愛の純度

 ランク戦夜の部をひかえたラウンジは、いつもならばたむろしている隊員たちの多くが観覧席に流れていることもあり、平時よりやや閑散としている。今日の仕事を退勤したばかりの名前は、名前とタイミングをあわせて休憩をとったらしい犬飼とともに、ランク戦までの短い時間を人のまばらなラウンジで過ごしていた。
 このところ犬飼はボーダーの方が忙しく、学校にもあまり顔を出せていない。たとえ短時間顔を出せたとしても、名前と学校で話をすることはまずない。名前も名前で受験に備えてボーダーでのシフトを減らしているので、こうして顔を合わせて話をするのは、少し久し振りのことだった。
 隊服のまま現れた犬飼に、名前は手元の単語帳から顔をあげて挨拶する。のんびりしているほどの時間はない。挨拶と近況報告を互いに手短に済ませたところで、名前は本題を切り出した。
「ちょっと聞きたことがあるんだけど……犬飼くん、もしかして彼女ができたって話、あちこちで吹聴してたりする?」
 疑わしげな目をする名前に、犬飼は「してないよ?」と即答する。
「だって名前ちゃん、おれと付き合ってるって広まるの嫌でしょ」
「……なんか犬飼くん、言い方に棘がない?」
「そんなことないって、気のせい気のせい」
 へらっと笑って躱す犬飼。しかし今のはどう考えても、露骨に含みのある言い方だった。
「言いたいことがあるなら、直球で言ってもらいたいんだけど……」
「いや、そういうのはないかな。これは本当」
「じゃあさっきのは嘘なんだ……」
「今のは言葉の綾じゃん」
 久し振りに話すのに相変わらず飄飄としている犬飼に、名前は口をとがらせる。とはいえ犬飼がこういう卑屈な物言いをするときは、十中八九自分を困らせたいだけなのだと、さすがに名前も分かってきた。名前がむっつり口を閉じると、犬飼は「名前ちゃん、スルーが上手になったね」と、褒めているんだか貶しているんだかよく分からないコメントを口にした。
「それで、話題を戻すけど。名前ちゃんはどうしてそう思うの? おれがあちこちで吹聴してるって」
 会話の主導権をあっさり犬飼に奪われて、名前は内心で溜息を吐いた。
(まあ、いいんだけどね……)
 はなから犬飼相手に口で遣り合えるとは思っていない。名前は気持ちを切り替えると、すばやく周囲に視線を走らせた。誰も自分たちに注意を向けていないことを確認してから、名前は声をひそめて答えた。
「なんか、ここ数日やたらと視線を感じるなぁ、と思って」
「へえ。そうなんだ。名前ちゃんの自意識過剰じゃない?」
 邪気なくにっこり笑う犬飼。その返答に、名前は深く嘆息した。
「犬飼くん、さては何か思い当たることがあるんだね?」
「え、なんで?」
「必要以上にきつめの言葉使ったから。今のはあんまり露骨だったから、やましいことがある人っぽかったよ」
「意外と鋭い」
「じゃあやっぱり心当たりがあるんだ」
 呆れかえった顔をして、名前はもう一度溜息を吐いた。
 悪戯半分に揶揄ってきたり、やたらと相手の反応を窺うようなことはするものの、犬飼は基本的には善良な人間だ。根底に悪意がないから、慣れてしまえば犬飼の言動の解釈はさほど難しくない。常識や良識もきちんと兼ね備えているぶん、もしも突飛な発言があったとしても、その裏には確実に犬飼なりの意図があるとすぐに分かる。
 名前相手に露悪的な物言いをするのなら、何かそれだけの理由があるのだろう。たとえば強い言葉を使うことで、相手にそれ以上追及させる気を失くさせたいだとか。
(根がいい人って知ってるから、筋が通ってないことや必要以上にきつい言葉を使うと、逆に浮いて聞こえるんだよね)
 そんな名前の犬飼評を、もちろん犬飼は知る由もない。溜息を吐く名前の憂い顔をしばらくにこにこ眺めてから、おもむろに犬飼はテーブルに頬杖をついて言った。
「うーん、まあ。心当たりってほどのことでもないんだけど」
