好き嫌いの温床


 翌日は昼近くまでぐっすり寝こけ、目が覚めたのは太陽がかなり高い位置まで上ってからだった。あの状況でよくも眠れたものだと自分で自分に呆れるが、やけくそだったからこそ平気で寝られたというのもある。脳が考えることを放棄した結果の熟睡だった。
 ベッドの上で身体を起こし、ぐるりと周囲を確認する。見覚えのない部屋は殺風景で、よく言えば模様替えのしがいがありそう、悪く言えば無味乾燥の空間だ。
 昨夜この部屋に案内されたあとは、積もり積もった疲労によって室内の検分の余裕もなかった。朝の光の中でこうして改めて室内を見てみると、掃除こそ行き届いているものの、快適さや心地よさとは無縁なしつらえであることがよく分かる。調度品は書き物机と椅子、それにベッドのみ。書き物机があるとはいえ、紙もなければペンもないのだからどうしようもない。
 壁につけておかれた書き物机の上には、この部屋唯一の窓がある。窓からはこの建物の前庭にあたるのだろうか、よく刈り込まれた生け垣が地上に見えた。視線を横にスライドすれば、ひときわ高い塔のようなものが目に入る。おそらく昨夜、私がエレベーターで運ばれてきたのがあの塔なのだろう。考えれば考えるほど、理解不能な異常事態だ。
 だがその異常事態については、意図して考えないことにした。考えたところでどうにもならないことならば、ひとまず棚上げしたところで罰も当たるまい。
 それよりも今は目先の快適さ。しばらくここで過ごすことになるのなら、せめて花の一輪でも飾りたいところだ。そんなことを考えつつ、朝の身支度を整える。
 身支度といっても、着の身着のままでやってきた私には着替える服もない。困り果てた私はひとまず、枕元のベルを鳴らすことにした。昨夜渡された銀のベルだ。何かあれば鳴らしていいと言われているのだから、こんなところで遠慮などしていても仕方がない。
 ベルを鳴らすと待つほどもなく、部屋のドアをノックされた。急ぎドアを開くと、部屋の前には青い髪の青年。朝食の載ったお盆とともに、着替えをワンセット抱えている。
「これ、スノウとホワイトから。着替えが必要だって言われるだろうからってさ」
 青髪の男性が、目も合わせないままにぼそぼそと教えてくれた。一見物静かに見える彼もまた、よく見るとしっかり造作の整った顔だちをしている。青髪の男性は頑なに私の方を見ず、視線はなかなか合いそうにない。私ばかりあまりまじまじ見るのも申し訳なく、観察はそこまでに留めることにした。
 食事のお盆と着替えを順に受け取る。それらはひとまず、書き物机の上に置く。
「部屋の前に盆出しておいてもらえたら取りに来るから」
「あの」
 言うだけ言ってさっさと立ち去ろうとする男性を、私は慌てて引き留めた。男性はあからさまに面倒くさそうに「なに?」と振り返る。その顔を見て、身だしなみも碌に整えていない女に、急に呼び止められたら鬱陶しいかもしれなかったなと、今更のように考えた。昨日とまるきり同じ恰好をしている私は、お世辞にも身ぎれいとは言い難い。
 が、今は恥も外聞も気にしている場合ではない。そもそもここは私の暮らす世界ではないのだ。旅の恥はかき捨てとも言う。
「この食事はどなたが作ってくれたものですか?」
 勢い込んで尋ねると、男性が一瞬視線を彷徨わせ、「一応、俺……だけど」と言いにくそうに答えてくれた。
「なるほど、食事ありがとうございます」
 男性の腰にエプロンが巻かれているので、そうではないかとは思っていた。大皿の上に乗せられているのは卵焼きが挟まったサンドイッチ。パンの焼き目と香ばしいにおいが、寝起きの私の食欲を誘う。
 軽く頭を下げてお礼を言うと、男性は気まずげに目をそらした。
「別に、もともと大人数の朝飯用意してるから、ひとり分増えたくらいで大した手間でもない」
「それでもありがとうございました。いただきます」
「……大したもんじゃないって」
 お礼を言われて気恥ずかしいのか、それとも私と話をしたくないのかどちらだろう。男性の気まずげな態度から、私は見極めの難しさを実感する。
 今のところこの世界の魔法使いが私を歓迎していなさそうなことはたしかだが、だからといって必要以上に疎まれるおぼえもない。この人が私に対してどういう態度なのかを知ることは、この世界での自分の立ち位置を把握することに繋がるのではないかという期待があった。
 それに彼がここの厨房の主なら、できるだけいい関係を築いておくに越したことはない。見たところ娯楽らしいものは何もないのだから、せめて美味しい食事を楽しみにするくらいの希望がほしかった。
 男性は何かはかるように、訝しげな視線をこちらに向けている。目をそらされるよりは幾らかましだ。少なくとも嫌われているわけではなさそうで、私はひそかに安堵した。
「私は苗字名前といいます。ここの食事はいつもあなたに作ってもらえるんでしょうか」
「いや、もうひとり通いで……これ、教えていいのかな……」
 ぼそぼそと男性が独り言ちる。暫し悩まし気な顔で何やら思案していたが、やがて、
「まあ、俺がつくることがほとんどかな」
 あからさまに説明を省略した。まあいい。彼が厨房に立つことが多いのだろうことは間違いなさそうだ。
「いつまで此処にいるのかは分からないんですが、多分しばらくの間お世話になると思います。できることがあれば手伝いますので、よろしくお願いします」
「……まあ、何かあれば声かけるよ」
 今度こそ本当に気まずげに、青髪の男性はそれだけ答えて去っていった。きっとあの人が私に声を掛けることはないのだろうが、こればかりは仕方がない。得体のしれない異界人にほいほいと頼み事をするなんて、そんな人間は滅多にいない──と、そこまで考えて、いや、そうでもなかったっけなと、私はすぐさま思い直す。
 ドアを閉めて書き物机の上のサンドイッチに目を遣り、昨晩のことを思い出した。今日はたしか、ミスラという人のところに連れていかれることになっているはずだ。昨日話をした彼らはむしろずけずけと、いっそ図々しいくらいの勢いで私に「頼み事」を言いつける。
 サンドイッチをぱくついて、私はふうと息を吐いた。書き物机につくとちょうど、目の前には窓、そしてその向こうの空が見える。晴れ渡った空は私のよく知る世界の色と変わらずに、今日も世界を覆っている。
 そういえば、青髪の彼の名前を聞きそびれてしまった。そのことに気が付いたのは、サンドイッチを食べ終えお盆を外に出してからのことだった。

