運命に偽りあり


「うわぁっ!?」
 それほど大きな爆発ではなかったのか、建物が倒壊することはなかった。それでも背後から爆風を受け、首の後ろがかっと一瞬熱くなる。一体何が起きたのだろう。目を白黒させて、私は呆然と廊下にへたりこんだ。
「え? え? なに……え?」
 頭上からぱらぱらと、建物の壁材らしきものが降ってくる。それが膝の上に落ち、借り物の衣装を白く汚した。
 首の後ろが熱い。こわごわと腕を伸ばして首の付け根にそっと触れる。幸い大きな怪我や火傷はしていないようだった。触れると少しだけ肌の表面が痛む、その程度の怪我だ。
 それでも、ショックを受けるには十分すぎる衝撃だった。
 いや、だって。今のって、下手したら死んでいたかもしれないような、そういう爆発だったじゃないか。
 それなのに辺りを見回せば、残りの魔法使いたちは平然とした顔でミスラの部屋から退出してくる。まるで「やれやれいつものことだよね」とでも言うように。私も、彼らも、あわや死にかけていたかもしれないのに。日常のワンシーン、同居人同士の些細な諍い──これはそんな、ありふれた、些末なことなのか?
 いや、そんなわけがあるはずない。
 そんなこと、あってたまるか。
 耳の奥で何か、糸が引きちぎれるような音が聞こえた気がした。それは恐らく、我慢と緊張の糸が切れる音だったのだろう。
 事ここに至って、昨晩から張りつめ続けていた糸は遂にぶつりと切れてしまったのだ。
「ん、驚いたかのう? 腰が砕けてしまったようじゃな」
 廊下の隅にへたりこむ私に気付いたホワイトが、ゆるりとこちらに近寄ってくる。あたかも慈愛に満ちた天使みたいな顔をして、彼は私に手を差し伸べる。
 しかしその手を私が借りることはなかった。かわりに廊下の壁に背を凭れかけ、自力で無理やり姿勢を起こす。そうしてようよう立ち上がったところが、私の理性の最果てだった。
「いや、違いますよね? 驚いたか、じゃないですよね!? 本当まじで何なんですか? 何あの人、まじでめちゃくちゃやばくないですか!? 今だってなんか爆音したんですけど!?」
 感情のまま魔法使いに詰めよれば、たまさか私の目の前にいたホワイトが、気の毒そうな笑みを浮かべて私の顔をそっと見上げる。ホワイトから見れば私はいきなり取り乱した狂人だ。気の毒そうな表情は、私の何かを哀れむためのものなのかもしれない。
 しかしそんなことは、今はどうだってよかった。
 私は今、死にかけたのだ。それも、明確に私を害そうとする意志によってではない、ただその場に居合わせて、巻き込まれたというだけで。
「だから言ったじゃろ、ミスラは人間関係の機微など解さぬ魔法使いじゃと」
「機微とかそういう次元じゃなくないですか!? あと一歩部屋から出るのが遅れてたら、私の身体が爆発四散していた可能性ありますよね!?」
「そうなっておれば我ら幽霊同士おそろいになっておったかもしれぬ。スノウ以外の誰かとおそろいとは、ちょっと照れるのう」
「幽霊とか冗談言ってる場合ではなく……いや、何て?」
「だから、おそろいじゃろ?」
「えっ、ホワイトさんって幽霊……、え? 死んでるってこと?」
「言っておらんかったか」
 二の句が継げぬとはこのことだ。私は言葉を失って、ただ目の前のホワイトをじっと見つめていた。
 爆発四散していたかもしれないこともかなりの衝撃だったのだが、ホワイトが幽霊だったということに、私は自分でも戸惑うほどに動揺していた。
 たしかにここは魔法使いがいるような世界なのだから、幽霊くらいいたところでちっともおかしくないのかもしれない。しかし魔法使いと幽霊って、同列に存在を語っていいようなものなのだろうか。だめだ、何も分からない。まったく分かる気もしない。
 実際、これでもここまで頑張ってきた方だ。しかしここらが私の常識と容量の限界のようだった。我慢、理性、常識、容量。すべてが限界。何もかもがいっぱいいっぱい。これ以上はもう本当に、無理だった。
 頭の中が混乱して、ついでに情緒もめちゃくちゃに乱れている。ミスラに手を握られていたときの生理的な恐怖だって、いまだに皮膚にひやりとへばりついている。冷汗と鳥肌がセットになって、私の恐慌状態に拍車をかけていた。