 頭を振って目にかかった前髪を除けた犬飼は、ふいに冴え冴えとした瞳をまっすぐ名前に向ける。
「名前ちゃん、おれと付き合ってること、周りに話したりする?」
「えっ、何、急に」
「ほら、答えて」
 浮かべる笑みとはうらはらに、犬飼の口調には有無を言わさぬ強引さがある。よく分からず釈然としない思いを抱きながらも、名前は首をひねって答えた。
「まったくってほどではないけど、あんまり話さないかな……。聞かれたら、言うかもしれないなってくらい」
「そもそもあんまり聞かれないの?」
「隊員の人たちと違って、こっちの職場は大人がほとんどだから。恋愛のことに限らず、あんまりプライベートの話をしたりしないよ」
「あ、そうなんだ」
 むしろ名前が自分の話をするとすれば、自部署の先輩よりも年の近い隊員相手のことがほとんどだ。恋愛の話を影浦たちにはしにくいので、犬飼とのことに関してはもっぱら仁礼くらいにしか話していなかった。
「あとは高校で何人か聞かれたから、一応話しはしたけど……、でもそれも噂話とかあんまり興味無さそうな子にしか話してないかな」
「ふんふん、なるほど」
「犬飼くんは違うの?」
 犬飼の打つ相槌に、名前は首を傾げた。
 名前の予想では、犬飼も名前と付き合っていることは、そう大っぴらにしていないはずだった。もっとも、犬飼の交友関係は名前とは比べ物にならないほど広いので、知人の母数が違うぶんだけ話す相手も多いだろう。そのくらいは名前も覚悟している。
「おれも基本的には、自分からべらべら話したりはしてないよ」
 しれっと答える犬飼。名前は目をすがめた。
「基本的には……?」
「たださ、やっぱり彼女がいるからってはっきり明言した方が、話がスムーズなときはあるからね」
「そんなとき、ある?」
「時々はね」
 やたらに含みを持たせた言い方をして、犬飼はほほえむ。その笑みの意味が分からず、名前はしばらく頭を悩ませた。が、ふいに視界を横切った見覚えのあるC級の女子隊員の姿を見た瞬間、名前の頭の中でひらめきが弾けた。
「あっ、もしかして犬飼くん、私のこと女子避けに使ってる!?」
「あはは、ばれた?」
 悪びれもせず笑っている犬飼に、名前は脱力する。言われてみればたしかに、決まった相手の存在をほのめかすことで身を引く女子はたくさんいるだろう。犬飼がいわゆるモテる男子であることは、名前もよく知っていた。
 しかしながら名前の日常の中には、愛の告白も、意中の相手に攻勢をかけることも、まったく存在していない。そんな名前にとっては、異性避けのために恋人の存在を利用するなどという発想は、まったく思いもよらないものだった。
「あ、あぁー……、そういう……なるほど、そういうことなんだ……」
「女子避けっていうと語弊があるけどね」
「いや、ないんじゃないかな。事実だし……」
「嫌だった?」
「ううん、そういうわけではない。大丈夫」
 役に立たない彼女よりは、多少なりとも役に立つ彼女の方がましだ。たとえそれがカラス避けのために設置された案山子かかしか、ベランダに吊るされているCDレベルであっても。
 と、名前はさらなる可能性に思い至る。
「というかもしかして、犬飼くん、私の写真見せたりもしてる……?」
「場合によっては」
「なるほど、そういうこと……。すべて、繋がりました」
 どうりで、見知らぬ相手に顔をじろじろ見られるわけだった。そりゃあB級一位――元A級部隊所属の、顔立ちが整った優秀な隊員に彼女ができたとなれば、そしてその彼女の写真をほかでもない犬飼が見せびらかしているのであれば、あっという間に彼女の顔も広まろうというものだ。
 犬飼が名前を追いかけているという噂が立ったときにも、名前は一時注目の的になった。だがあの時はまだ、顔が割れてまではいなかった。人目を忍んでいたのは名前がやたらとびくびくしていただけで、実際には名前とメディア対策室という所属くらいしか知られていなかったはずだ。たとえ噂を耳にしたうえで廊下で名前とすれ違ったとしても、相手が噂の渦中の人物だとは気付かなかった隊員が大半だったに違いない。
