忍術学園に入学したその瞬間、忍たまとくのたまの戦いの火蓋は切って落とされる。卒業まで果てしなく続くこの闘争は、各学年の男女の人数比率にもよるけれど、大抵の場合はくのたま優勢のまま卒業を迎えるらしい。
 とはいえ、すべての忍たまとくのたまが反目しあっているわけではない。私より二学年上の立花仙蔵先輩は、私が入学したときからずっと何くれとなく面倒を見てくれている、たよりになる先輩だ。

 食堂から出てくの一教室に向かって歩いていると、少し離れたところに見知った姿を発見した。
「立花仙蔵先輩っ」
「ああ、おまえか」
 大声を上げて腕を振ると、こちらに気付いた立花先輩がゆったりと美しい足運びでやってくる。風になびく長髪が麗しく、私はほうっと息を吐いた。くの一教室にも佳人と誉れ高い生徒はいるが、私個人の好みに関していえば、立花先輩ほどの優美さを備えている存在は稀だと思う。
 私の三歩前で足を止めた立花先輩は、ぴたりと両足を揃えると「私に何か用か」とうっすらとした微笑みをたたえて訊ねた。
「いえ、そういうわけではないのですけれども。立花先輩のお姿が見えたので、ご挨拶をと」
「なるほど」
 立花先輩は笑みを深め、手を口許へとやった。
 これという用事はなかったが、そもそも立花先輩とお話をすること自体が私にとっては何よりも優先される用件だ。私よりも頭ひとつ分高い位置にある立花先輩のお顔を眺め、何とも言えない満ちたりた気分になった。私の視線に気付いているだろうに、立花先輩はまったく気にした様子もなく悠然と屹立している。
 遠くから風に乗って、下級生のはしゃぐ声が聞こえてくる。忍たまかくのたまか、声変わりをしていない下級生の声では、どちらか判別がつかない。
「そういえば」
 風の中の声にぼんやり耳を傾けていると、立花先輩が思い出したようにそう切り出す。
「くの一教室はそろそろ下級生を連れての校外学習の時期か」
「はい」私はうなずいた。「もっとも、後輩たちは遠足遠足と喜んでいますけど」
 立花先輩の言う校外学習とは、年に何度か実施されるくの一教室の行事のことだ。先輩が後輩を引率し、町中でより実践的な演習をする。もっとも大半の下級生は、大好きな先輩と町に出掛けることができる、楽しい遠足くらいにしか思っていないのが現実だ。
「おまえも二年前はそうだったんじゃないのか?」
 揶揄うようにくすくす笑う立花先輩に、私は頬をふくらませた。
「そんなことはありません」
「どうだったかな。私はおみやげだといって、校外学習帰りのおまえから野の花をもらった覚えがあるぞ。たしか道中で摘んだと言っていたか」
「ええーっ、やだ! そんなの忘れてください」
「忘れるも何も、あのときもらった花は、押し花にして今も書に挟んでいる」
「やだー!」
 立花先輩の言葉に思わず悲鳴を上げた。
 と、通りかかった後輩のくのたまたちが、ちらちらと私たちに視線を送ってくる。私がそちらを見遣ると、視線のぶつかった下級生が慌てて、桃色頭巾の頭をぺこりと下げて早足に去っていった。なんとなく釈然としない気持ちで、私は彼女たちを見送る。
 私が立花先輩になついていることはくの一教室でもわりあい知られていることだが、一年生の子たちはおそらく、その辺りの事情を知らない。こうして忍たまの上級生と談笑している私は、彼女たちにはきっと物珍しく見えるのだろう。
 知らず、むっと眉をしかめる。すると立花先輩が、私の眉間をつんと人差し指でつっついた。
「忍たまと仲良くしているのを見られるのは、先輩の沽券にかかわるか」
「そ、そういうわけではないんですけど……」
 もごもごと口ごもり、私は視線を一瞬落とす。それから改めて、立花先輩を見上げた。
「くのたまが忍たまと仲良くしたら変ですか?」
 自分で聞いておきながら、けれど私は、変だと言われるだろうと心の何処かで思っていた。忍術学園に数年、いや数日在籍するだけで、忍たまとくのたまの果てなき応酬を目にする機会はいくらでもある。これはもはや、「そういうもの」なのだ。そのことは私も重々承知していた。私だって、立花先輩以外の忍たまと親しくするつもりは毛頭ない。
 と、しょんぼりと落とした私の肩に、立花先輩がそっとその手のひらを載せた。そして、
「変というか、珍しくはあるだろう。そもそも必要以上に親しくする必要も、理由もない」
 案の定、立花先輩はそう答えた。私が溜息を吐きかけた刹那、しかし、と立花先輩は続ける。
「しかし、私はおまえにこうして声を掛けてもらえたら嬉しいよ」
 そのたった一言で、私の心はふわりと天まで浮上した。かくも容易く、立花先輩は私を笑顔にする。
「ほっ、本当ですか?」
「ああ」立花先輩がゆるりと頷き、微笑んだ。
「といっても、下級生忍たまはおまえに声を掛けられたら身構えるだろうし、四年のおまえと年の近い五年とも、お互いどうしても含むところがあるだろう。無闇やたらと誰にでも声を掛けるんじゃないぞ」
「それは心得ております」
 ちょうどそのとき予鈴の音が聞こえ、はたと気が付いた。午後の授業の準備をするのを、私はすっかり失念していた。
「それでは失礼いたします」
「ああ。午後も頑張れ」
 ぺこりと先輩に一礼して、私はくの一教室へと急いだ。立花先輩が見送ってくれているのを背に感じ、ほくほくと心があたたかかった。

 先ほどまで、すぐそばの木の上で息をひそめて静かにしていた気配の主が、音もなく私のすぐそばの地面に降り立った。頭巾からこぼれたゆたかな髪が、はずみでふわりと大きく揺れる。
「仙蔵って得な性分してるよね」
 善法寺伊作はそう言って、人の好さそうな、それでいて我の強さを隠しきれていない顔で私を覗き込んだ。盗み聞きとは趣味が悪い、などとはもちろん言わない。盗み聞きは忍者の本分でもあるし、そもそも私としても聞かれて困る話をしているつもりはなかった。
「得な性分というのなら、おまえもそうだろう、伊作。いや、不運を差し引けばの話だが」
「いやいや、ぼくは仙蔵ほどうまくはやれないよ。さっきの何? たぶらかすってああいうことかと、真剣に観察してしまったよ」
「人聞きが悪い」
 二学年下の彼女を誑かしているつもりなど、当然のことながら私にはまったくない。
 風になぶられた髪を手櫛で梳いて、私は伊作から視線を外すと、彼女の走り去っていった方へと視線を転じた。
「誑かされないよう、こちらの方が必死なくらいだ」
「またまた、仙蔵はすぐそういうこと言うんだから」
 私の掛け値なしの本音を、伊作はあっさりと受け流した。
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