 これ以上何も考えたくはない。それなのに自分が死に直面したことと、ホワイトが幽霊であったこと──すなわち「死」が存在する世界なのだということ。そのふたつの衝撃が、私の思考の重たい蓋を無理やり抉じ開けた。
 もういやだ。
 思わずそう、願ってしまった。
 もういやだ。帰りたい。
 魔法使いとか意味が分からないし、
 こんなところで死にたくない。
 考えないように、見ないようにしていた思考が、抉じ開けられたはずみに首をもたげ、瞬く間に胸のうちで広がり蝕む。耳を塞いでしまいたいのに、ミスラの部屋からはふたたび何かが倒壊する音がした。それはこの世界が安全でなどないのだと、私に突き付けるような音でもある。
 爆風にさらされた首の後ろがじくじくと嫌な痛み方をした。
 そうだ、魔法使いだって死んで幽霊になるのなら、異世界人が生きのびられる保障なんてどこにもないじゃないか。むしろお金も魔力も何も持たない、この世界の常識すら知らない私のような存在が、どうしてこの世界でうまく生きのびてなどいけるだろう。考えないようにしたところで何の意味もない。何故ならそれは、わざわざ考えるまでもなく明らかなことだから。
 昨晩シャイロックに掛けられた言葉が、今になって頭の中でわんわんと鳴り響いている。魔法使いやこの世界の環境が、私にとっての毒となるかもしれないとは考えないのか。疲弊していた昨晩の私ならばいざ知らず、今まさに死に直面したばかりの私が考えないわけにはいかない。この世界は毒ではないのか。この世界は、私にとって安全な場所なのか。
 昨晩の私は、シャイロックの問いに何と答えたのだったか。ああ、そう、たしか──賢者。私と同じく異世界からやってきたという賢者が、普通にこの世界で生活しているのならば、喫緊の危機はないはずだと、たしか私はそう判断したのだった。疲労困憊で頭もろくに回っていないなりに。
 賢者──その存在をようやく思い出したとき、私ははっと気が付いた。
 そうだ。私が今会うべきはミスラなどという理解不能で危険な魔法使いではないはずだ。賢者こそ、私が対話すべき唯一の存在。唯一の情報源であり、唯一の理解者のはずじゃないか。
 昨晩双子は私に言った。賢者に会わせろというのなら、その前に魔法使いたちの方から頼み事があると。彼らからの頼み事を完遂するのが先決だと。
 しかし今やふたつの頼み事は聞き終えている。どちらの頼み事でも私はまともに役に立たなかったが、結果を出せとまでは彼らは私に言わなかった。ただ頼み事を聞いてほしいと、彼らが私に乞うたのはそれだけだ。ならば今の私には、賢者と話をする権利があるはずだ。
 取り乱したかと思えばふつりと黙り込んでいた私を、魔法使いたちはそれぞれ異なる表情で眺めていた。彼らの視線に晒されながら、私は彼らひとりひとりと順に視線を合わせ、長く閉ざしていた口をようやく開いた。
「結果はどうあれ、昨晩あなた方に言われたとおり、私はふたつの頼みを聞きました。頼み事はこれだけですよね?」
「そうだね」
 フィガロが慎重に応じた。私はそれだけ聞ければ満足だった。
「それならこの後は、あなた方の言う賢者という人に、会わせていただけますか」
 問いかけにもなっていない問いかけを私が発した瞬間、魔法使いたちが素早く目くばせしあうのが分かった。その様子に、私は胸のうちがすっと冷えるのを感じた。
 彼らは端から私に対し、賢者と引き合わせるつもりはなかったのだ。それが今、彼らの目くばせから明らかになった。思い返してみれば、彼らは最初から──それこそエレベーターを降りた直後からずっと、私と賢者が接触するのを阻み続けていた。
 理由までは知らないが、私と賢者が顔を合わせれば不都合なことが、何か魔法使いたちにはあるのだろう。だってそうでもないのなら、昨晩だってあの談話室に賢者がいてもいいはずだ。賢者だって自分と同じ世界から来た人間がいるのなら、どんな人間なのか確認したいと思うだろう。