「あ、でもみんなに写真見せてるってわけじゃないよ」
 犬飼が笑顔で付け足す。そのほほえみに、まったく反省の色はない。
「参考までに聞くけど、見せる見せないの基準は?」
「写真を見せたとして、『このレベルなら勝てる』って名前ちゃんに対して思いそうな、マウンティング思考の強そうな相手には見せてない」
「ご配慮どうもありがとうございます……」
 顔が割れているわりに絡まれるわけではないのも、これで完全に納得がいった。犬飼は犬飼なりに、相手をふるいにかけている。そのうえ名前が注目を浴びる以上に不快な目に遭わないように、最低限のコントロールはしているというのだ。名前は文句を言う気も削がれ、疲れた人間のように眉間を二指で揉んだ。
(これは配慮というよりも、バレたときに私が文句つけそうなところを確実につぶしておいた、って感じかな……)
 その辺り、犬飼は以前から徹底している。なんだかんだと犬飼に振り回されているはずなのに、いまひとつ名前が文句を言い立てられないのは、犬飼の用意周到さゆえだ。
(こういうのを丸め込まれてるって言うのかもしれないけど)
 だからといって、不服を申し立てる理由も、それだけの気力も今の名前にはなかった。それに、たとえ言い返したところで、さらに念入りに丸め込まれるのは分かり切っている。
「まあ、いいや。謎が解明できたから、ひとまずよかったよ」
 疲れた口調で言う名前。犬飼が意外そうに「あれ?」と呟いた。
「これ、おれ、お咎めなし?」
「……犬飼くん、お咎めほしいの?」
「そういうわけじゃないけど」
 依然眉間を揉みながら、名前は顔を上げて犬飼を見た。犬飼の笑顔はぎこちない。というより、片方の口の端だけを上げたいびつな笑い方は、見ようによっては顔を引き攣らせているようにも見える。
 おや、と名前は思う。
(犬飼くんなら、自分の正当性をがんがん主張してくるかと思った)
 犬飼の思いがけないリアクションに困惑しつつ、名前は言葉を探した。
「えーと……だって、女の子の方から寄ってくるのは、犬飼くんの場合、仕方ないことだよね? あんまり相手のこと邪険にして、ボーダーの評判下げるわけにもいかないだろうし」
 一介の男子高校生ならばともかく、犬飼はボーダー隊員。B級上位チームに所属している以上、ほかの隊員の規範となるべき行動を求められるのは当然のことだ。
 犬飼はトラブルの火種に対し、適切かはともかく、穏当かつ穏便に対処しただけのこと。名前が咎め立てなければならないようなことは、だから実際にはひとつもない。
 強いて不満を挙げるのならば、第三者に写真を見せるということについて、事前に名前に了承を求めてほしかったということくらいだろうか。しかしそれだって、犬飼ならば名前が了承せざるをえないだろうと、最初から分かっていたはずだ。名前を無用なトラブルに巻き込まないようにという配慮もあった。となれば、名前には文句をつける理由がない。
 そのようなことを、名前は訥々と犬飼に説明した。犬飼は黙って名前の話に耳を傾けていたが、名前が話し終えると同時に、
「名前ちゃんの言うことは、それもたしかにそうなんだけど。でも理屈じゃなくて感情の問題として、やっぱり嫌じゃないの?」
 と、やはりぎこちない顔でほほえんだ。
「犬飼くんの……というか、ボーダー隊員の彼女なんだから、このくらいは我慢するよ」
 名前がそう答えても、
「そういうことじゃなくてさ」
 どういうわけだか、犬飼はなかなか引こうとしない。その頑なさに、名前は首を傾げる。一目見て分かるほどの笑顔のぎこちなさといい、今日の犬飼はなんだかおかしい。
(逆に、犬飼くんは何にそんなに嫌がっていてほしいんだろう……)
