君のくちびるに住まう怪物

 学校では付き合っていることを極力伏せていることもあり、名前と犬飼がふたりで会うのはもっぱらボーダー本部基地の地下倉庫か、そうでなければどこかの飲食店だ。とはいえ倉庫は互いの職場内施設なので、休憩時間か退勤後の待ち合わせでなければ、たいていはどこかの店で会うことになる。
 ある晩、退勤後の名前が、同じく退勤後の犬飼に手を引かれて連れていかれたのは、住宅街の真ん中にある児童公園だった。昼間は子供たちの声で賑わう公園も、夜はさすがにひっそり静まり返っている。三門市は夜間に出歩く人間が極端に少ないため、公園をねぐらにする浮浪者の姿もない。
「帰る前に少しだけ話さない?」
 にこにこと言う犬飼に促され、名前は遊具のすぐそばに設置された、木製のベンチに腰をおろした。すぐ隣に、距離をつめて犬飼が座る。
 ふたりとも学生服姿だが、学校での名前と犬飼では考えられないほど、物理的に距離が近い。親密さをことさら協調するようなその距離感に、名前の胸がどきりと騒いだ。
 付き合い始めて、手をつないだりもするようになって。けれどまだ、犬飼がすぐそばにいるということに、名前は慣れないままでいる。もともと内気な性格もあり、名前のパーソナルスペースは人よりやや広い。だから物理的にどんどん距離を詰めてくる犬飼に、どうしても過剰に反応してしまう。
(だからといって、嫌だと思うわけではないから、何も言えないんだけど……)
 敏い犬飼のことだから、名前が毎回どきどきしていることに気付いていて、わざと距離を詰めている可能性もある。おおかた、名前の反応を見て内心面白がっているのだろう。名前も薄々、分かってはいる。だが悲しいかな、名前には平静を装えるほどの胆力は備わっていない。
 今も、ふたりの手こそ重なっていないものの、ベンチの座面につくようにして置いた名前の手の小指に、犬飼の小指がぴたりと寄り添うように触れ合っている。
 手を避けたり身体を離すのもかえって不自然な距離は、犬飼が意図してそうしているのだろう。いっそ肩がぶつかるほど近ければ、少し距離をとっても不自然ではないのに。意識すればするほど犬飼のことが気になって、名前の指先はこまかく震えてしまいそうになる。
 肩を並べて座っているうえ、夜のなかだから、犬飼が今どんな顔をしているのか、名前には分からない。けれどたとえどんな表情をしていようとも、腹の中で名前がひとりで狼狽えている様を笑っているのだろうことだけはたしかだ。
(うう……意識を犬飼くんから逸らそう……)
 隣に座っている犬飼に対して失礼ともとれることを考えて、名前は意識を散らすべく、視線を周囲の暗闇へと遣った。あくまでこっそりと、深く息を吸い込んでみる。するとようやく、少しだけ心が落ち着いた。
 薄い雲に覆われた月明かりが、ぼんやりと公園全体をほのかに照らし出している。ゆったりと空気を揺らす程度にそよぐ夜風は、何のにおいも含んでいない。
 暗闇の中に沈んだ遊具はどれもこれも、名前が幼いころに遊んだことがあるものばかりだった。昔この近所に住んでいた名前は、この公園にも何度か遊びに来たことがある。だが、切れかけの白熱灯がちかちかと点滅する夜の公園は、まるで見知らぬ場所のようにそっけない。
(よく知ってる場所のはずなのに、来たことない時間に犬飼くんとふたりでいるからか、なんか変な感じ……)
 とはいえ犬飼がそんな事情まで知っているはずがない。この公園を選んだのも、単にちょうどいい場所にあったからというだけだろう。すでに夜も更け始めている。ボーダー関係者ということでいろいろと大目に見られることはあるが、それでも学生服姿の男女がぶらぶらとできる場所は、夜の街にはそれほど多くはない。
 その点、学生の逢瀬の現場として公園は定番だ。そのあたりの事情は、境界防衛機関の人間であろうと普通の高校生と変わらない。
「公園って、久し振りに来たかも」
 名前が思った言葉をそのまま口にすれば、犬飼が横で雰囲気をやわらげる。
「そうなんだ? たしかに、おれも公園の中まで入るのは久し振りかも」
「ブランコとか、今乗ったら結構怖そう」
「乗ってみる? 背中押してあげようか」
「遠慮しておく……」
 夜の闇のなか、犬飼のけらけら笑う声がいやによく響いた。風ですぐに流されてしまう声を聞きながら、名前はふと、犬飼は何か話があってここに自分を連れてきたのかもしれないと考えた。
