おいでと手招くあなたの方へ

 作戦室のドアが開く音に、犬飼は机上に広げた参考書に落としていた視線を、つと上げた。氷見と二宮は先ほど本部長に呼ばれて、揃って席を外している。今作戦室に戻ってきたのは、外に飲み物を買いに行っていた辻だった。
 辻が手首に提げているのは、ミネラルウォーターとアイスコーヒーが入ったコンビニ袋。コーヒーの方は犬飼が頼んだおつかいだ。
「おかえり、辻ちゃん。買い物ありがと」
「さっきそこで、苗字先輩とすれ違いました」
 机に買ってきた飲み物を置き、辻が言う。犬飼は「え」と短く発し、コンビニ袋の中の缶に伸ばしていた手を止めた。
「そこって、どこ?」
「本当にすぐのところです。作戦室を出てエレベーターホールの方に向かって、角を曲がったあたりで。方向的に、どこかの作戦室から出てきて戻るところって感じでした」
 その言葉に犬飼は一瞬だけ固まる。今頃犬飼の頭の中ではめまぐるしい速度で思考が巡っているのだろう。
 数秒後、犬飼は浮かせかけた腰を、そのまま椅子に戻した。「そっか」と呟き、プルタブを開ける。
「どっかの隊に用事あったのかな。どこの隊だろ。また嵐山隊かな」
「だいぶ気にしますね……」
「だって気にならない? 名前ちゃんって友達少ないから、わざわざどっかの作戦室に遊びにいくとか絶対にないと思うんだよね。影浦隊とは仲良くしてるみたいだけど、作戦室に顔出すほどじゃないって言ってたしなー」
 辻が聞いていないことまで一気に並べる犬飼。名前の交友関係がごく狭いことは、辻も犬飼から聞いて知っている。もしかしたらここに立ち寄っていたのではとも思っていたのだが、犬飼の反応を見る限りそういうわけではないようだった。
 犬飼はしばらく頭を悩ませていたが、結局は気にしないことに決めたらしい。
「ま、いいか。後で名前ちゃんに本人に聞こっと」
 ぞんざいな結論で話を切り上げた。そんな犬飼に、辻は呆れたような目を向けた。

 ・

「彼女ができたんだよね」
 そう犬飼から聞いたのは、今からだいたい半月ほど前のことだった。ちょうどその日は夕方から作戦室に集まるよう通達があり、辻と犬飼、氷見は三人で、二宮がやってくるのを今か今かと待っていた。
 三人の前には氷見が用意した飲み物が置かれている。犬飼が話し始めたのはちょうど、辻がコップの中の氷が融け切る前に二宮が戻ってくればいいなと、そんなことを思っていたときだった。
「ずっと告白の返事待ちだったんだけど、さっきもう一回告白して、それで付き合うことになった」
 特別浮かれているわけでもなさそうなその口調に、氷見が眉をひそめる。
「それって、前に犬飼先輩が追いかけてるって噂になってた相手?」
「そうそう、その子」
「あの噂、本当だったんだ」
「ひゃみちゃん信じてなかったの?」
「しょせん噂だから。犬飼先輩のことだし、どっちでもいいかなと思ってたかな」
「あはは、クール」
「まあでも、付き合ったのならおめでとうございます」
 氷見が投げやりに祝ったので、ふたりの会話の聞き役に徹していた辻も便乗して「おめでとうございます」と述べる。犬飼がにっこり笑って「ありがとね、ひゃみちゃん、辻ちゃん」と応じる。
 犬飼澄晴。辻の一学年上の先輩であり、同隊所属の同僚でもある。人あたりがよく、それなりに整った顔立ちもしているため、女子からはそこそこに人気があるらしい。彼女がいた時期もあったらしいが、ここ最近そういう話を耳にすることはなかった。
 もちろん辻は女子と会話などできないので、「女子の意見」というのもあくまでも、男子側での世間話で小耳にはさんだ程度の情報だ。どのみち彼女がいようがいまいが、犬飼の仕事ぶりは何ひとつ影響されない。犬飼の方から話してこないかぎり、辻から踏み込んで恋愛の話をする理由はひとつもなかった。
「ちなみに二宮さんにはもうバレてる」
 へらりと笑う犬飼。氷見が驚いて眉を上げる。
「えっ、なんで」
「手繋いで歩いてるところ見られて、声掛けられたから」
「うわぁ、気まずい……」
「彼女固まってたよ。二宮さん迫力あるから」
「そりゃあびっくりするだろうね」
 犬飼と氷見が恋愛話に花を咲かせるのに、辻は一歩引いたところで耳を傾ける。飲み物をひと口含むと、氷がからりと音を立てた。
(犬飼先輩の彼女か……)
 一体どんな人なのだろうかと、辻は話を聞きつつ考えた。防衛任務の巡回中や待機中でも、犬飼とはまったく雑談をしないわけではない。だが犬飼はことさら自分の話をしたがるタイプでもなかったから、これまであまりそういう話をしてこなかった。
(犬飼先輩が好きになるくらいだから、きっと何か卓越したところのある人、なのかな……)
 辻がぼんやりとイメージを膨らませる。すると、
「一応言っておくけど、全然ふつうの女の子だよ」
 まるで辻の胸のうちを読んだかのように、犬飼が笑う。
「おれと同じクラスだし、ボーダー所属だから、そのうちふたりもどっかで顔合わせることあるんじゃない? 機会があればふたりにも紹介するよ」
「えっ、いや、俺は……」
「犬飼先輩の彼女かー。どういう距離間で話せばいいのか難しい」
「できればおれの好感度が上がる話とか、おれのカッコいい話とかしてくれるとありがたいんだけど」
「そんな話をほかの女から聞かされる彼女の気持ち……」
「あ、それは全然大丈夫。『へー、すごいですね』っていうくらいで、多分気にもしないと思う」
「それはそれでどうなんですか」
 聞く限り、それは犬飼が彼女にまったく、興味を持たれていないということだ。付き合っているのに、そんなことがあるのだろうか。
「おれからはともかく、向こうからのおれへの愛がねー、まだ足りてないっぽいから」
「愛が足りてないっぽい彼女を紹介するんだ……」
 氷見の言葉に、犬飼がけらけらと笑い声を返した。