 名前から無理難題を吹っ掛けられて困るというのならば、まだ分かる。しかしこれだけ理解を示しても不服そうにされるのでは、名前もどうしていいか分からない。
 訳が分からず困り果てる名前。今度は犬飼が溜息を吐く番だった。犬飼の口許はぎりぎり笑んでいるものの、眉尻はすっかり下がりきり、名前以上に困ったような顔をしている。
(理由は皆目不明だけど、私は犬飼くんのことを困らせてるらしい……)
 ともかく、それだけは名前も察した。
 しかし、このまま困り合っていても埒が明かない。名前は犬飼の様子を窺いつつ、おそるおそる切り出した。
「ごめんね、あの、犬飼くんが言ってることが、ちょっとよく分かんないんだけど……?」
 ボーダー隊員の彼女として、おそらく適切なふるまいをしているはずだという自負が、名前にはある。隊務規定に反することはしていないし、もちろん人倫と常識にもとる行為もしていない。
 困り顔同士を突き合わせる犬飼と名前。結果、折れたのは犬飼の方だった。
「こういうのをおれから聞くのは、結構なんというか忸怩たるものがあるんだけど……、名前ちゃんはおれがほかの女の子に言い寄られるって聞いて、少しもむかつかない?」
 頬杖をつくのと反対の手の手のひらを名前の方にひらりと向ける犬飼。「どうなの?」と問いを重ねるようなその仕草に、名前はますます困惑した。
「……なんで、むかつくの?」
「うわ、ひどい」
「いや、ひどいとかじゃなくて。なんでそれで、気分を害することになるの? 恋人が人気者って、それは喜ぶべきところ……なのでは?」
 本心から意味が分からず、名前は眉間の皺を深めた。
 たとえば嵐山隊の人気が増せば増すほど、同じボーダー所属として、名前はわがことのように誇らしい気分になる。嵐山隊の人気のためならば、裏方として汗を流すこともまったく苦ではない。実際、名前がしている仕事はそういう仕事だ。
「名前ちゃんが今考えてるその『人気』って、広報活動の賜物たまもの的な人気でしょ」
「うん」
「分かった。名前ちゃんの頭の中から、いったん嵐山隊に下がってもらおう」
 人気者と聞き名前が真っ先に連想したのが嵐山隊だと、犬飼にはしっかりバレていたらしい。犬飼は名前の脳内ステージに華々しく登場した嵐山隊に、無慈悲な強制撤退を命じた。
 その命にしたがって名前は渋々、嵐山隊に舞台袖まで下がってもらう。頭の中では舞台袖にはけていく嵐山隊に向けて、万雷の拍手の音がわんわんと、いつまでも轟き続けた。
 ありがとう、嵐山隊。ありがとう、あらじゅん。
「どう、嵐山さんたち下がった? 名前ちゃん」
「うん、頭の中のちびっこたちに惜しまれながら……」
「ありがとう。じゃあ、嵐山さんじゃなくておれのこと考えてね」
 そう言って、犬飼は名前の顔を覗き込む。最前までふざけていたわりに、犬飼の目は意外にも真剣そのものだった。
「名前ちゃんの言ってるスター的な『人気』じゃなくて、おれが言ってるのは、男が女の子に言い寄られるってこと。分かるよね? ちょっと目を瞑って、想像してみて」
「想像……」
「おれが可愛い女子に囲まれて、好きなタイプ聞かれたり、ご飯誘われたり、明らかにあやしげな恋愛相談されてるところを」
 嵐山隊の去ったステージに、今度は犬飼と美女軍団を登場させる名前。身体の前後左右にぐるりと可愛らしい女子をはべらせた脳内犬飼は、しかしそれだけの状況にありながらも、いつもの薄ら笑いを浮かべているだけだ。
「どう? 名前ちゃん、想像できた?」
「一応してみた、けど」
「嫌じゃない?」
「うぅーん……?」
「え、うそ。こんなに全然響かないことあるんだ」
 想像を中断し、名前がぱちりと目蓋を開く。すると犬飼にしては珍しく、心底驚いた顔をして彼は名前を見つめていた。
