落ちてゆくあなたの底へ@


 ※犬飼・夢主共に大学進学後設定


 三門市立大学の学生食堂は、今日も学生の熱気と料理のかおりが入り混じり、形容しがたい空気を醸成している。公立大学ゆえか、出す料理はうまくもないがまずくもない。純粋な味勝負ならボーダー本部基地の食堂に軍配が上がる。
 日替わり定食とヨーグルトの載ったトレーを前に、犬飼は視線をぼんやりと前方に向け投げていた。尻の下には固いプラスチック製の座面の椅子。お世辞にも座り心地が良いとは言い難い。
「待たせた。――何見てんだ?」
 トレー片手にやってきた荒船が、犬飼の向かいの席の椅子を引いて問う。犬飼の答えを待たず、ぐりんと首を巡らせ犬飼の視線の行き先を探った荒船は、ほどなく目標を確認した。
「ああ、彼女か」
 合点がいったというように、荒船はそっけなく呟く。
 午前最後の講義が終わった直後だというのに、すでに食堂の座席は八割ほどが埋まっている。食堂いっぱいに並べられた長机型のテーブルをいくつか挟んだ先に、名前が友人らしき数名と固まっているのを犬飼が見つけたのは、彼が昼食を購入し終え、このテーブルについてすぐだった。
 名前はけして、目立つ風貌をしているわけではない。自分の恋人は平凡そのものだと、犬飼は常々思っている。名前のことを可愛いと言ってはばからない犬飼だが、それが自分の欲目であり、なおかつ単に見た目に対しそう思っているわけではないことは、自分でちゃんと分かっていた。
 好意を寄せる相手だから、可愛く見える。それだけのことだ。
 それなのに、名前のことを好きになってからというもの、犬飼の目は高精度のレーダーを搭載しているかのごとく、そこかしこで名前の姿を捕捉する。ついつい視線で追いかけては、特に変わったところがないことを確認する。
 恨めしいのは、たいていの場合気付くのは犬飼の方だけで、名前は必ずしも犬飼の存在に気付くわけではないということだ。今もやはり、名前は数メートル先の犬飼に気付く様子がない。
 いくら友達と話しているからといったって、視界に入る位置にいるのはお互い様。ちょっとは気付いていもいいものを――そう思いつつも、名前に声を掛けに行くつもりはない犬飼は、こうしてただ眺めているだけだ。
「まだ昼になったばっかだっていうのに、早いなお前の彼女」
 椅子に座った荒船が、セルフサービスの水を飲みながら言う。犬飼たちも相当急いで食堂に来たくちだが、名前はそれよりさらに早い。名前は友人と一緒に窓際のいい席に座っており、かなり早く座席をとったのだろうことは、荒船でなくても想像できる。
「前の授業休講になったって言ってたよ。学食の席とっておくか、さっきメールで聞かれた」
「頼まなかったのか」
「おれたちも講義室一階だったし、普通に座れるだろうなと思ったから」
 昼食に手をつけることもなく、そんな話をしていると。
「お待たせ。何の話だ?」
 犬飼と同じ定食の載ったトレーを手にした穂刈が合流し、がたりと椅子を鳴らしながら荒船の隣に座った。これで昼食のメンツは全員揃った。犬飼と荒船、穂刈の三人は直前まで同じ講義を受講しており、今日はそのまま一緒に昼食を摂りに学食に来たのだった。
「後ろに犬飼の彼女がいるって話」
 穂刈の問いに荒船が答える。穂刈は首を伸ばし、座ったままで背後を確認した。すぐに覚えのある顔を見つけたのか、「なるほどな」と正面に向き直る。
「彼女早いな、食堂に来るのが。昼になったばっかなのに」
「穂刈、そのくだりはさっき俺がやった」
 荒船が言葉を挟み、犬飼も「さすが同隊」と笑う。三人そろったところで、ようやくそれぞれ箸をとった。