 その数日後、たまたま全校集会のあとの廊下で鉢合わせになったので、教室へ戻る道すがら、犬飼は名前を辻と氷見に紹介した。犬飼から紹介された恋人は、犬飼が事前に言っていたとおり、どこにでもいそうな平凡な女子だった。
 六頴館によくいる、見るからに真面目そうな外見をしている。挨拶のためひとたび口を開くと、やはり外見を裏切らない、落ち着いた声と話し方だった。
 名前は辻と氷見相手に「よろしくお願いします」と頭を下げた。その姿を見て、ずいぶん腰の低い人なんだなと辻は思った。事前に想像していたよりも、ずっと物静かな人だった。
 紹介はものの数十秒で終わった。
(犬飼先輩には悪いけど、短い時間で自己紹介だけを済ませたから、紹介というほどのこともなく会話もせずに済んでよかった)
 実際には、短時間で紹介を済んだのは犬飼なりの辻への配慮だったのかもしれない。しかし辻の思考はそこまでの予想をするには至らなかった。辻はただ、自分が先輩の彼女との初対面を乗り切ったことに安堵していた。

 ・

「それで? 辻ちゃんは名前ちゃんと何か話した?」
 コーヒーで喉を潤して、犬飼は笑いながら問う。辻はいつの間にか入り込んでいた回想から、現実へと自分の意識を引き戻した。
 机の上には犬飼の課題が開かれている。しかし辻の目の前の犬飼は、すでに課題へのやる気をなくしているようだった。
「いえ、特には。普通に会釈して挨拶して、それで終わりです」
「まあそうだろうね。辻ちゃん女子苦手だし、一対一とか絶対に無理でしょ」
「そうですね……」
 犬飼の言葉に頷きつつ、辻は今度は先程の廊下でのことを思い返す。
 ボーダー本部より支給されている制服をきっちりと着こんだ名前は、何やらバインダーのようなものを手に、廊下を小走りに急いでいた。辻と目が合うと、名前はすぐに視線を下げて会釈し、そのままさっさと立ち去った。
(あれは正直ありがたかったな)
 照れて狼狽える時間すら与えない素早さに、辻はうっすらと感動めいたものすら感じた。買いかぶりかもしれないが、そういう気遣いができる人だからこそ、犬飼の目に留まったのかもしれない。
「苗字先輩はいい人だなと思います」
 辻が言うと、犬飼がぴくりと反応した。「へえ」と愉しそうに声を上げる。
「ちなみに辻ちゃん、その心は?」
「さっきみたいに廊下であっても、最低限の挨拶だけでそっとしておいてくれるので」
「あはは、それはたしかに」
 声を立てて犬飼が笑った。ふたりきりの静かな作戦室に、犬飼の笑い声だけが静かに広がる。辻も二宮も、それに氷見も、作戦室で声を立てて笑うことなど滅多にない。皆無と言ってもいい。だからこの部屋に響く笑い声は、いつでも犬飼のものだった。
 その犬飼の笑い声がやがてふつりと途切れると、静まり返った作戦室は、かえって静かすぎるほどにしんとする。気詰まりではない沈黙が流れるのに任せ、辻は無言で犬飼の方に視線を向けた。
 犬飼はしばし物思いにふけるように、宙に視線を彷徨わせていた。そして、おもむろに「だけど」と切り出したかと思えば、それまでの沈黙を気にも留めず、
「だけどそれは多分、辻ちゃんのためっていうより名前ちゃん自身のためだね」
 あっさりとした口調で最前までの話を続行した。
「先輩自身のため、ですか」
 うん、と犬飼は頷く。
