明転の先、きみを待つA

 倉庫の扉ががちゃりと音を立てて閉じたのを見届けてから、犬飼は名前の方へと歩み寄る。つい今まで諏訪が座っていた場所にしゃがみこむと、犬飼は壁に背を預けた姿勢で顔だけ横の名前に向け、こてんと軽く首を傾けた。
「それで、本当は何の話をしてたの?」
 諏訪さんと、と犬飼は問う。その言い方に、ほんの一瞬何か疑われているのではと思った名前だが、すぐにそんなくだらない疑問は捨て去った。諏訪とのあいだに疚しいことは何もなかったし、察しのいい犬飼がそうと分からないはずがない。そもそも諏訪は名前を恋愛対象とは見ておらず、後輩の彼女に手を出すような人間でもない。
「何って、さっき諏訪隊長が言っていたとおりだよ」
 名前は素直に答えた。
「進路相談?」
「そう。三門大A判定だけどいけますかって」
「諏訪さんに相談してどうするの。進路指導の先生じゃないんだから」
「まあ、在学生の意見ということで」
 しゃがむ姿勢だった犬飼が、壁に背をあずけてずずっとずり下がり尻をつく。ここならば邪魔も入らない。このまままっすぐ帰るのではなく、少し話をしてから帰ろうというつもりなのだと、名前は察した。
 犬飼と付き合い始めてしばらく経つ。同じ空間にこうしてふたりきりになることにも、最近やっと慣れてきたところだ。今はもう、犬飼に対する気負いや緊張もほとんど感じない。
(といっても、犬飼くんが緊張させないようにしてくれてるんだろうけど)
 付き合う前は何かと策を弄したがった犬飼だが、付き合い始めてからというもの、そういうことは少なくなった。このところはいやらしさもすっかり鳴りを潜めており、名前としては喜ぶべきか警戒を続けるべきか悩ましい。
 そんなことを考えていたためか、いつのまにか、名前は犬飼のことをじっと見つめていたらしい。名前の視線に、犬飼が「どうかした?」とほほえむ。
 そのほほえみを見て、名前は諏訪との遣り取りを思い出した。
「犬飼くんは、私がもしランク戦の記録ログとか見たら、嫌だなと思う?」
「えっ」
 名前と諏訪との会話を知らない犬飼にとっては、さぞかし脈絡のない話題だっただろう。笑顔で固まる犬飼。しかし犬飼はすぐに我に返ると、戸惑いがちに名前を見返した。
「もしかして諏訪さんとそういう話した?」
「えっと、その、少し……。駄目だった?」
 名前が問うと、犬飼は「うぅーん」とどっちつかずな返事をする。
「おれは別にいいんだけど、ただ急にどうしたのかなとは思ったよね。あれ、ていうかもしかして名前ちゃんって記録ログ見る権限ない? だからおれに見せてほしいとか、そういうお願いだった?」
「いや、一応権限はあるはず。ただ私が見たことないだけで」
「本当? おれの試合も見たことない?」
 こくりと頷く名前。まじかー、と犬飼が笑った。
「名前ちゃん、それはさすがにおれに興味なさすぎじゃない?」
「そういうわけじゃないんだけど、なんか……」
 もごもごと言い淀み、名前は視線を落とす。
 そうじゃないと反論したい反面、やはりそう思われるのか、という納得もある。自分が犬飼の立場だったらどうだろうかと考えてみるが、名前には犬飼のように恋人に見てほしい素晴らしい成果などないから、いまひとつ想像が働かない。
 けして犬飼に興味がないわけではない。しかしこれまで、名前が犬飼の試合を見たことがないのも事実だった。こうなると名前は、何を言っても言い訳になってしまいそうで口をつぐむしかない。
(興味がないわけじゃない……だけど)
 そこはもう、自分が背を向け逃げ出した場所なのだ。そこで成果を出す犬飼に対し、一体どの立場で物を言えるというのだろう。
 犬飼は冴え冴えとした瞳で、観察するように苦悩する名前を眺める。しばしののち、犬飼は言った。
「名前ちゃんが見たいなら見ればいいし、見たいと思わないなら見なくてもいいよ。嫌かどうかで言えばおれは見てほしいし、名前ちゃんが思ったことなら何でも聞きたいと思う」
「見当はずれなこととかでも?」
「ためになる助言なら、周りの人たちにいくらでも聞けるから。言い方は悪いけど、名前ちゃんにそういうのは期待してない」
「うっ」
「単純にすごーいとか怖ーいとか、そんなのでいいと思うよ。もちろん、今までどおり見ないっていう選択肢だってあるわけだし」
 そう言って、犬飼は名前の頭にぽんと手をのせる。
「もともと名前ちゃんは、ああいうのがあんまり好きじゃないから運営に転属したわけでしょ」