 特に確信があるわけではない。ただ、犬飼は無駄なことはめったにしない。
(いや、まあ、普通にデートみたいなものなのかもしれないけど)
 それでも付き合う前のことを思い出せば、やはり何か意味がありそうだと、名前はついつい勘ぐってしまう。
 付き合う前、「お互いのことをもっと知ろう」と何度か食事をしていた時期、犬飼は一緒に過ごすたびに巧みに名前の情報を引き出した。名前の方は慣れない犬飼との会話でいっぱいいっぱいで、ほとんど犬飼のペースに巻き込まれていただけだ。
 見ようによっては、尋問のようにも見えなくない。だが犬飼が毎度律儀に「デートだね」と必ず確認するものだから、名前もいつしか、まあそういうものなのかと納得させられていた。
(今なら、あれが私の警戒を解くためであり、情報収集であり、デートしたという実績の積み上げであり、外野への牽制だったって、なんとなく分かる……)
 そんな経緯があるためか、付き合い始めた今でも、名前は犬飼に食事に誘われるたび、何か聞きたいことや話したいことがあるのではないかと疑ってしまう。さすがに今日は一緒に帰るだけだったのでそこまで考えなかったが、この分では、今日もやはり何か用件があるのかもしれない。
 そんなことを考え込んでいるうち、名前はいつのまにか犬飼の方に顔を向けていたらしい。
「ん? どうかした?」
 名前の遠慮がちな視線に気が付いて、犬飼が首を傾げた。犬飼はそのまま身体を傾がせて、名前の顔を覗き込む。名前は慌ててわずかに視線をそらした。
「あ、いや……ええと……」
「もしかして、おれといるのに他事ほかごと考えてた?」
「ううん、そんなことない」
「本当かなぁ。疑わしい」
「本当だよ……本当に犬飼くんのことを、って、あぁ……」
 口の端を上げる犬飼に、名前は口を滑らせ余計なことを言ってしまったと、半拍遅れて気が付いた。犬飼本人に「あなたのことを考えてた」なんてこっ恥ずかしいことを告白してしまい、たちまち居た堪れなくなってくる。
(だって、犬飼くんの誘導がうまいから……!)
 犬飼のやんわりと責め立てるような物言いに、名前はいつも口を滑らせてしまうのだ。別に悪いことをしていないときでも、なんとなく弁解しなければいけない気分にさせられる。そうなると、あとはたいてい犬飼の思うつぼだ。
「いっ、犬飼くんこそ、何考えてたの?」
 失言を流そうと慌てて尋ねる名前。犬飼は「すぐそうやって話を逸らす」とにやにやいやらしく笑ったが、それ以上名前をいじめるつもりもなかったようで、彼は笑みの中から意地の悪さをすっと消した。
「おれが何考えてたか気になる?」
「え? そ、それは、まあ……」
 別に気になるというほどでもない。だが、自分から聞いてしまった手前、名前はそう答えるしかない。
 すると、にっと口の端を上げる犬飼。名前の方にねじった前傾姿勢のまま、犬飼は機嫌よく答えた。
「おれはいつになったら、名前ちゃんにキスしてもいいのかなって考えてた」
「えっ」
 思いがけない返答に、名前は言葉を失くした。犬飼はさらりと言ってのけたが、それは本来、もう少し躊躇いだったり、あるいは甘酸っぱいときめきを伴って口にされる言葉ではないのか。
 とはいえ、名前も犬飼のことをとやかく言えはしない。
「き、キス……?」
 驚きのあまり照れることすらすっかり忘れて、名前はぽかんと犬飼を見つめた。そんな名前の茫然とした表情が面白かったのか、犬飼はしばらくじっと黙って、ひたすら名前を見つめ返す。
 やがて犬飼は、堪らずといった様子で、くっくと肩を揺らして笑い始めた。なおもぽかんとしている名前に、犬飼は言う。
「そんな驚くようなこと? 付き合ってるんだからキスくらいするでしょ。しない?」
「いや、するとかしないとか……そこに驚いてるんじゃないよ……」
「じゃあどこに驚いてるの?」
 犬飼の質問に、名前はいたって真剣な顔で答えた。
「犬飼くん、私とキスしたいとか思うんだ……」
「あはは、そこに驚いてるんだ?」
「そこ以外にどこに驚けばいいの?」
「もっといろいろあると思うよ、多分」
 そう言われても名前にとっては、犬飼が名前に人並の恋人らしさを要求してくることこそが、何よりも大きな驚きだ。それ以外の驚きなど、たかが知れている。