「辻ちゃんの印象は間違ってないと思うよ。いい人っていうのも、まあ合ってる。でもあの子もあんまり気さくなタイプじゃない、というか引っ込み思案というか内気というか……、とにかくそういう子だからね。辻ちゃんが女子苦手って知って多分、『ラッキー、これで気をつかって話さなくてもいい!』くらいに思ってるんじゃない?」
「そういうものですか?」
「うん。この間『二宮さんは顔合わせると急に話しかけてくることあるから怖い』って前に言ってたし」
 にやにやと言う犬飼に、辻ははからずも名前の胸中に思いを馳せて同情した。
「二宮さんにとって、部下の恋人にあたるんですよね。部下の恋人って、そんなふうに話しかけるものなんですか」
「二宮さんにとってはそうなんじゃない? 知らんけど」
 二宮のことだ。名前本人に興味関心がなかったとしても、名前を通して犬飼の調子を把握しようとしたという可能性も考えられる。あるいは単に、無視するのは無作法だと思っているのかもしれない。いずれにせよ、名前にしてみれば恐るべき体験だったことは想像に難くない。
「案外そういうことするよね、うちの隊長。謎のフットワークの軽さ。部下の恋人は部下理論、かな?」
「そんな理論ありませんよ」
 辻が眉を下げる。犬飼は面白がるように笑った。
「とまあ、そういうわけだから。名前ちゃんのことはそんなに気にしなくてもいいよ。挨拶だけ返してあげてれば、向こうもそれでヨシと思ってるんじゃない?」
「なるほど」
 顎に手を添えて、辻は呟いた。
 ふたたび作戦室に沈黙が落ちる。氷見と犬飼が戻ってくる気配はない。犬飼は参考書を出したままで、携帯を取り出し操作し始めた。名前にメッセージを送っているのだろうか。どのみち名前は仕事中なのだから、すぐに返信が来るとは思えない。
 犬飼を見るともなく眺めていた辻は、ふと思い立って口を開いた。
「それにしても……苗字先輩みたいな内気な女子とも仲よくできるって、すごいですね」
「え、そう?」犬飼が首を傾げる。
「苗字先輩は運営方なわけですよね。俺たちとボーダー内で接点があるというほどでもないですし、学校で話すにしても犬飼先輩とはタイプが違うじゃないですか。俺なんか同じクラスでも特に話さないって相手、結構いますよ」
「んー、まあ、そうかもね。おれも誰とでも話すわけじゃないよ。ボーダーの仕事で出席率低いから余計に」
「ああ、たしかにそれはありますね」
 犬飼の言葉に応じながら、辻は名前と犬飼が教室内で親しくしているところを想像しようと試みる。しかし辻の努力も虚しく、そんな和やかな場面はまったく想像できなかった。
(むしろ苗字先輩は犬飼先輩みたいなタイプが苦手だろうし……)
 先輩を目の前にして、辻はそんな失礼なことを考える。性別さえ抜きにすれば、名前の内気さには多少理解できるところがあった。
 できるだけ静かに穏やかに、波風立てずに日々を過ごしていきたいという名前のようなタイプには、犬飼は少し刺激が強すぎる。犬飼本人に翻弄されるというのもあるし、「犬飼の恋人」として扱われる苦労だってあるだろう。良くも悪くも、犬飼は目立つ。不用意に敵を作るへまはしないが、だからといって万人に好かれるわけでもない。
(たしか犬飼先輩が片思いして付き合ったって話だったけど)
 犬飼の言葉を借りれば、名前から犬飼への愛はまだ「足りていない」らしい。それでも付き合うところまで漕ぎつける犬飼のことを辻はすごいと思うし、犬飼と付き合う決断をした名前のこともすごいと思う。
