、犬飼にはいまひとつぴんと来ていない。しかし名前と犬飼の、ボーダー内での立場の違いもあるのだろうと、どうにか納得することにした。いずれにせよ、自分がほかの同級生隊員たちとは違う立ち位置に置かれているというだけで、犬飼には不服などない。
 ふと、犬飼は名前が役職呼称で呼ばない、自分以外の例外の存在を思い出す。
「カゲたちは?」
 話の流れからして、これは名前も聞かれるかもしれないと思っていたのだろう。犬飼が影浦の話を持ち出すさい、名前がたびたび見せる引き攣った顔もせず、名前はさらりと答えた。
「カゲくんのことも最初は『影浦隊長』って呼んでたよ」
「えっ、そうなんだ」
 意外な事実に驚く犬飼。名前が頷く。
「カゲくんこそ、馴れ馴れしくしてたら怖そうだしね……。でも何回か話すうちに、カゲくんから鬱陶しいからやめろって言われて、それもそうかなと思ってやめました」
「『影浦隊長』から、いきなり『カゲくん』になったの?」
「最初は『影浦くん』だったかな。忘れちゃったけど、仁礼さんにつられてだんだんそんな感じに」
「そのわりに仁礼ちゃんのことはヒカリちゃんって呼ばないよね」
「仁礼さんは仁礼さんだから」
「何そのこだわり」
 犬飼が笑って言うと、名前もくすくすと目元をやわらげた。夜のしずけさにふさわしい、控えめな笑顔。犬飼にとっては、すっかり見慣れた名前の笑い方だ。しかし――
(やっぱりさっきみたいには笑わないな)
 荒船に笑いかけていたときの名前は、もっと屈託なく、もっと開けっ広げな印象だった。名前の慎ましやかさは嫌いではないし、むしろ好ましく思っている犬飼だが、それとこれとは話が違う。
 名前と話しているうちに遠退とおのきかけていた欲――まだ手に入れていない、犬飼の恋心のしょとなった、名前の笑顔を求める欲。その飢えに似た感覚が、にわかに胸中で首をもたげた。
「犬飼くん、どうかした……?」
「え?」
「なんだかぼーっとしてたから」
 心配そうに、というよりは不思議そうに、名前が犬飼の顔を覗き込んでいる。犬飼はへらりと笑って誤魔化そうとして、やめた。
 先程は荒船の前で言い合う事態を避けたくて誤魔化したが、今はそういう心配はない。むしろこの件について名前がどういう反応を示すのか、犬飼には興味があった。
(きょとんとするにせよ、蒼褪めるにせよ、頭を悩ませはするんだろうな)
 名前の頭の中をいっぱいにするというのは、なかなか悪くない。それは付き合う前から今に至るまで、犬飼が一貫して持っているひとつの性癖のようなものだ。
 意味深に一拍置いてから、犬飼は口を開いた。
「前から思ってたんだけど……名前ちゃん、カゲや荒船には普通に笑うのに、おれにはあんまり笑わないよね?」
 その問いに、犬飼の目論見通り、名前が「えっ」と声をあげる。
「そ、そんなことはないよ……? え、私笑ってるよね?」
「名前ちゃんは気付いてないと思うけど、おれ、ほほえみ程度しか見せてもらったことないよ」
「えぇ……そう? そうなの……? そうかな……?」
 名前と犬飼の視線が、宙でぶつかり絡みあう。名前の目には白々とした月と、暗闇の中ですら分かるほどの困惑が滲んでいる。嘘のつけない名前のその瞳を見て、犬飼は安堵とざわつきを同時に覚えた。
 犬飼にとっては切実な問題だが、名前の方にその意識はなかったのだろう。そもそも意識的に笑顔を振りまく相手を選べるほど、名前は器用な人間ではない。ずるさはあるが、大抵それは無意識にやっている天然ものだ。狡猾さとは程遠く、いっそ不器用で鈍感な人間に近い。
 そのことは犬飼も分かっている。だから荒船や影浦に笑顔を向けているのも、犬飼に同じ笑顔を向けないのも、すべては名前にとって無意識のことであるはずなのだ。
 だからこそ――苛立たしい。
(あ、おれ、いらいらしてるのか)
 唐突に、腑に落ちた。きっと今、犬飼が「笑ってほしい」と言葉にして頼んだら、名前は躊躇いながらも犬飼に笑いかけるだろう。自分以外が、努力なしで享受しているそれを、犬飼はこいねがわなければ与えられない。犬飼の人生において、そんなことは一度もなかった。
 犬飼の纏う空気に普段の彼らしくないものを察してか、名前が口をつぐむ。
 束の間、気まずい沈黙がその場に落ちる。
 先に口を開いたのは犬飼の方だった。
「一応言っておくけど、これいじめてるとか、責めてるわけじゃないからね?」
「え、そうなの……?」
 本当に驚いたという顔をする名前。犬飼は思わず笑ってしまった。
「そうだよ。だって名前ちゃんがわざとそういうことしてるわけじゃないってことくらい、おれでも分かるから」
「そ、それはもちろん!」
 勢い込んで名前は答える。犬飼は名前と繋いでいる方の手の親指で、名前の手の甲をするりと撫でた。
「ちゃんと分かってるから大丈夫だよ」

prev - index - next



- ナノ -