(犬飼くん、ひどすぎる……)
結局あの後、犬飼が達するまでに名前はもう一度絶頂を迎えさせられた。犬飼のセックスが執拗なのはいつものこと。だが、いつもはもう少し手加減というか手心というか、とにかく名前を労わる気持ちを感じるのに、今日はとことん容赦がなかった。
(気持ちよかったのの、百倍疲れた……)
犬飼に抗議の目を向けたいのに、もはやそれだけの気力もない。足腰が完全に萎えてしまってシャワーも浴びられなかったので、犬飼が責任を持って汗みずくだった名前の身体を清拭した。あれだけ名前のことを虐め抜いておきながら、犬飼は平気な顔をしているのが恨めしい。
ぐったりした名前をしり目に、ちゃっかり自分だけ寝間着のスウェットを着なおした犬飼は、
「だからごめんって。ほら、もう一杯水飲んで」
と甲斐甲斐しく名前の世話を焼いた。
(本当に悪いと思ってるのかな)
謝罪を口にするわりに、犬飼の言葉からは誠意を感じられない。あれだけ達かせて啼かせまくれば、そりゃあ愉しかろうと名前は不貞腐れた気分になる。
重たい身体をどうにか起こし、ベッドの上で犬飼からコップを受け取った。
(明日は絶対、シーツを洗濯させてもらおう……)
一応バスタオルを敷いて事に及んでいたのだが、あまりにも犬飼がやりたい放題したせいで、バスタオルはほとんど用をなしていなかった。せいぜいが事後に名前のぐっしょり濡れた秘所を拭うのに役立ったくらいだ。
「おれのでよければ、パジャマ貸そうか?」
剥き出しになった名前の肩を見て、犬飼が言う。
「自分のやつあるし、大丈夫だよ」
行為の直前まで名前が着ていたのは、部屋着ではなく日中着ていた私服だ。いずれにせよ「明日もそれ着て帰るなら、汗かく前に脱がないと」と犬飼に唆されて脱いだので、私服も部屋着も犬飼に比べれば汚れていない。
「だけどこの布団で寝るのに、名前ちゃん自分の部屋着は嫌じゃない? それこの間買ったお気に入りのやつでしょ」
「それはそうだけど……」
そんな気遣いをするくらいなら、もう少しどろどろのべたべたになるまで抱きつぶすというのを、どうにかやめられなかったのか。そう言い返したかった名前だが、親切にも予備の部屋着を出してくれた犬飼に文句を言うのも申し訳なく、無理やり文句を飲み込んだ。
コップを犬飼に返し、かわりに犬飼のシャツとジャージを受け取る。脱ぎ散らかして放り投げられていた下着をこそこそと床から拾い身に着けていると、タオルやらもろもろを洗濯に出して戻ってきた犬飼が、ぎぃと音を立ててベッドのふちに腰をおろした。
名前の髪に手を伸ばすと、顔の横の毛を耳にやさしく掛ける。
「着替えるの手伝おうか? 身体痛くない?」
「痛いけど、大丈夫です。お気遣いなく」
「ごめんってば。だからほら、罪滅ぼしだと思って」
「それ、犬飼くんがやりたいだけじゃないの……?」
名前の手からシャツを取り返した犬飼が、名前の上でシャツを広げる。名前はしぶしぶ、腕をばんざいの形で上に上げた。ずぼりと頭からシャツをかぶせられ、遊ばれてるなぁとしみじみ思う。
貸してもらったシャツは、当然ながら名前には大きすぎた。名前はずり下がる肩を引っ張り上げる。首元の布地をつまんで鼻に寄せると、すっかり覚えた犬飼のにおいがした。
「におう? それこの間洗ったばっかりだけど」
「ううん、大丈夫」
名前はそう答えるが、ふいに犬飼は何の言葉もなく名前を見つめ、そのままの姿勢で固まった。まるで急に電池が切れ、スイッチが入らなくなってしまったようだ。犬飼はじっと身じろぎせず名前を見つめ、何か考え込むように口をつぐんでいる。
「……犬飼くん?」
名前が呼びかける。犬飼は束の間、何か言い淀むように視線を彷徨わせた。
しばしの後、犬飼は言った。
「名前ちゃんさ、大学入って可愛くなったね」