 辻は改めて、尊敬の念をこめて犬飼を見た。すると辻は、犬飼の口許にやたらと機嫌よさげな笑みが浮かんでいることに気付く。
 普段のにやついた顔ではない、何かを明確に思い浮かべているだろうその顔に、辻は不思議に思い首を傾げた。
「犬飼先輩?」
 呼ばれた犬飼が、咳払いをひとつする。しかしその程度の仕切り直し方では、犬飼の顔に浮かんだ笑みは消え去りはしない。
「いや、ごめん。ちょっと最初の頃の名前ちゃん思い出したら面白くなっちゃって」
「最初、ですか」
 うん、と犬飼は首肯した。
「あんなにおれのこと避けて逃げまくってたのに、かわしきれずにうっかり迫られてほだされて、なんだかんだで付き合うことを了承しちゃうあたり、名前ちゃんって本当に人がいいんだよな、と思って。はっきり言って、対人経験値がかなり低いんだよね。仁礼ちゃんと仲良いのも、仁礼ちゃんのコミュ力が高いからこそだろうし」
 にこにこと嬉しそうに話すわりに、言葉の中身は手厳しい。辻はどう返すべきか悩んだすえ、ひとまず黙って続きを聞くことにした。
「名前ちゃんの場合立ち回りが下手というか、時々想定外の動きをすることはあるんだけど、基本的な動きが単純なんだ」
「そんな試合の作戦立てるみたいに」
「人間関係なんて多かれ少なかれそんなもんでしょ」
 一切悪びれることなく、犬飼は言葉を返した。
「対人経験値が低いから、名前ちゃんの中に行動パターンの選択肢が少ない。だから大体の行動の予測もつくし、そのぶん先回りして退路塞ぐのも簡単」
「……苗字先輩に同情します」
 自分の先輩ながら、辻は普通に引いた。そんな辻を、犬飼が「こらこら」と笑って諫める。
「すみません」
 口では素直に謝りつつ、しかし辻は、名前への同情を禁じ得なかった。
(こんなふうに分析されて考察されて、さすがに同情しない方が無理だ)
 ランク戦で戦うわけでも、一緒に遠征艇に乗るわけでもない。それなのに名前は、犬飼の日頃から鍛えている観察眼と滑らかな思考で、こうして淡々と見定められ、的確に弱いところをつかれている。犬飼を相手に回したときの厄介さなら、辻はいやというほどよく知っていた。
(「足りていない」って犬飼先輩は言ったけど)
 おそらく付き合うにあたって、犬飼は「足る」のを待たず性急に、名前のことを丸め込んだのだろう。そんな推測が容易にできてしまう。コミュニケーション下手な名前を落とすことなど、犬飼にとっては赤子を口説き落とすより容易い。
(苗字先輩のなにが犬飼先輩を食いつかせたのかは分からないけど、食いつかれた相手が悪かったとしか言いようがない……)
 辻は胸の中で、ひっそりと名前に手を合わせた。
 犬飼が「というか、辻ちゃん」と口を尖らせる。
「辻ちゃんがどう思ってるのか知らないけど、名前ちゃんの現状に同情するところなんて、そんなになくない?」
「そうですか?」
「だっておれ、ただ退路塞いで困らせてるわけではないからね。退路塞いで追い込んで、名前ちゃんが嵌りこんだ先の袋小路には、おれがちゃんと名前ちゃんのこと考えて用意したハッピーエンドが待ってるんだよ。こういうのって過程より結末が大事でしょ」
 いっぺんの瑕疵すらないとでも言いたげな犬飼。辻はたっぷり時間を取って、どう返事すべきかを考える。
 結局辻は、沈黙という意思表示を選びとった。

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