やさしいだけではない暮らし


 そんなわけで、私がこの世界にやってきて、早くも一週間が経過した。依然として、私は凶兆のしるしだなんだと難癖付けられ──もとい注意深く距離をとられ、魔法使いたちからは遠巻きにされ続けている。
 唯一真木さんだけはあの後も、同じ異界からやってきた客人の先輩として、どうにかして私と言葉を交わそうとしてくれている。しかしそれも私を警戒した魔法使いに阻まれて、なかなかうまく機会を掴むことができないようだった。私の方から真木さんにコンタクトをとろうにも、それがまたあらぬ誤解を受けてはやりきれない。
 遠巻きにされるのも真木さんから遠ざけられるのも、単なる嫌がらせならば別に私も構わない。いや構わないわけではないのだが、それでも幼稚な嫌がらせでしかなかったならば、こちらも躊躇いなく強硬手段に出られた。
 しかし事はそう単純でもないらしい。今の私にできるのは、せいぜい魔法使いを刺激しすぎぬよう、穏便に、穏健に、極力目立たず生存するくらいだ。真木さんと話をできないのは本来結構な痛手だが、これもまた仕方がない。今の私の立場を考えれば、どう考えても大切な賢者と仲良くできるはずがない。
 それに、うっかり真木さんと話が弾んでしまったら、私が真木さんについて本来知っているはずのない情報を知っていることを、ぺろっと口にしてしまうおそれもある──ベッドに転がり真木さんのことを考えて、私は深く溜息を吐いた。
 本当のことを言う。私はこの世界に来る前から、真木さんのことを知っていた。この世界でただひとり、代えの利かない特別な存在。二十一人の魔法使いを、ただ人の身で統べる異界人。異界より出でしまれびと、真木晶。
 最後に見た彼女はまだ高校の制服を着て、その胸に可憐な桜のコサージュをつけていた。卒業生だけが胸に咲かせる、楚々として愛らしいつくりものの花。三月の空は水色よりもなお淡く、校舎の三階から見える遠くの山のてっぺんには、白く雲がたなびいていた。
 卒業式の日、友達に囲まれ微笑む彼女に声を掛ける勇気もない私は、在校生の列から真木さんのことを見つめることしかできなかった。風でなびく制服のスカートは、ほかの卒業生たちよりも少しだけ丈が長くて、そういう先輩のことが私はずっと好きだった。
 今になって思い返せば、あれは恋というほど烈しく形をとるものではなかった。せいぜいが憧れ。その程度の慕わしさ。そしてその当時、真木さんにその種の気持ちを抱く同輩は、おそらくだけれど私以外にも何人かいたはずだ。真木さんの容貌はけして人並外れてすぐれているわけではない。それなのに真木さんは、私や、私と似たような女子生徒の目を不思議と惹くひとだった。
 懐古の念が潮のように押し寄せて、思いがけず胸がぎゅっと苦しくなった。高校時代のことなんて、もうとっくに忘れたような気でいたのに。ひとつ思い出すきっかけがありさえすれば、たちまち過去の記憶と感情が鮮やかに胸によみがえる。
 あれからもう何年も経つ。高校、大学と卒業して、今や私も社会人だ。同じだけ年ふり大人になった真木さんは、あの頃の面影を残しながらも、一方ではまったくの別人のようにも見えた。
 最初に塔で会ったときは、あの場所が薄暗かったこともあり、もしかしたら私の勘違い、人違いかもしれないと思った。だからこそ、賢者の名前を教えてもらおうと思っていたのだ。そして名を知るにいたり、ようやく私は賢者がかつての先輩だと、はっきり確信した。
 真木晶。
 この世界の唯一無二である賢者はたしかに、私が高校時代に憧れていた先輩だった。
「いやー、そんなことってあるんだなぁ……」