熟考した結果というわりには、いやに軽い話題だった。犬飼の声に重さは感じられず、顔にもいつものほほえみが貼り付いている。しかしそれが犬飼の心情とちぐはぐなものであることは、誰の目にも明らかだった。
「……どうしたの? 急にそんなこと」
「今日の昼間、学食で名前ちゃんのこと見かけたときに、可愛いなと思ったんだよね。高校の頃から可愛かったけど」
「そういうお世辞は言わなくていいよ」
「本心だって」
少しだけ犬飼の空気がゆるむ。そのことに名前ははからずもほっとした。事情はよく分からないが、犬飼が何か思い悩んでいる――たとえそれが少しの気掛かり程度であろうと、何かを憂いているのは間違いない。
(そしてその原因は多分、私にあるんだろう)
よく分からないなりに、名前はそう推察した。犬飼の性格を考えれば、そう考えるのが自然だ。
果たして、どう返事をするべきか。短い沈思ののち、ひとまず名前は様子を見ることにした。
「そういう犬飼くんこそ、かっこいいじゃん。学部の友達いつも『ボーダーの人たちかっこいい』って言ってるよ」
「『ボーダーの人たち』って、別にそれおれの評価じゃないよね?」
「『苗字さんの恋人かっこいい』とも言ってた」
「あ、本当? それはおれだね」
「犬飼くんだよ。犬飼くんの話」
「ありがと。……いや、おれの話は今よくない?」
呆れたように眉を下げ、犬飼は笑った。ついでに、じりじりとそばまで寄ってきていた名前の髪を梳き、何気ない仕草でベッドの足元に置かれた名前の私服に視線を遣る。
「あんな可愛い服着ちゃって。おれ、名前ちゃんのあの服はじめて見たんだけど」
「それはまあ、買ったばっかりだし……」
高校まではほとんど学校の制服とボーダー支給の制服ばかり着ていた名前だ。貯まっていたお金でここのところようやく、服や化粧品を買い揃えるようになった。犬飼とだって毎日顔を合わせるわけではないから、犬飼が見たことのない服があったとしても、何らおかしなことはない。
「可愛い服着て、可愛い顔して、一生懸命ご飯食べてたね」
「今ごはん関係ないでしょ……」
「いや、でも本当に、高校のうちに告白しておいてよかったと思ったよ」
「……犬飼くん、ちょっと変だよね」
照れが三割、本音が七割の発言を名前は述べる。それでもまだ、犬飼の笑顔は分かりにくく固い。どうしたものかと、名前は頭を悩ませる。
「というか、あの服は――」
と、言いかけたところで、名前はふいに気が付いた。
「あ、もしかして犬飼くん、それで今日機嫌悪かったの……?」
眉をひそめて、名前は犬飼を見た。確証はないが、これが犬飼の気掛かりの原因であるような気がする。嫉妬と呼ぶほどの大仰なものではないが、ちょっと面白くない程度の心のささくれ。
犬飼の関与しないところで名前が「目立たない女子」ではなくなるのが面白くない。その結果、万が一にも奇特な人物の目に留まるかもしれないことが苛立たしい。
杞憂にもほどがあると、名前は思う。だが名前を見初めた犬飼がいる以上、ほかにも奇特な人物が現れたとしてもおかしくはない。
(最近忘れかけてたけど、犬飼くんって結構妬くからなぁ……)
影浦との確執を思い出し、名前は得心がいったような気分になった。対影浦に関しては、名前もよく注意を払っていたつもりだが、まさかそれ以外で意外な心の狭さを見ることになろうとは。
その犬飼はといえば、名前の指摘にも一切動じることなく笑っている。狼狽えもせず憮然ともせず、それどころかまったく視線を逸らさずに名前の顔を覗き込むと、
「おれ、機嫌悪かった? どんなところが機嫌悪そうだった?」
まったくの平然ぶりで、名前に笑いかけてくる。少しでもやましいところがあるのなら、目をそらすなり口ごもるなりすればまだ可愛げがあるというのに、犬飼はこうして堂々と乗り切ろうとするからたちが悪い。