 講義室から出てきた学生が次々食堂にやってきて、食堂の中の人口密度はしだいに高くなっていく。三人が座っている近くの席も、あっという間に流れてきた学生たちで埋まった。
 通り過ぎる学生たちが、時折犬飼たちに視線を向けていく。三人がボーダー隊員であることを、彼らがすでに知っているためだろう。
 三門大とボーダーの繋がりは公然のもの。両組織が持ちつ持たれつの関係だということもまた、半ば公然の事実になっている。犬飼たちも自分たちがボーダー隊員であることを隠してはいない。高校時代から少なからず「同じクラスのボーダー隊員」として扱われてきたため、今さら殊更気にすることもない。
「混んでるな、今日」
「そうか? いつもこんなもんだろ」
「外のご飯屋が臨時休業してるらしいよ。それで人が流れてきてるのかもしれない」
「可愛いな、『ご飯屋』って言い方」
 男三人、顔を付き合わせて食事をしたところで、特に話題が盛り上がることはない。共通の話題であるボーダーについては、不用意に外で話さないのが基本だ。時折思い付いたように、講義や昼食の話といった雑談をする以外はほとんど無言で、犬飼たちは食事を続ける。
「そういや犬飼の彼女、名前なんていうんだ?」
 荒船がふいに思い付いたとでも言うように、脈絡なく問いかけた。荒船の前に置かれたとんかつ定食は、すでにあと一切れ残すだけになっている。
「苗字さんだよ」
「てめー名前を教えろよ」
「ええ? だって荒船も名前呼んだら、おれの彼女のこと好きになっちゃうんじゃないの?」
「なるか」
 呆れたように言い、最後の一切れのとんかつを頬張る荒船。けらけらと犬飼が笑う。
 穂刈が生姜焼きを口に放り込んで言う。
「それを言うなら苗字が好きになるんだろ、名前を呼んだ荒船を」
「うーん、それはないかな」
「なんでだよ。おまえ本当、彼女のことになるとむかつくな」
「そもそも紹介しようともしないしな、オレたちを、彼女に」
「彼女のタメの男友達枠はカゲとゾエだけで手いっぱいだよ」
 大学に入学しても相変わらず続いている名前の影浦隊との交流を思い、犬飼は笑顔で溜息を吐いた。荒船たちは犬飼と違い、影浦隊とも親しくしている。名前が影浦隊と、とりわけ仁礼と親しくしていることも、なんとなくは聞き及んでいるのだろう。
 荒船と穂刈は顔を見合わせはしたものの、それ以上突っ込みはしない。犬飼と影浦の微妙な緊張関係を思えば、外野が何か言うべきでないことは明らかだ。
「まあ男友達云々は冗談だとして」
 犬飼が何事もなかったように話を続けた。
「紹介しないのは単に、彼女があんまり人付き合い得意なタイプじゃないからだよ。彼女に紹介してほしいって頼まれたら、おれだって喜んで荒船隊と引き合わせるって」
「本当かよ」
「本当、本当。おれだって、彼女の交友関係がおれの目に届く範囲にあった方が、嬉しいに決まってる」
 時間割やスケジュールを共有しているだけでなく、犬飼は名前のシフトやおおまかな交友関係まで、大体のところは把握している。名前には話していないが、仁礼との連絡先交換も済ませた。犬飼はいつでも名前の親友につながるホットラインを持っている。
 その代わりというわけではないが、犬飼は名前に対してできることはすべてしている。聞かれない限り教えないことはいろいろあるものの、聞かれたことには素直に答えることにしているし、出掛ける時には誰とどこへ行くか、聞かれなくても話すことの方が多い。犬飼は犬飼で、いろいろと手を尽くしている。
 口説いて追い詰め、無理やり迫って――そうして名前と付き合った。
 犬飼には未だ、そういう意識がある。半ば押し切って交際に漕ぎつけたという経緯があるからこそ、犬飼は名前との付き合いに手を抜かない。見落としはひとつも許さないし、障害や落とし穴になりそうなものはすべて先回りして潰している。やりたくてやっていることだから、特に苦も感じない。
 そうまでする価値のある女なのか――。むろん時々はそんなことを考えたりもする。見目容みめかたちは平凡で、頭はいいが特筆すべきほどではない。名前本人が自分で言う通り、気弱で流されやすい性格は、どちらかといえば欠点だ。ついでにいえば、若干被害妄想が入ることもあり、犬飼はこれまで何度か手を焼かされた。
 しかし、なんだかんだで名前のことを可愛いだとか愛しいだとか思う気持ちは、日に日に膨らみつつある。
(それに、万が一名前ちゃんを手放したことで、後から後悔するのだけは絶対に避けたい)
 そんな諸々の事情によって、今のところ名前を自由にするという選択肢は、犬飼の中に存在していなかった。名前の方から離れたがっても、うまく言いくるめて撥ねつけるつもりでいる。

