廊下の向こうに意中の人の姿を認め、私は歩調を速めた。下級生ではないから、廊下を走るような失態は演じない。そもそもくの一教室の生徒であれば、たとえ下級生であろうとも、山本シナ先生の名において廊下を走るようなはしたない真似は許されない。
「土、井、せ、ん、せ」
つとめてお淑やかに声を掛けると、土井先生は声を掛けられてはじめて気が付いたというような顔をして「ああ」と応じる。土井先生ともあろう人が、まさか私の気配に気が付いていなかったはずはない。しかしそんなことを指摘するほど、私も無粋ではないつもりだ。にこりと微笑みを作ってから、私は土井先生のおそばに寄った。
頭巾からはみ出した私の前髪が、吹き込む初夏の風に揺らされる。山の中とはいえ日に日に夏の気配が濃くなりつつあるが、目の前の土井先生は文字通り涼しい顔で汗ひとつかいていなかった。
「土井先生は、この夏休みはご自宅に戻られるのですか?」
そろそろ期末試験が始まる時期でもある。会話の糸口として雑談めかして尋ねると、土井先生は腕を組んで眉を下げた。
「そうだなぁ、試験の採点を含めてまだ仕事が残っているから、生徒たちと同じく夏休みに入ってすぐというわけにはいかないが……、そうは言ってもきり丸もいることだし、早めに帰らなければとは思ってる」
「そういえば、きり丸は土井先生のお宅に身を寄せることになるのでしたね」
「あいつはしっかりしているが、さすがに子供を長くひとりにはできないだろう」
それはたしかに土井先生の言うとおりだ。私にも異論はない。問題はそこではなく。
「それで、私のことはいつになったら、土井先生のご自宅に連れて行ってくださるんです」
できるだけ可愛く見えるよう小首を傾げ、私は土井先生に問うた。
きり丸が一緒というのならばなおのこと、私が土井先生の帰省に付き添ってはならない理由がない。男ふたりよりは家事一切を得意とする私がいた方が何かと役に立つはずだし、その方がきり丸もアルバイトに専念できる。
しかし土井先生の反応は、これも予想できたことではあるが、芳しいとは言い難い。
「どうして君が私の家に来る必要がある」
「別に私は来年からも忍術学園で仕事を見つけて、今と同じく学園内に部屋を得て、夫婦共働きというのでもいいですけれども」
「誰と誰が夫婦だ」
「だから、私と土井せんせ」
「そういう冗談はやめなさい」
はぁーとこれみよがしに溜息を吐く土井先生。私はむっとして、膨れっ面を土井先生に向けた。
土井先生を慕うこと、早三年。はじめから公然と土井先生への恋慕を口にし続けてきたことで、私の恋は学園で知らぬ者のいない大恋愛ということになっている。土井先生としては教師という立場もあるから、さぞ胃が痛いことだろうと私も推察している。が、こればかりはご愁傷様と言うほかない。この頃ではさっさと諦めて嫁に来てもらえということもちらほら言われているようだから、私は内心ほくそえんでいる。
とはいえ土井先生は、なかなか陥落してくれない。くの一教室で学んだ数々の手練手管ですら、土井先生ほどの忍びの前では何ら役に立たない。
「そうは言いますけどね」まるで相手にされていないつまらなさから、ついついぶすくされた声が出る。「私ももうあと半年もすれば、忍術学園を卒業するんですよ」
「そうだ。だから、いつまでもそんな子供みたいな冗談を言っていてはだめだと言っている」
「子供……」
土井先生からもっとも言われたくない言葉を出され、いよいよもって面白くない心持ちになった。
「私、もう子供じゃありません。忍たまとの喧嘩だってしなくなって久しいし」
「この間、うちの五年生を半泣きにさせていたのは誰だ?」
五年生のことなんて今はどうでもよい。勘右衛門と八左ヱ門を池の前で突き飛ばしたのはたしかに私だけれど、池に落ちたのは彼らの不注意だ。
「土井先生にとっては、いつまでも私は子供なんだわ。ひどい。いつまで経っても女としては見てくださらないなんて、くのたまの名折れですっ」
恨みがましくそう言って、私はぷいとそっぽを向いた。子供と言われたのが面白くなかったから、いっそこれでもかというほど子供っぽい対応をしてみたのだが、土井先生はどう思っただろう。やっぱり子供だと思っただろうか。もしもそう思ってくれたなら、今度は色仕掛けで緩急つけてくらくらさせられるだろうか。
と、そんな子供だましな策略を練っていると、「あのなぁ」と、土井先生がふたたび溜息を吐き出した。私はそっぽを向いたまま、ちらと横目で土井先生の表情を窺った。
土井先生は頭巾の上から頭をかき、それから人の好さそうな顔を困らせて言う。
「君も山本先生の教えを六年みっちり受けたくのたまだろう」
「そうですけれど、それが何か」
「山本先生ほどのくの一が育てたくのたまが、女性に見えないなんてことがあると思うのか?」
それは、ない。そんなことは、あり得ない。
なぜなら山本シナ先生は、古今東西並び立つもののいないほどの、手練れのくの一であらせられるからだ。その山本先生が本気で養成したくのたまが、女の色香を身につけないなどということが、まさかあり得るはずがない。
しかしそれを、他でもない土井先生が口にするとは。
「土井先生ったら、私のことをひとりの女として見てくれているんです?」
「……うっかりするとそういう風に見てしまいそうだから、そう見ないよう私なりに努力している」
苦虫を噛み潰したような顔で渋々応じる土井先生に、むらむらと恋心が萌えてくる。すさまじい勢いで増殖する愛情に胸が溺れそうで、私はたまらず顔をにやけさせた。土井先生が眉間に皺を寄せているが、それすら愛しくてたまらない。
「うふふ、土井先生ったらひどい人」
「そういうわりには嬉しそうじゃないか」
「半年経って卒業したら、半助さんとお呼びしてもいいですか」
「いいわけあるか」
「郷の父母は、土井先生にならば娘を安心して任せられると」
「君が人の話を聞かないのは親譲りなのか……」