「どうして黙っているんですか? もしかして、私は賢者様に会わせてはもらえないんですか? あなた方の頼み事を、私はちゃんと聞いたのに?」
 声が険をはらむのを、自分でもひしひしと感じ取っていた。感情的になるべきではないと、頭の隅で冷静な思考が働いている。この世界は私にとって異世界で、頼れるのはここにいる魔法使いたちだけなのだ。賢者に会わせてもらえないのなら、彼らに逆らうようなことをすべきではない。分かっている、分かっている。ちゃんと分かっている。
 必死で自分の心を宥めていると、ホワイトが嘆息とともに私の顔を覗き込んだ。
「まあ待つのじゃ。何事にも準備と段取りというものがある」
「私がこの世界に来るはめになったときには、何の準備もさせてもらえませんでした」
「それについては俺たちも同じだよ。君がこの世界に来ることは予定外のことだった。準備ができなかったのはこちらも同じだ」
 フィガロが冷ややかに横やりを入れた。たしかにそれは正論だ。昨晩の魔法使いたちの様子を思い出せば、フィガロの言い分にも一応の納得ができる。彼らの塔での警戒心をあらわにした様子は、まるで不意打ちで攻撃でもされたかのような過剰な反応にも見えた。明らかに丸腰の人間ひとりを迎えるには仰々しすぎる。あれは多分、有事の防衛だったのだろう。
 しかしそれならば──彼らの正しさを受け容れるとするのなら、私には何の主張の権利もなくなってしまうのだろうか。たしかに魔法使いたちは元々この世界の住人だ。異世界からやってきた人間を招き入れることもはじめてではない。
 彼らには私よりもずっと状況が見えているのだろうことは間違いない。しかしそれだけの理由をたてに、魔法使いは私に対し、諾諾と従うことを強要できるのだろうか。
 答えは否だ。
 そんなこと、とてもではないが承諾できるはずがない。
 彼らに正論があるように、私にだって正論はある。彼らの意見が尊重されるべきならば、私の意思も少しくらい尊重されてもいいはずだ。そうでないと、私はもう金輪際魔法使いを信用しようとは思えない。
「分かりました。フィガロさんやホワイトさんの言うことも分かりますから、今すぐに賢者に会わせろとは言いません。でも、会わせるつもりはないのなら、それならせめて、」
 賢者に会わせてもらえない、その理由を教えてください。
 そう反論しようと、私がフィガロをきっと見据えようとしたその矢先。
 フィガロが驚きに目を丸くして、食い入るように私を見つめていることに気が付いた。いや、正しくはフィガロの視線は私の肩先を通り過ぎ、さらにその向こうを見つめている。ほかの魔法使いたちも同様に、私ではなく私の背後に視線を送っていた。
「え……?」
 これはどうしたことだろう。
 気勢を削がれた気分になりながら、私もつられるようにして振り返る──振り返り、魔法使いたちの視線が釘付けになっている意味を遅まきながら理解した。
 私が振り返った先──そこには、困惑を顔いっぱいに張り付けて、ぎこちない表情で私たちを見つめているひとりの女性がいた。
「賢者様」
 シャイロックが、小さな声で呟いた。その声に、私ははっと我に返る。類まれなる美貌を持つ魔法使いたちを前にしておきながら、私は不意打ちで現れたその女性に、すっかり魅入られていた。
 この人が、賢者。
 思いがけず渦中の人物が登場したこともあり、私はすっかり言葉を失っていた。
 昨晩塔で顔を合わせたときには薄暗くて顔立ちがはっきりとは見えなかったが、こうして明るいところで見るとつくづくきれいな女の人だ。上品そうな顔立ちのなかに、子供のような茶目っ気がひそんでいる。相反する印象をこれほど自然に持ち合わせているのは、私の知るなかでも稀有な存在だ。
 その一方で、賢者は特別に神々しかったり、あるいは神聖な気配を漂わせているわけではない。教室の中や会社の食堂──何処にでもすんなりと馴染んでいそうな、そんな親しみやすい雰囲気を纏っている。気が強そうに見える瞳には、今はかすかな憂いが差していた。

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