「相変わらず、犬飼の彼女は気付いてないな、俺たちに」
 食事を終えて小休憩をしながら、穂刈が呟く。犬飼もちらりと目線を名前に送るが、名前は犬飼たちに一向に気付かず、にこにこと昼食を食べ続けている。犬飼たちより早くから食堂にいるのに、食べ終わるのは名前の方がずっと遅いことに気付き、思わず犬飼は笑みをこぼした。
(食事中に会話するの下手だからなー、名前ちゃん)
 どちらかといえば犬飼は食べるのが早い。だから犬飼が名前とふたりで食事をするときには、犬飼の方が会話をコントロールして、名前の食べるペースを調節している。
 名前のそういうところを可愛いとも思う反面、要領が悪くて面倒くさいとも思う。今のところは面倒くさいところも「可愛い」に含まれてしまっているので、やはり苦にはなっていない。
 にこにこと名前を眺めている犬飼に、荒船が呆れ果てた顔をした。
「こんなとこで見てないで、さっと行って声掛ければいいだろ」
「そうなんだけど、あれ多分学部の人たちと話してるから。ここで出て行って邪魔しちゃ悪いよ」
「邪魔ってことはないだろ」
 荒船がぼやき、穂刈が頷く。
「彼女、言ってないのか? 彼氏がボーダー隊員だってことを、周りに」
「いや、言ってるはず」
「というか、本人もボーダーの職員だしな」
「それは言ってるか分かんないけど――」
 と、そのとき名前がふいに、視線を犬飼の方へと向けた。犬飼と目が合うと、口にものが詰まっているのか、名前は目を見開いて「あっ!」と驚いた顔をする。慌てて口の中のものを飲み込み手を振る名前に、犬飼は機嫌よくほほえみ手を振り返した。
「気付いたらしいな」
「今必死でご飯食べてるね。急ぐとむせるのに」
 子供でも相手にしているような台詞を平然と口にする犬飼。荒船と穂刈がふたたび顔を見合わせた。
「可愛いんだろ、そんな苗字が」
「やだなぁ、穂刈。おれの彼女はいつも可愛いよ」
「『可愛い』の大盤振る舞いすぎるだろ」
「あはは。実はあんまり言い過ぎるから、最近スルーされがち」
「隙あらばのろけやがって」
 そうしているうちに、名前が食事を飲み込み終える。食べているところを見られて恥ずかしいのか、はにかんだ笑顔で犬飼に手を振る名前。隣に座っていた友人らしき女子に何事か言われ、名前はさらに顔を赤らめた。
(話の内容はだいたい想像がつくな)
 犬飼は普段どおり、人好きのする笑顔を振りまいた。恋人の友人からの好感度は、上げておいて損はない。きゃあきゃあと盛り上がる女子の声を聞きながら、悪い気分はしないなと犬飼は思う。
(カゲだったらこういうとき、鬱陶しがってすぐどっかいっちゃうんだろうけど)
 自分が名前の恋人として、きちんと勤めを果たしていることに、犬飼は内心で深く満足した。そんな犬飼を、荒船と穂刈は「よくやるな」という顔で眺めた。
 しばらくすると、名前とその友人たちからの視線も途絶えた。どうやら彼女たちのなかで犬飼談義が終了し、別の話題に移ったらしい。犬飼たちも昼食を食べ終え一段落したので、ぞろぞろとテーブルを立つ。
「名前ちゃんさ、大学入ってから可愛くなったんだよね」
 トレーを返却口に戻しながら、犬飼が唐突に切り出した。荒船と穂刈は怪訝そうに首を傾げる。
「名前ちゃん? ああ、彼女の名前か」
「名前っていうんだな、苗字は」
 うん、と犬飼が頷く。さっきはふざけて隠したが、別に名前くらい秘密にしておくようなことでもない。どのみち荒船は名前と出身高校が同じなのだから、その気になれば名前くらいすぐに調べられる。
「それで、なんだって? またのろけか?」
「いやいや、実際そうなんだって。のろけとかじゃなくて」
「そういうもんなんじゃないのか、女子は」
 穂刈がしたり顔で答えた。その力強い返事には、不思議と妙な説得力がある。傍で聞いていた荒船も、おおむね穂刈に同意だった。
 しかし犬飼は「そうなんだろうけどさ」と釈然としないような返事をする。珍しくなよなよとした態度の犬飼に、荒船はにやりと意地悪く笑った。
「あれか、彼氏としては気が気じゃないって?」
「あるのか? 男の気配が」
「そういうわけじゃないよ。でもまあ、普通に学部に男子もいるから」
「女子ばっかりだったけどな、さっきは」
「大学に入って可愛くなった彼女に、悪い虫がつかないか心配ってことか」
「まあ、名前ちゃんがおれ以外に目を向けるとは思わないんだけど」
「なんだその自信」
「自信というか、名前ちゃんにはそんな器用なことできない」
 言い切る犬飼。荒船と穂刈はそこでようやく、この話題で犬飼をまともに相手するのは面倒なだけだと気が付いた。そもそも犬飼が恋愛相談なんて女々しいことを、自分たち相手にするはずがない。犬飼がかつて諏訪に恋愛相談をしたことなど知る由もない荒船と穂刈は、これも昼食中に取り上げた雑談と同じようなものだろうと断じた。
 トレーを返却し、三人は食堂の出入口に向かう。
「ま、なんでもいいけどよ。あんま余裕ぶったこと言ってると、そのうち足元すくわれるぞ」
「いやいやいや、怖いこと言わないでよ、荒船」
「ボーダー内とは違うからな、大学は」
「穂刈までー」
 眉を下げてへらりと笑う犬飼。犬飼とて、荒船隊のふたりの意見を鵜呑みにしているわけではない。
 食堂を出るとき、振り返った犬飼の目にちらりと見えたのは、新たに食堂に入ってきた知り合いらしいグループの男子学生と、ぎこちなく挨拶を交わす名前の姿だった。

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