もうじき高校生活も終わりだというのに、そういえば清水さんとこんなふうに放課後を一緒に過ごすのは、これがはじめてのことだった。清水さんは三年の冬まで部活を続けていたから、放課後はいつでもまっすぐ体育館に向かってしまう。
 そもそも、私と清水さんが親しくなったのは今年、高校三年の秋の選択授業からだ。だから実のところ私と清水さんの間には、思い出はおろか交わした言葉の数すら、それほど多くはない。
「清水さんは卒業したら宮城出るタイプかと思ってた」
 日直日誌をきれいな字で埋めていく清水さんは、私の言葉に顔を上げた。清水さんの席をはさんで、前の席の椅子を勝手に借りて彼女と向かい合うと、眼鏡ごしに不思議そうな目を向けられる。教室には日直の清水さんと、頼まれたわけでもないのに彼女を待つ、私のふたりきりだった。
「どうして?」
 灰がかった黒の瞳に見つめられ、私はわずかにたじろいだ。整った顔立ちと凛とした佇まいには、こうして傍にいてもなかなか慣れることがない。
「なんとなくだけど、清水さんって都会のおしゃれな……? 洗練された……? モダンな空間が似合う……?」
「なんか、マンションの広告みたい」
「そういえば清水さんの苗字と同じ社名の建築会社、あったよね。あれって」
「私とも私の家族とも関係ない」
「ぜんぜん?」
「全然」
「そっかー」
 中身のない会話に薄っぺらな相槌を打つ。仲良くなる前には知るよしもなかったが、清水さんはこんな神々しい雰囲気を発していながら、案外適当な会話にもちゃんと付き合ってくれるのだ。
 締め切った窓の向こうから、はるか遠くに隔てられた世界から聞こえるようなささやかさで、運動部の生徒たちの声出しが聞こえる。清水さんのペン先が、日直日誌の一番下の【今日の感想】の欄をすべる。
「前から思ってたけど」ペン先を視線で追い、私は頬杖をついた。「私たちの会話ってあんまり頭使ってないよね」
「……うん」
 少し間を置いてから、清水さんが顎を引くように浅く頷いた。
「清水さん今、『頭使ってないのはあなただけ』って思ったでしょ」
「思ってない」
「じゃあ『頭使ってないのはあなたと話してるときだけだよ』?」
 もう一度、今度はもう少し長く間をとってから、清水さんはまた頷いた。こころなしか、目元がうっすら赤らんでいるような気がする。その顔が可愛くて、私はなんだか得した気分になった。胸がふわふわと軽くなって、ついつい「唯一無二ってこと?」と図々しいことを聞いてしまう。清水さんはちょっときょとんとしてから、呆れたように苦笑した。
「そういうところが、ね」
「そういうところって。清水さん、ときどき厳しくて好きだな」
 他愛ない話を交わしながら、私の視線はいつしかまた、日直日誌に戻っていた。清水さんも同じく、紙面に目を落としている。とっくに日誌は書き終えているけれど、彼女が席を立つそぶりはない。顔を上げれば教室の前に掛かっている時計が目に入るだろうに、そちらに視線をやる気配もない。
 なんとなく、お互い立ち上がる機を逸しているような、そんな雰囲気だった。いや、機を逸したのは清水さんだけか。私はさっきからずっと、ずるずるとこの場所に留まっては、清水さんとふたりの時間が少しでも長引けばいいのにと、そんなことを考えたりしている。
 清水さんもそう思ってくれていたらいいのに。
 ふと考えて、私は内心で苦笑した。たかだか数か月前にはじめて言葉を交わしたくらいの人間が、卒業前のセンチメンタルな空気に流されて、ついつい烏滸おこがましいことを考える。
 そろそろ席を立つ頃あいだろうか。清水さんのペンはもうとっくに、その動きを止めている。もしかしたら私に気を遣って、席を立つに立てないのかもしれない。と、そんなふうに気を回し始めたそのとき、
「卒業、さみしいね」
 ふいに、清水さんが呟いた。「えっ」私は思わず声を漏らして清水さんを凝視する。清水さんはなんでもないような顔をして、けれどやっぱり私の目には、清水さんのまなじりがうっすら染め上がっているように見える。
 寂しい。淋しい。さみしい。
「……清水さんでも、寂しいって思うんだ」
「うん、少しは」
「少しかぁ」
「うそ、本当に寂しいなと思ってる」
「おちゃめ? 可愛いね」
 うふふと笑って清水さんの顔を覗き込んだら、彼女はやや気恥ずかしげにぷいと視線を逸らした。凛とした彼女も素敵だけれど、こういう子供っぽい仕草も可愛いんだな、と私ははじめて見る清水さんの仕草ににやつく。
 もう少し早く知り合っていたら、もっと早く話しかけていたら。そうしたら、私は今頃もっと、いろんな顔の清水さんを知っていたのだろうか。それこそ、清水さんなんて他人行儀な呼び方じゃなくて、下の名前で呼び合うような。そんな友達に、なれていたんだろうか。
「清水さん」
 私が呼びかけると、清水さんは首を巡らせて、逸らしていた顔をゆっくりと私の方に向けなおす。
「卒業したら、潔子ちゃんって呼んでもいい?」
「いいけど、大学、東京じゃなかったっけ」
 その言い方はまるで、もう呼ぶ機会なんてないのにと言っているようで、ちょっとだけ傷つく。それはたしかに、そうなのだけれど。
「なんていうか、ほら、東京で地元の話するときとかに」
「私の話するの? 大学で知り合った人たちに?」
「しちゃだめ?」
 私が尋ね返すと、清水さんは少しだけ悩むように首を傾げた。それから、さっきの「さみしいね」よりももっともっと小さな声で、
「人に話すときだけ名前で呼ぶのはずるいと思う」
 そう、囁くように発した。
「私にも名前で呼ぶの聞かせて」
 遠い世界の運動部の声にすら掻き消されそうな小さな声。それなのに、その声を発する清水さんの瞳はまっすぐ射貫くように、力強く私を見つめている。
 三呼吸ほど置いてから、私はゆっくり、呼びかけた。
「潔子ちゃん」
「うん」清水さんが、いや、潔子ちゃんが頷く。
「宮城に残っても私のこと忘れないでね」
「そういうこと言うのって、普通逆じゃない?」
「えぇ、だって私は清水さんのこと忘れないし」
「……名前」
「潔子ちゃんのこと、忘れないよ」
「私も、忘れないから大丈夫」
- ナノ -