 ベッドの上で寝返りをうち、結構な声量でひとりごちる。
 真木さんとは彼女の卒業式で顔を見たきり、以後一度も顔を合わせていなかった。近所に住んでいることは知っていたから、真木さんの卒業後もしばらくはどこかで偶然鉢合わせしないかと期待していたが、特にそんなこともなく日々は過ぎていった。
 長らく忘れていた憧れ。遠い思い出として片づけていた恋しさ。今その憧れの相手は、この世界で賢者として頑張っている。真木さんに迷惑をかけたくはないし、この世界の人たち──魔法使いたちの言い分も、納得できないなりに理解はできる。だからこの一週間、私は極力部屋から出ることもなく、従順におとなしく、だらだらのんびり過ごしていたわけなのだが。
「さすがに一週間は長すぎない……!?」
 先程より一層大きな声を出し、もはや発声練習かと疑われるような声量で、私は自分に問いかけた。
 一週間。七日間。何の娯楽もない七日間。年末年始や盆の休みを考えれば、七日なんてあっという間に過ぎ去るような気もしてくる。しかしそれはあくまで日常のなかの休みであり、なおかつ潤沢な娯楽にあふれる現代日本での話だ。
 この部屋での七日間は、気が遠くなるほどに、精神が腐りかけてくるほどに、途方もなく長い時間に感じられる。実際問題、いつ終わるとも知れないゆるやかな軟禁状態を七日間も強いられれば、だんだん人はおかしくなる。アウトドア派ではない私ですら、徐々に限界を感じ始めているのだ。朝昼晩と筋トレやストレッチをしているが、それでも行動範囲が狭すぎることだけはどうしようもなかった。
 ふと視線を書き物机の上にやれば、裏返しにしたコップと水差しが置かれた銀のお盆が目に入る。水は毎朝と午後過ぎに、コップととともに持ってきてもらえる。コーヒーや紅茶が飲みたくなれば、部屋の中に設えられた簡易キッチンで事足りるようにもなっている。私はこの部屋しか居室というものを知らないが、この建物の中にある居室はどの部屋にもキッチンが付いているのだろうか。そうだとすれば豪華なことだ。
 風呂場とトイレはすぐ隣。一日三食上げ膳据え膳ときたものだ。自分がやんごとない身分にでもなったと思えば気分はいいいが、やんごとない身分ならばこんなふうに放置はされまい。
 のそりとベッドの上で状態を起こし、そのまま視線をドアへと遣った。時刻は昼過ぎ。うららかで長閑な昼下がりだ。今日は爆発音もしないし、衝撃で建物全体が揺れるようなこともない。
 昼食は数時間前に下げてもらったばかりなので、当分ここに誰かがやってくることはない。
 真鍮のドアノブには簡単な鍵がついており、たいていは内側から自分で施錠している。あくまでもこの軟禁は私の協力に基づくもの──魔法使いたちが率先して私をここに閉じ込めているわけではない。一応は、お互いそういう建前になっている。
 まあ、従わなければ何をされるか分からないのだから、これは実質脅迫といってもいいような気もする。だからこそ、私はこのゆるやかな軟禁を受け容れているわけで──
 そんなことをつらつら思い、ひとり暇に飽かせて思索に耽っていたそのとき。ふいに、私の胸をつらぬくように悪い思考が差しこんだ。
 そうだ。私は彼らに協力的で従順な態度を示しているが、それによって今のところ私に還元されるものは何もないではないか。三食寝床と着替え付きの条件は美味しいといえば美味しいが、最低限度の生活保障だけで満足する気はさらさらないし、満足しなければならない理由なんて何処にもない。
 飼い殺していたいのなら、相応に餌を寄越すのが飼う者としてのマナーだろう。その餌やりを怠っているとすれば、反旗を翻されたとて自業自得というものでは?