「……別にランク戦見るくらいなら、嫌とか怖いとかないよ」
 名前がむっと言い返し、犬飼の手から身じろぎして逃れた。犬飼は気分を害した様子もなく、飄飄と笑っている。
「あはは、怒った? バカにしたつもりはないんだけど」
「怒ってないけど、あなどられたなとは思った」
「侮ってもいないって」
 果たして本当だろうか。名前は目を眇めて犬飼を見た。
 一見すると、犬飼の笑顔に嘘はなさそうに見える。だからといって必ずしも混じりけのない本心とも限らないのが、犬飼のいやなところだ。
「逆に聞くけど、怖いなー嫌だなー向いてないなーと思わなきゃ、オペどころか運営に回るところまでいかないんじゃない?」
「それはまあ、そうかもしれないけど……」
 結局いつものように言いくるめられてしまう。名前は抱えた膝をこすりあわせ、反論の言葉を探した。しかしながらうまい言葉が見つからず、名前は犬飼のにやけた視線を粛々として受け容れるしかない。
 犬飼の言うとおり、名前は戦闘に不向きな性格をしている。トリオン体だと分かっていても、首を刎ねられたり、体に穴が開くさまを見れば胸がすっと冷たくなる。自分が武器を持って戦うなど、もってのほかだ。
 それでも、市民の生活を守るためにボーダーの隊員は必要不可欠。名前にできないことを、ほかの誰かがやってくれていることに感謝もしている。だからこそ、名前は自分にできる形でボーダーに貢献することに決めた。入隊のきっかけは仁礼だが、辞めもせず続けているのは自分の意志だ。
(犬飼くんと付き合っていくのなら、戦闘ということからも、いつまでも目を背けてもいられないのかも)
 名前が戦闘について知らずにいたところで、困ることは何もないかもしれない。現に名前はこれまで一度も、記録ログを見たことがないからという理由で困ったことがない。知らないということだけで、犬飼が名前に失望することもないだろう。
 それでも、名前は見ておこうと思った。部外者だろうと、門外漢だろうと、機会は与えられているのだから。
記録ログは今度見るよ」
「無理しなくていいのに」
「無理じゃないってば」
「なんでそこでムキになるかなー」
 引かない名前に、苦笑する犬飼。
(きっと犬飼くんは、私が依怙地いこじになってるだけって思ってるだろうけど)
 そしてそれは、まったく的外れというわけでもないのだが。あくまでも名前の自覚している範疇では、名前は意地を張っているつもりなどなかった。名前が今こうして食い下がっている理由――少なくとも、名前が明確に意識している理由は、ただひとつだ。
「だって私、今でもまだ、犬飼くんのこと全然知らないから」
 憮然として、名前はぼやいた。
 今になって記録ログを見たいと名前が思い始めた理由なんて、突き詰めてしまえば、たったそれだけのことなのだ。
「犬飼くんってなんか怖いくらい私のこと知ってるときあるけど、私は犬飼くんのこと付き合ってもまだ何も知らない気がする。というか付き合ってからどんどん、何も知らないなって思い知ってるし、知らないことに気付いていないこともたくさんある」
 諏訪に言われるまで、犬飼の戦闘ぶりを記録ログで見ようなんて、思いもしなかったように。自分にそういった話に踏み込む権利があるだなんて、気付きもしなかったように。
(きっと知らないことは、ほかにもたくさん、数えきれないほどあって)
 だからこそ、自分で手に届く場所にある情報にはどんどんアクセスしようと思った。今はまだ、犬飼のことを知らなさすぎる。だから犬飼さえ許すのであれば、名前は犬飼についてのどんなことでも知りたかった。情報の取捨選択をするのは、もっと犬飼のことをよく知って、より親密になってからでも遅くはない。
「知りたいことなんて、なんでも聞いてくれたらいいのに。名前ちゃんになら、何を聞かれても全部答えてあげるよ」
「答えられる範囲で?」
「手厳しいー」
 余裕たっぷりの顔で笑う犬飼。犬飼は名前の言葉を、あまり真面目に受け止めていないように見え、名前は少し面白くない。
「逆に聞くけど、名前ちゃんはおれに答えられないような秘密があると思う?」
 挙句の果てにはそんなふうに切り返される始末。名前はむっとして、わざと声を低めて答えた。
「それはほら、たとえば昔の彼女の話とか?」
 その途端、犬飼の笑顔が不自然に引き攣った。おや、と思う名前の目の前で、犬飼はいつになく狼狽する。
 もちろん、露骨に狼狽えるわけではない。付き合っているからこそ分かる、その程度のもの。しかしたしかに、犬飼の笑顔の仮面が傾いでいる。
