ボーダーに所属している生徒でも、学校行事にはちゃんと参加するんだよなぁ、とそんなことばかり考えていた文化祭の二日間だったけれど、まさか文化祭の打ち上げにまで犬飼くんが顔を出すとは思わなかった。
クラスのほとんどが詰め込まれたお座敷席。夜間に出歩くのは禁止している家庭が多いから、文化祭の振替休日の昼間を使った健全な打ち上げ。
私の隣の隣の座布団に腰をおろした犬飼くんは、先ほどから男子たちと何かよく分からない話題で盛り上がっている。プラスチックのコップに入ったドリンクバーのアイスティーをちびちび飲みながら、私は右耳で犬飼くんの声を、左耳で友人たちの会話を拾っていた。
友達が多くて、女子に人気があって、先生たちからの覚えもめでたい。それが私と同じクラスの男子、犬飼澄晴くんだ。聞くところによれば、犬飼くんはボーダーでもトップレベルの隊員らしい。一体どこの完璧超人なのだろう。それでも親しみやすさを失わないのが、犬飼くんの凄いところだ。
そんな私が犬飼くんに対してたとえ何か一つでも敵うところがあるだなんて、一度たりとも思ったことがない。そもそもいくら同じクラスだからといったって、私と犬飼くんが同じ土俵に乗っているなんて驕ったことすらない。犬飼くんと私では、所属する階級が違うとでもいうべきか――それなのに。
「それ何飲んでるの? アイスティー?」
私と犬飼くんの間に座っていた友人が席を立って間もなく。いつの間にやら男子の輪から抜けた犬飼くんが、どういうわけだか私に絡んでくるのだった。
先程からちらちらと視線を感じてはいたから、何かおかしいなとは思っていたのだ。しかしまさか、あの犬飼くんからこうして話しかけられるとは、まったく思いもしなかった。
犬飼くんの問いに、私は頷きだけで答える。犬飼くんはいつも通りの人あたりよさそうな笑顔で、机に頬杖ついて私の顔を覗きこんだ。
「ここのドリンクバー、炭酸の強さ三段階で変えられるの見た?」
「そうなんだ。知らなかったよ」
「というか今日はアイスティーなんだ。いつもは炭酸飲んでるよね?」
「ええと、まあ、うん」
「炭酸好きなの?」
「いや、そういうわけじゃなくて……その、ダイエットにいいって聞くから」
「あ、そういう」
「そう」
ダイエットとか女子っぽいね、と犬飼くんが笑いを滲ませた声で言う。揶揄われているのか馬鹿にされているのか、それともまったく他意のない感想なのか判じかね、私も犬飼くんに合わせて曖昧にほほ笑んだ。卑屈に見えていないといいのだが。
それにしても、クラスでもっとも目立つ男子が私のような地味な女子に話しかけているというのに、クラスメイトの誰一人として私たちを気にする様子はない。いっそ誰か割り込んでくれればいいのになと思いつつ、そんなことにはならないだろうという予感が胸にしみじみわいた。気まずくなってアイスティーを啜ろうとしてみるも、コップの中にはあいにく、ほとんど何も残ってはいない。
犬飼くんは相変わらず私に視線を注いでいる。どうにも気詰まりな気分になって、私は仕方なくコップをテーブルに戻し、犬飼くんの方へと顔を向けた。
「い、犬飼くんは……」
「俺がどうかした?」
こちらを見つめていたことを棚に上げ、犬飼くんはわざとらしく首を傾げる。ぐっと自分の喉が鳴ったが、恥ずかしかったので唾を飲み込んでごまかした。
「えーっと……あのー……それで、犬飼くんは、」
「話題ないなら俺の方から質問していい?」
「えっ、はい! いや、え? なんで?」
「はは」
混乱する私を面白がるように、犬飼くんが小気味よく笑い声を立てる。話題がないことを見抜かれたのも気まずいが、犬飼くんから私に聞きたいことがあるというのも驚きだ。意味が分からなくて困る。
うろたえる私に構わず、犬飼くんは笑みを深めた。
「なんで、俺になにも聞かないの?」
質問の意図が分からずに、いよいよ混乱は深まった。一体、私から犬飼くんになにを聞くことがあるというのだろう。私には犬飼くんに聞くべき問いなどひとつもない。いや、本当のことを言えばひとつくらいはある。けれどそれを聞いたが最後、どうにもならない泥沼に足をとられる気がしてならなかった。
知らず握ったてのひらに、いやな汗をかいていた。助けを求めて視線をめぐらせるが、これだけいるクラスメイトの誰一人として私と犬飼くんの方を見ていない。犬飼くんは追い詰めるように、わずかに座布団の上でこちらに
膝行る。
「なにもって、だって、特に質問とかはなかったし……」
苦し紛れの返答も「本当かなぁ」とあっさり笑っていなされた。そして、
「なんで自分がいつも飲んでるものを知ってるのかって聞かなくていいの? 俺たち、ちゃんと話すのこれがはじめてじゃない? なんで俺がそんなこと知ってるか、不思議じゃないの?」
畳みかけるような犬飼くんの問いかけに、私はうっと言葉に詰まった。
それこそ、私が聞けなかった問いかけだ。犬飼くんの言うとおり、なぜ彼がそんなことを知っているのか、不可解なことこの上ない。だがあまりにも分かりやすく張られた罠だったから、私は尻込みしたのだ。
それなのに、犬飼くんは追撃の手をけしてゆるめようとはしない。
「聞かなかったってことは、俺の答えが分かってるってことかな」
「わ、分かんない……」
「本当に?」
「ほんと、本当に分かんないから」
もうここらで許してよ、と思わず泣き言を続けたくなる。そんな私に犬飼くんは「そっかぁ」とこの上なく魅力的な笑顔で応じた。
「それじゃあ、分かんないってことで、ヒントと答えのどっちが欲しい?」
「どっちもいらないよ……」
「うわ、手厳しい」