 どうやら、今の想像で名前に嫌な気分になってほしかったらしい。さすがに若干の申し訳なさを感じ、名前は己の想像力のなさを恥じた。とはいえ、うまく想像ができないものは仕方がない。犬飼の周りに女子がいるのは珍しいことではないし、犬飼が誰彼構わずでれでれした顔をしているところなど想像がつかない。
(犬飼くんが握手会で女子のファンと話しているところだったら、想像がつかないわけではないけど……)
 その場合でも、犬飼にとってはあくまで職務時間内のことだ。職務時間内にでれでれするような隊員は、ボーダーにはいない。もっとも、後から舞台裏で盛り上がることはあるかもしれないが。
 名前はちらりと犬飼を見る。無言の犬飼は、露骨に不機嫌そうにはしていないまでも、やはり発する空気がいつもより重かった。
 逡巡ののち、名前は尋ねた。
「あの、さっきの話だけど、たとえば犬飼くんだったら、」
「嫌だよ」
「う、即答」
 皆まで言う前に返されて、名前は余計にばつが悪い思いをするはめになった。名前は「犬飼くんだったら、嫌な気分になる?」と聞くつもりだったのだ。そこで犬飼にも「いや? 案外そんなことないかも」とでも言ってもらえれば、多少は空気が軽くなるだろうと思ってのことだった。
 しかし犬飼はここぞとばかりに、目を細めて名前をじっと凝視する。
「いや、そりゃ嫌でしょ。名前ちゃんがほかの男に色目使われてたら」
「色目……」
「おれの心が結構狭いの、名前ちゃん知らない?」
「……知ってる」
「正直者だ」
 にやりと笑う犬飼。もちろん犬飼が影浦とのことを言っているのだろうことは、考えるまでもなく明らかだ。
 未だ影浦隊と親しくしている名前としては、そのことを引き合いに出されてしまうと弱るほかない。仲良くするなとまでは言われていないが、犬飼が名前の交友関係を内心面白く思っていないことは知っている。知っているうえで、犬飼が容認しているうちは、名前も影浦隊との交流をやめるつもりはなかった。
 逆に言えば、だから名前は犬飼の女友達にどうこう言う気はない。ボーダーという組織に所属している以上、そんなことにいちいち目くじらを立ててもいられない。
「まあ、名前ちゃんはたとえおれが女子に言い寄られてても妬いたりしないだろうなって、薄々分かってたけどね」
 急にわざとらしく哀れっぽい声を出した犬飼に、名前は思索の世界から現実へ引き戻された。
「犬飼くん? なんか拗ねてる?」
「拗ねてないよ? ただ、おれの女の子をあんまり寄せ付けないようにする努力って、結局のところ自己満足だなって再認識しただけ」
「拗ねてるじゃん……」
(時々犬飼くんって面倒くさい……)
 そんなことを思いつつ、名前は犬飼に向け言った。
「犬飼くんの交友関係というか、女性関係については、私はいいも嫌も特にないです」
「うわ、とどめを刺された」
「というかそもそも犬飼くんは、私と付き合ってるのにほかの女の子に気を取られるような、そういう不誠実なことしないでしょ」
 違いますか? と迫る名前。犬飼は一度ぱちくりと瞬きをしたきり、黙りこんでしまった。その反応に、名前の背を嫌な汗が伝う。
「……え、するの? 浮気を?」
「しない」
「じゃあなんで犬飼くん、そんなびっくりした顔してるの……」
 驚き、戸惑う犬飼の顔に、名前の方が逆に戸惑う。
 犬飼が不誠実なことをしないだろうなんて、そんなのは名前にとっては当然の認識だ。そうでなければ、犬飼と付き合おうだなんて思ったりしない。名前にとっては誠実であることは、恋人に求める最低条件だ。
 それなのに、なぜ犬飼が驚くのか。まさか不誠実なことをするつもりだったのか。ふだん巧みな話術で名前を惑わせるばかりの犬飼が黙りこくるなんて、逆にやましいところがありそうに見えてならない。
 唐突に湧いてきたきた疑念に、名前がじーっと犬飼を見つめる。その視線に晒されて、犬飼はいつになくまごまごと弁明した。
「いや、だってなんかおれ、思ったより名前ちゃんから信用されてる? と、思って」