 もちろん魔法使いたちに反抗するといったって、いきなり脱走したり暴力沙汰を起こそうというわけではない。賢者に会いに行くというのも、いささか過激すぎるだろう。それは彼らにとって恐らくもっとも不快な行為だろうし、そもそも魔法使いたちとて何か対策を練っているに違いない。
 表だっての暴力沙汰ともなれば、どう考えても魔法が使える彼らに分がある。ミスラは日常的に建物を破壊する示威行為を怠らないし、それに対抗するオズはもっと凄まじい。ほかの魔法使いたちとて、少なくとも生身の人間よりは遥かに強いに違いない。
 対して私はか弱く丸腰。一週間筋トレしたくらいでは、肉体の改造など夢のまた夢だ。
 ここはひとまず、咎められても言い訳の立つ、ささやかな範囲での反抗に留めよう。本格的に反撃ののろしを上げるのはその後からでも遅くない。
 ひとたびそう決めてしまうと、なんだか楽しくなってきた。心が勇み、気が大きくなる。この七日間の軟禁生活で、私の中にはどろどろとした鬱憤が、すっかり澱のようにたまっていた。この鬱憤をばねにして、私は早速行動を起こす。
 まず手始めに、書き物机の上に置かれた水差しの水をコップに注ぐ。それをぐいっと一気に飲み干すと、すぐにまたコップを水でなみなみ満たした。半日分ずつ供給される水差しの水は、七、八回ほどコップを満たしたところで雫も残さず空っぽになる。
 次に、これもやはり書き物机の上に放置していた銀製のベルを手に取ると、それを鳴らさぬようにそっとベッドと壁の隙間の床に置く。こうしておけば、一見ベルは部屋のどこにも見当たらない。
 さて、これで準備は整った。私はたぷたぷになったお腹を服の上から撫でさすると、ひとりぼっちの部屋の中、誰にともなく宣言した。
「あーっ困った困った、暇すぎるせいで水を飲むしかすることがないのに、なんと水がなくなっちゃった。ベルもどこにも見当たらない。これは仕方がないから、自分で探しに行くしかなさそうだなぁ!」
 そんなわけで、私は初日に渡された部屋の鍵を手に取ると、水差し片手に意気揚々と部屋を出た。ちょっと身体を屈めただけで水が逆流してくるんじゃないかというほど苦しいが、この際背に腹は代えられない。水差しに水を足しに行くというような大義名分は、このささやかな反抗には絶対に必要だった。
 水差しの水を飲み干しながら、もしやこれを飲み干す必要はなかったのではないかと気付いたが、だからといって私のために用意された水を流しに捨てるのも忍びない。食事と水を運んできてくれるネロは悪い人には見えないし、そもそもこの世界で水がどれほどの価値があるものなのかも分からぬ以上、無闇やたらと粗末にすることも憚られた。
「魔法使いたちに反抗することと無駄遣いすることは別の問題だもんね」
 この七日ですっかり癖になった独り言を呟いて、私はそっとドアを閉めた。

 丁度良く借り物のスカートにポケットがついていたので、鍵はそこに忍ばせて、水差し片手に私は抜き足差し足忍び足で廊下を行く。幸いにして、廊下に人影はなかった。てっきりまた西の魔法使いのムルだとか、あるいは北の魔法使いだとか、そういうあまり空気を読まなさそうな人たちと鉢合わせするかもしれないと思っていたのだが、そういうこともはなさそうで、ほっとする。
 この魔法舎には現在二十人──幽霊を数に入れれば二十一人の魔法使いが生活しているらしい。彼らは大陸中から選ばれた当代屈指の強力な魔法使いらしいのだが、そのためなのか何なのか、賢者の魔法使いたちはどうも一枚岩ではないように見受けられる。
 私がトイレや浴室を使うために部屋を出る際に、たまたま通りかかることがある顔ぶれは、大抵西の国の魔法使いか北の国の魔法使いのどちらかだ。自己紹介をしてくれたのは、ムルとクロエとラスティカ。それにブラッドリー。時々ミスラやシャイロックと顔を合わせることもある。ミスラのことは怖いので、できるだけ目を合わせないように気を付けている。
 本来であれば、ここの魔法使いたちは私となど話もしたくないはずだ。実際、先程挙げた魔法使い以外の魔法使いたちは、私のことを腫物に扱うように──あるいはいないもののように扱うのがほとんどだ。恐らく、そうすべきだという一応の意思統一がされているのだと思う。
 それなのに、彼らはあまりその点について頓着していない。少なくとも、私の目にはそう見える。彼らは私が凶兆のしるしであると知っているはずなのに、此方から話しかければそれなりに普通に返事をしてくれる。特にムルは何かにつけて質問攻めにしてくるので、ここ数日はむしろこちらの方が避けているほど。どうやら出身の国ごとに社交性や性格のかたよりがあるらしく、西の国や北の国は個々の程度の差こそあれ、大勢にまつろうことを良しとしないらしい。

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