 いつもは一歩引きがちな名前も、こうなると多少気持ちが大きくなった。
「ふうん、やっぱり聞かれたくないんだ。昔の彼女の話」
「……待って、名前ちゃん。どこでその話聞いてきたの?」
「カマかけてみただけだけど。こんな分かりやすく反応されると思わなかった」
「え、まじか。うわー」犬飼が額に手を遣り、肩を落とす。
「まさか名前ちゃんに、そういう揺さぶりかけられると思わなかった。今のは完全に油断してたな」
 心なしか、犬飼の笑顔が固い。感情の読みにくい寒色の瞳も、今はどこか警戒心を滲ませているようだった。これは余程、名前には触れられたくない話があるのだろう。名前は犬飼の様子から察した。
「というかさ」犬飼がことさら明るい声で言う。
「名前ちゃんがおれのこと知りたいって思ってくれてるんだってことに、おれは今わりとびっくりしてる」
「犬飼くん? 話を逸らしてる?」
「まじめな話なのにー」
 しらじらしい声で嘆く犬飼。名前はわざと、大きな溜息をひとつ吐き出した。
(まあいいか、ここいらでやめておこう)
 名前としても、あまり意地の悪いことを言うつもりはない。犬飼の過去の女性経験が気にならないといえば嘘になるが、だからといって無理に引き出したいような話ではなかった。
 犬飼が何を話したくて何を言いたくないのか。それが分かっただけでも、ひとつ前進だ。
 立てた膝を抱え、名前は言った。
「元カノのことはともかく、私だって、犬飼くんのこと知りたいと思うよ」
「そうなんだ」
「――だって、好きな人のことだから。知りたいと思うのって、普通でしょう」
 名前の言葉に、犬飼はいらえを返さなかった。
 倉庫の中に重苦しい沈黙が落ちる。
(え、ここでどうして黙るの……)
 いつもは口数が多い犬飼が黙りこくると、それだけで何か大変な意味があるんじゃないかと不安になる。名前はそろりと横目で犬飼を窺うが、その顔からは何の表情も読み取れなかった。
 犬飼はただまっすぐ名前を見つめ、言葉を失ったかのように、口を薄く開いて沈黙している。視線がぶつかるが、犬飼の目は名前を素通りしているように見えた。
 それでも、見つめられた名前は堪ったものではない。感情を映さない瞳は、かえって名前の心をざわめかせる。それならばいっそ、いつものように意味深ににやついた目線をもらっていた方がまだましだ。
「あの、犬飼くん。無反応やめてほしいんだけど……」
 沈黙と視線に耐えかねた名前が、とうとうそう切り出した。
「いや……、ごめん、ちょっとびっくりしてた」
「びっくり……?」
 うん、と犬飼は首肯した。そして、
「だって、はじめてじゃない? ――名前ちゃんがおれに、好きって言ってくれたの」
 犬飼にしては珍しい、噛み締めるようにはっきりした物言い。名前はぱちくりと瞬きしながら犬飼を見つめた後、ようやく犬飼が何に驚いていたのか理解した。たちまち、顔に熱が集まってくる。
 名前と犬飼は恋人同士だ。それに犬飼は普段から言葉を惜しんだりしない。だから今更犬飼に好きという言葉を返すことに、名前は何の不思議も抱いていなかった。もちろん言葉を惜しみたいわけでもない。
 しかしながら、改めて言葉にされると、これがとてつもなく恥ずかしい。
「あ、あぁ……うぐ……」
 抱えた膝に額を打ち当て、名前は恥ずかしさに悶える呻き声をあげた。ぐるぐると肌の下をめぐる血潮が熱くて熱くて仕方がない。
(絶対今、耳の先まで真っ赤になってる……!)
 たとえそうであったとしても、名前自身には見えようもないことだ。しかしこの恥ずかしさならばそうに違いないという、嫌な確信が名前にはあった。そして実際、名前の耳は真っ赤に染め上がっている。
「名前ちゃん」
 やけに浮かれて揶揄う声で、犬飼が名前を呼ぶ。悶え苦しむ名前とは対照的に、すでに犬飼はいつもの調子を取り戻していた。
「さっきはちょっと心の準備してなかった。そういうわけだから悪いけど、今のもう一回言ってくれない?」
「この空気で言うと思う……!?」
「言ってくれたら、おれ、昔の彼女の話でもなんでもするよ」
「ここで昔の彼女の話するのはおかしいでしょ!」
 顔を真っ赤にして反論した名前に、犬飼は今日一番の笑顔を浮かべ、
「おれも名前ちゃんのこと大好きだよ」
 無情にそう詰め寄った。

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