(そりゃあ、犬飼くんから好かれているらしい、というのは納得してるけど……)
 そもそも名前のことを好きでなければ、犬飼のような男子が名前を追いかけ、告白したりはしないだろう。犬飼の一挙手一投足から、名前への好意を感じたりもする。少なくとも目に見える範囲では、犬飼は名前に対し最大限、気持ちを示してくれている。
 けれどそうした心理的な話と、キスという実際的な話とが、名前のなかではうまくつながっていなかった。好かれていることは理解できても、だから何をする、というところに思考が接続していなかった。
(もちろん、私だって今までまったく考えなかったわけじゃない)
 付き合うと決めた時点で、ゆくゆくはそういうことを犬飼とするのだろうと、漠然とだが想像はしていた。いずれはキスをして、さらにはその先もあるのだろうと。
 だが、穏やかな時間を過ごしているうちに、そうした想像はしだいに名前から遠退いてしまった。気付けば、名前は恋愛の刺激的な部分について考えることを、すっかり後回しにするようになっていた。
(そもそも犬飼くんって、キスしたいとか思うんだ)
 自分を相手に、という驚きはもちろん名前のなかにある。しかしそれ以上に、キスという行為そのものに犬飼が関心を抱いているということが、名前には意外に思えた。
 犬飼はぐいぐい来るわりに、がっついているわけではない。だからなのか、名前は犬飼に対して、どこか淡白な印象を持っていたくらいだ。
 そんな名前の胸のうちを、果たして犬飼がどこまで読んでいるかは分からない。だが犬飼は大体のところ読めているのか、それとも単に説明するのが面倒くさいのか、
「まあ、いいや」
 名前の戸惑いを、そうばっさりと切り捨てた。
「それで、いつになったらいいの? むしろ、すでにいい?」
「す、すでにって何……!?」
 一転、ぐいぐいと答えを迫ってくる犬飼に、名前はぼんやり思案に耽っているどころではなくなった。犬飼は笑顔を崩していないが、しきりに名前に圧をかけてくる。
(犬飼くん、本当に私とキスしたいんだ……)
 ここにいたってようやく、名前はその事実を認め、受け容れた。健全な男子高校生の彼氏の要求を正しく理解したともいえる。
「名前ちゃん、おれがはじめての彼氏だし、キスもしたことないよね?」
「そ、そうですが……」
「やっぱりそうだよね。だからいきなり軽々しくするのはだめかな、何か月経たないとだめとかあるのかなと思って、それで一応聞いておくことにしたんだよ。逆に、そういうのナシでいつでもいいよ、フリーキスだよっていうなら、おれとしてはそれはそれで」
「というか、フリーキスって何? そんなシステム、今はじめて聞いた」
 フリーハグなら聞いたこともあるが、フリーキスはさすがに公序良俗の観点から問題がある。少なくとも、名前の暮らす文化圏には存在しないワードだった。
「おれも今はじめて喋った日本語」
 しゃあしゃあと答える犬飼。名前は内心、こっそり胸を撫でおろした。
「まあ、なかなか言わないよね」
「でも、おれたち付き合ってるわけだから、おれたちの間ではフリーでもおかしくはないと思う」
 犬飼の言葉に、名前はふうむと考え込んだ。
 たしかに犬飼の言うことにも一理ある。誰彼構わずのフリーキスは大いに問題だが、付き合っている恋人同士が常識の範囲内でいつどれだけキスをしようと、そんなものは誰にとやかく言われるものではない。
 犬飼がこうしてわざわざ確認をとっているのは、ひとえに名前のファーストキスに配慮してのこと。今のこの聞きようによっては間抜けな問答も、徹底して名前のために為されているすり合わせだ。
 名前はしばし沈思する。それから思考とともにうつむけていた顔を上げると、名前は犬飼に尋ねた。
「犬飼くんはフリーなの?」
「その言い方だと別の意味になっちゃうよ」
 そう揶揄うように笑ってから、犬飼は答えた。
「おれは別に、あんまり気にしないかな。付き合ってるわけだから。付き合ってるってことは、そういうことしてもいい――というか、したい相手ってことだよね」
「なんか、『付き合ってる』って言葉をやたら繰り返すね?」
「それはまあ、途中で『付き合ってない』って言われたら困るから、ちょいちょい前提確認入れた方がいいかなと思ったんだけど」
