宵の口の魔法舎中庭は、実はかなり人通りが多い。しかしここまで夜も更ければ、さすがに人の気配もぱたりと途絶える。夜風が木の葉を揺らす音だけがしじまを振るわせる中庭で、私とオーエンはふたりきり、ガーデンテーブルを囲んでいた。
ネロがきれいに片付けた後のキッチンで無断で作ったパイと紅茶は、静まり返った闇のなかで異質なあたたかみを発している。
先程からむっつりとパイを咀嚼しているオーエンを闇の中じっと目を凝らして眺めていた私は、そろそろ頃合いかと思い、頬杖ついて口を開いた。
「それでさぁ、オーエンちゃんって、今好きな子とかいんのぉ?」
にこにこと笑顔で問いかけると、オーエンがぴたりとパイを切り分ける手を止めた。そして闇の中、色の違う両目を露骨にすがめ、北の国の雪原を思わせる冷たい視線をこちらに寄越した。
「そんな冷ややかな目しなくてもいいじゃないの」
オーエンの十八番といえば周囲を不快にするにやにや笑いなので、その実ここまでの冷ややかな視線というのは、却って珍しくも感じる。だがいずれにせよ、好意的な視線でないことだけはたしかだった。
「おまえがくだらないこと言うから、返す言葉もなかったんだよ」口の端についたクリームを赤い舌で舐めとって、オーエンはぼやく。「ていうか何だよ、そのいちいち癇に障る喋り方」
「これ? 前の賢者様が教えてくれた、ろーるぷれいんぐ? なりちゃ? いめぷ? ってやつ」
「は? 何それ」
「まあ、ごっこ遊びみたいなものだよね」
私は賢者の魔法使いではなく、なんとなくノリでこの魔法舎にいついているだけの魔女だ。そのぶん魔法舎にしか居場所のない賢者と親しくしていた経緯から、異世界の文化や風習にもほかの魔法使い以上に通じていた。
前の賢者の言葉は意味の判然としないものも多かったが、ごっこ遊びならば私も嫌いではない。だから前の賢者に求められるまま、いろいろな役割を演じてみせたこともある。
「何を真似てるのかも伝わらないごっこ遊びに意味なんてないだろ」
情緒も何もあったものではないオーエンは、やけに苛立たしげに言葉を吐いた。静かな夜風がオーエンの銀髪をそよがせる。私はパイにさくりとフォークを刺して、オーエンの不満に答えた。
「私もあんまりよく分からないんだけど、前の賢者様が言うには、賢者様の世界には『ギャル』っていう根暗で陰湿で偏屈な人間にも優しく接する専門職がいるそうだよ」
「それで、なんでお前がその専門職になりきってるわけ」
「前の賢者様に頼まれてやってみたら楽しくて、それ以来ときどきやってる」
「北の国の魔女が何やってるんだよ」
今度こそ心底軽蔑した声で、オーエンは私に言葉を投げつけた。
オーエンの態度が悪いのは今に始まったことではない。もともと誰に対してもこの調子ではあるのだが、特に私は賢者の魔法使いですらない、要するにオーエンよりも格下の魔女だからか、何かにつけて嫌な言葉を浴びせられる。それでもオーエンが私と深夜のお茶会をしているのは、私がつくるパイがオーエンのお気に入りだから。何をおいてもまずは胃袋をつかむのが肝要、というのは万国共通のことらしい。
そんな私のお手製パイの最後ひときれを、いつのまにか
空になったオーエンの皿に取り分けて、
「それより、まだ私の質問に答えてないよ。ほら、答えて答えて」
と私はまた水を向けた。質問というのは、好きな子がいるのかという先程の問いのことだ。
オーエンは一瞬こちらに視線を寄越す。しかしすぐにパイに視線を戻して「教えない」と私の問いを切り捨てた。
「ふうん。ってことは、いるんだ? 好きな人」
「僕のこと勝手に決めつけるな」
「でも、いないならいないって言えばよくない?」
「お前みたいな頭の悪い魔女には教えない」
オーエンはわざとらしくそっぽを向いて、私を拒絶するポーズをとる。その仕草を見て、私はやっぱりオーエンって可愛いところあるよなぁと、懐かない猫を眺めるような気分になる。
「だいたい、なんで僕がお前とそんな話しなくちゃいけないんだよ」
「でも楽しいでしょう、恋の話」
「楽しくない。低俗だし、くだらない」
「私は好きだけど」
「北の国の魔女のくせに恋愛だって。馴れ合いなんて気色悪い」
鼻で笑われたところで、生憎と私は痛くも痒くもない。オーエンにとっては低俗でくだらないものだったとしても、私はそうは思わない。長きを生きる魔法使いや魔女ならば、破滅のにおいの恋愛のひとつやふたつ、大抵経験するものだ。あのチレッタですら人に恋して、そして死んでいった。
「大体、オーエンだってブラッドリーだって、美味しいものには目がないでしょう。あのミスラだって、眠りにつくため必死じゃない。そう考えれば恋愛――というか性欲は食欲、睡眠欲に並ぶ三大欲求なんだから、北の魔女である私が夢中になるのもおかしなことではないんじゃない?」
「は? 何それ。めちゃくちゃな理屈」
「私のなかでは筋道通ってるからいいんだよ」
そっぽを向いたオーエンは、眼球だけを動かして私に一瞥寄越した。もともとは他人のものだった金の瞳が、探るように私をとらえる。他人の瞳に微笑んで見せると、オーエンはすぐまた溜息を吐いて、私から目をそらした。
「バカみたい」
「何が?」
「お前」
「恋する乙女なんてみんなバカみたいなもんだよ」
「その年齢でよくも図々しく乙女を名乗れるね」
「恋に年齢は関係ない」
軽口にぴしゃりと言い返す。オーエンはそれを私がムキになっているととらえたのか、ようやく顔を私に向けた。愉しげに口角を上げて、オーエンはあでやかな笑みを顔に浮かべる。
「ねえ、ひとつ良いこと教えてやろうか」
どうせろくでもないことに決まっている、と思いながらも、私は律儀に「なぁに、教えて」と答えてやる。オーエンは腰を浮かせ、テーブルごしの私に顔をぐっと寄せると、声をひそめて悪戯っぽく言った。
「お前みたいな老婆は好きじゃない」
「オーエン可愛い。大好きになっちゃう」