「私、付き合うときに、犬飼くんのこと信用するって言ったはずだけど……何を今さら……?」
「言われたけど」
「言ったことは守るよ」
 今度こそ呆れた顔をして、名前は犬飼を眺めた。まさかこの期に及んで「思ったより信用されてる」などと言われるとは、まったく思いもしなかった。
(信用してない相手と付き合ったりしないのに)
 付き合うまでに多少のいざこざを経てきたぶん、一度付き合うと決めた以上、名前はきちんと犬飼と向き合ってきたつもりだ。そのことに今さら驚かれると、名前の方が驚いてしまう。
「それに万が一ほかの女の子に気持ちが向くようなことがあったら、犬飼くんは先に私と別れてから、きれいな身体でその子と関係を持とうとすると思う」
「言い方」
「だから、犬飼くんが女性関係でもめるという想定はしていないです。ゆえに、嫌とかむかつくとか、そういうのもないです」
 以上、と名前は話を畳んだ。たくさん話して乾いた喉を潤すため、かばんから水筒を取り出す。ごくごくとお茶を飲んでから、犬飼にも「飲む?」と尋ねた。犬飼は浅く頷いて、名前の水筒から少しだけお茶を飲んだ。
 名前に水筒を返し、ふうと息を吐く犬飼。先程までは混乱しきりの顔をしていたが、お茶を飲んだおかげか、表情が少し落ち着いたように見える。名前は内心、ほっと胸を撫でおろした。
「名前ちゃんの話聞いて、いろいろ納得したよね。おみそれしました」
「おみそれされるほどの話はしてないけどね……」
 苦笑して、名前はかばんに水筒を戻した。おみそれされるようなことなど、本当に何もしていない。ただ、名前にとって当たり前だったことが、犬飼にとってはそうではなかった。それだけのことだ。
(前から犬飼くんの『好き』と私の『好き』は少し違う気がしてたから、まあ……)
 犬飼はストレートに愛の言葉を伝えてくるが、その響きはどこか軽くて浮ついている。本心でないというわけではないのだろうが、それはやはり、名前が口にするのとはどこか違う響きを持った、愛の言葉なのだった。降るような愛の言葉を浴びせながらも、その言葉はどちらかといえば、名前に伝えるものというより、自分に言い聞かせるもののように聞こえる。
(というのはさすがに、私が疑いすぎなんだろうけれども)
 ともかく、そうした『好き』の違いが、今回の浮気云々という話題につながったのはたしかだった。
(犬飼くんが私のことを大好きなんて、そんな勘違いはしない。でも、犬飼くんは浮気をするような人じゃない)
 愛のほどを信じるのではなく、犬飼の人間性を信用している。愛は目減りすることがあるかもしれないが、人間性はそう簡単には変わらない。だから名前は、ふられることはあるかもしれないと思いつつ、浮気の心配はしていない。
 翻って、犬飼はといえば。
「というかこの話、もしかしておれにブーメラン飛んでくる?」
 名前と同じことを考えていたのだろう。犬飼が、若干気まずげな笑みを浮かべた。
「……まあ、多少、そういうことになるかな」
「まじかー、あはは」
 もしも名前のことを完全に信用しているのなら、名前が誰と話そうがどっしり構えていればいいはずだ。だが実際の犬飼は、案外そういうタイプではない。
 はぁ、とひとつ、名前は溜息を吐き出す。
「犬飼くんって、全然私のこと信用してないなっていうのは、たしかに時々思うよ」
「そんなことは、」
「ないって言い切れる? 本当に? もしここで嘘つくと、私の信用を裏切ることになるわけですが」
 じりじりとテーブルごしに迫る名前に、犬飼は観念したようにふっと笑いをもらした。
「……名前ちゃんって、実は結構口が回るタイプだよね」
「まあ、仲良くなった相手にはね。仁礼さんとか」
「仲良くね。その仲いいリストに、カゲは入ってる?」
「やっぱり信用してない……!」

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