「さすがにそんなひっくり返し方はしないよ……」
 相変わらず信用が無い。犬飼は愉しそうに笑うばかりで、特に悪いとは思っていないようだ。名前はこれ以上言っても無駄だと察し、気持ちと頭を本題へと戻した。
(犬飼くんは、いつでもいいって言ってた)
 つまり今この瞬間にも、犬飼にはその準備があるということだ。今この瞬間、名前の返事を愉しそうに待っている今も、犬飼は名前にキスしたいと思っている――かもしれない。
 それならば、名前はどうだろうか。
(私は……)
 答えなんて、考えるまでもない。
「私も……いつ、とかは、別に……なくて……」
 おずおずと切り出した名前に、犬飼が「えっ」と声を上げた。
「えっ、じゃあ本当にフリーキス?」
「そんなノリでされるのはちょっと……!」
 名前は慌てて身体をのけぞらせ、犬飼から距離をとる。たしかに「いつでもいい」というのに限りなく近いことを言いはしたが、だからといってどんな状況でもかまわない、何もかも適当でいいとまでは言っていない。
「し、しかるべき場所、しかるべき時間、しかるべき状況においてなら、まあ、あの……やぶさかでは、ない……というか、」
「今は?」
 間髪をいれずに問いをねじこんだ犬飼に、名前はうっと言葉を詰まらせる。
(絶対に言われると思った……!)
 しかしまさか、言葉を遮られてまで問われるとは思わなかった。名前はいよいよ、視線をあちらこちらに泳がせ始める。が、犬飼は構わずさらに切り込んだ。
「だって今、ふたりきりだし、任務中や仕事中でもないし、学校や基地でもないし。特に問題ない状況じゃない?」
「う、」
「やぶさか?」
「では……、な、い……」
 視線を下げて、消え入りそうな声で答える名前。やぶさかではない。嫌じゃないし、気が進まないわけでもない。
 けれど、改めて「じゃあ、今からいたしましょう」という状況になってしまったのが、どうしようもなく気恥ずかしいだけなのだ。
 と、そのとき。ふいに、名前の指先に淡い刺激が走った。
「っ!?」
 話している間ずっと犬飼の指と触れていた名前の小指に、いつのまにか犬飼が自分の小指を絡めていた。そして器用に指の腹で名前の指をなぞりあげ、くるくると爪の先でまるく引っ掻く。
 突然のことに驚いた名前が、弾かれたように顔を上げる。その瞬間、犬飼と視線がぶつかった。
 息をのんだときにはもう、くちびるが重なり合っていた。片手の小指は絡めたまま、犬飼はもう片方の手を名前の耳元に添える。固い指先が撫でるように髪を梳き、いとおしげに名前の耳元をくすぐる。
 触れるだけのキスを何度か角度を変えて繰り返したあと、犬飼は食むように少し深く口づけた。
(犬飼くん、どんな顔してるんだろ……)
 そう考えると、今すぐ目を開いて、犬飼の顔を見てみたい欲求に駆られる。けれど結局、目は閉じたまま与えられる感覚だけを味わうことにした。今ここで、揺蕩うような心地よさを手放してしまうのは、あまりにも勿体ないことのように思えたからだった。
 その代わりとでも言うように、名前は耳元に添えられた犬飼の手に、自分の手を重ねる。一瞬、犬飼の呼吸がふるえた。直後、ぐっとくちびるを押し付けられてから、犬飼はくちびるを離した。
 名前もゆっくりと目蓋を開く。視界には、夜空を背負ってほほえむ犬飼。冷たい色の瞳はうっすらとした熱を宿し、呆けたように見つめる名前を映していた。その熱が犬飼のものなのか、はたまた映し出された名前の発するものなのか、夜の帳の内側では、どちらのものか判然としない。
「今更だけど、ムードも何もあったもんじゃなかったね」
 名前を見つめたまま、犬飼が笑う。小指は依然、つながったまま。そのささやかな繋がりが、名前にはたまらなく愛おしく思えた。
「名前ちゃん、顔真っ赤だよ」
「それは、だって……」
「ね、もう一回していい?」
「い、いちいち聞かないでほしい」
「じゃあ、フリーキスだ」
「その言い方もやめて……」
 けらけらと愉しそうに笑う犬飼。しかしその瞳の熱が、先程よりいっそう熱く滾っていることに名前が気付いたときにはもう、犬飼の手は逃げることを許さないとばかりに、名前の後頭部にしっかり回されていた。

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