もちろん堂々としていたからといって、誤魔化されてやる名前ではない。犬飼と付き合いだして早数か月。名前もずいぶん犬飼に鍛えられていた。
「どんなところって、犬飼くんなら自覚あるでしょ」
「あれ、名前ちゃんなのに誤魔化されてくれないんだ? まあいいんだけど。……そうだね、少しそういうところはあったかな」
悪びれるというより、困っているような顔の犬飼に、名前は溜息をひとつ吐く。
(なんというか犬飼くんって、時々結構めんどくさい……)
苦笑したら犬飼の気分を害すだろうか。そう思いつつも、名前はどうしたって口許がゆるんで仕方がない。たしかに犬飼に対し呆れかえってはいるものの、どちらかといえばそれは愛おしさにより近い感情だ。
「ねえ犬飼くん」
つんと犬飼の上腕をつつき、名前は首を傾げた。
「あの服、好きだった?」
「え? そりゃあ可愛いと思うよ。可愛いと思ったからこんな話してるんだけど」
「それはよかった。あれね、今度久し振りに犬飼くんとデートだってオペの子たちに話したら、犬飼くんの好きそうな服買いに行こうって誘われて、そのときに買った服だったんだよ」
「……そうなの?」
「そうなの」
珍しくきょとんとした顔をしている犬飼。頷く名前。聞いてくれたら最初から教えたのに、と思いつつ、犬飼の珍しい表情を見られたことが名前には嬉しくもある。
一方の犬飼はだんだんと居た堪れなくなってきたのか、ベッドの縁に足の裏を引っかけて、膝を抱えて「あぁー」と呻いた。両手で顔を覆う姿は、名前が悶えて呻く姿と似ているようにも見える。
「あと下着もね、新しいのを買いました」
さらに情報を追加する名前。犬飼が両手で顔を覆ったまま、ばっと名前の方を向いた。指の隙間から翠の瞳が覗き、名前にまじまじ視線を注いでいる。
「と言っても、すぐ脱がされて、放り投げられたんだけど……」
「待って、下着もオペの子たちと買いにいったの?」
「いや、さすがに下着はひとりで」
普段ならば女友達と下着を買いに行くくらい恥ずかしいこともないのだが、「犬飼に見せる下着」を買う現場に同行されるのは、さすがにあまりに恥ずかしい。自分ひとりでこそこそ購入し、今日が初お披露目の日だった。
「犬飼くんの恋人として、私も人からいろいろ言われないように頑張ってるところです。とりあえず、着るものとか見た目が一番手っ取り早くて分かりやすいかと思って」
「なるほど……」
「犬飼くんからも、いろいろ言われないように頑張ってる」
「おれ、名前ちゃんにいろいろ言ったことないよね?」
「言いたげな顔してるときはあるよ」
「よく見てるなぁ」
犬飼が困っているような、それでいて喜んでいるような顔で笑う。その顔を見るに、どうやら心のささくれは、大部分が解消したようだった。
犬飼が名前の肩に手を遣り、そのまま自分の方へと引き寄せる。ベッドの上にぺたんと座ったまま、名前は犬飼の胸に身体を預けた。とくとくと聞こえる犬飼の心音が心地よい。事後の倦怠感もあいまって、ときめきよりも微睡みが名前を包んだ。
犬飼の手が名前の頭の後ろに回り、ゆるりとした手つきで髪を梳く。名前がされるがままになっていると、犬飼がふいに耳元に口を寄せて囁いた。
「ねえ、名前ちゃん」
「なぁに?」
「あの下着さ、もう一回ちゃんと見るから、ちょっと今このシャツ、脱いでみてくれない?」
うなじから首元に指を差し入れられ、ついとシャツの首を引っ張られる。すでに夜はとっぷり更けているが、ここでもしも素直に従ったりすればどうなってしまうのかなど、火を見るよりも明らかだった。
「申し訳ないけど、嫌かな……」
「じゃあおれが脱がせればいい?」
「そういうことでもない」
これ以上の犬飼の攻勢を無視するべく、名前はさっと身を引くと、素早く布団にもぐりこんだ。