 朝食を食べ終え着替えも済ませ、ようやくひとごこちついたところを見計らったかのように、双子とファウストが私の部屋を訪ねてきた。ほかの三人──オズとフィガロとシャイロックは、すでにミスラの部屋に向かっているという。
 毎度ぞろぞろ大人数で移動しなくてもいいものをと、思いはしたが口にはしなかった。食事だけでなく着替えまで用意してもらった恩がある。不満をぶちぶちこぼす代わりに、
「ミスラさんっていうのは、どういう魔法使いなんですか?」
 昨日から気になっていたことをここぞとばかり聞くことにした。もしかしたら最初にエレベーターを降りたときにやってきた魔法使いの中にいたのかもしれないが、塔の中が暗かったこともあり、はっきり顔が分かったのはオズと双子、それに騎士風イケメンだけだった。あの彼の名前はなんというのだろう。そのうちまた顔を合わせることがあるのかもしれないが、できればそのときには剣を帯びていない状態でいてくれるとありがたい。
「そういえばミスラは昨日はおらんかったか。一言で言えば、世界で二番目くらいに強い魔法使いじゃな」
 にこにこと如才なく、双子の片割れスノウが答える。
「へえ、すごい。ちなみに一番はどなたなんですか?」
「オズじゃ。あの子はもう千年以上最強の座を譲らぬチャンピオンに君臨しておる」
「えっ、オズさんって昨日魔法を使おうとして寝落ちしてた人ですよね?」
「夜はちょーっと本気出せないみたいな。昼間のオズちゃんは文句なしのチャンピオンじゃよ」
 私たちがそんな会話をしている間も、ファウストはむっと口を閉じたままで私の後ろを歩いている。まるで自分が護送でもされているようで、あまり面白い気分ではなかった。まさかファウストは、私がこのいたけな双子に何かするとでも思っているのだろうか。
 そもそもファウストは昨日から、私に対して何を言うでもなくただ迷惑そうな顔をしているだけだ。文句があるなら言ってくれたら反論のしようもあるというのに、何も言われなければこちらも黙っているしかない。
 何か気付かないうちにファウストの気に入らないことでもしてしまったのだろうか。まさか私が人間だというだけで迷惑がっているわけでもあるまいに。
「何か考え事かのう?」
 ホワイトが愛らしい笑みを浮かべて私の顔を覗き込む。
「いえ、ちょっと……人間関係って難しいよなぁと思って」
「ほほほ、安心せい。今から会うミスラは人間関係を築こうという機微などまったく理解しておらん」
「それは安心するところなんでしょうか」
「今頃もどうせ気が立っておるはずじゃ。魔法舎を破壊される前にさっさと用件を済ませることにしよう」
 そうこうしているうちにミスラの部屋に到着した。背後のファウストからの視線をちくちくと感じつつ、私は第二の頼み事をこなすべく、ミスラの部屋のドアをこわごわ四度、ノックした。

 ◆

 結論だけ言えば、頼み事を受けたはいいものの、今度もやはり私は失敗したのだろう。
 ノックののちに踏み込んだ部屋で待ち構えていた魔法使いミスラは、目を引く赤髪と目の下に濃いくまを持つダウナー系のイケメンだった。私の周りには滅多に見ないタイプのイケメンだ。覇気がないのは食事を持ってきてくれた青髪の彼と同じだが、ミスラの方は先に聞き知っていた情報のとおり、人間関係をどうこうというような気遣いを一切しない、まったく自由な魔法使いのようだった。
 それほど広くもない部屋の中に魔法使いが七人。そして身の置き場に困り、できるだけ小さくなる私。総勢八名がぎゅうぎゅう詰めになった。呪術にでも使いそうな品々が乱雑に置かれているせいで、身じろぎひとつするのにも緊張して仕方がない。うっかりぶつけて壊そうものなら、めちゃくちゃ怒られそうな気がする。
 あやしげな骨や水晶に囲まれた室内で、ミスラはぐったりと寝台に横たわっていた。フィガロもオズもかなり上背があるが、ミスラも負けず劣らず長身の部類だろう。寝台から長い四肢がはみ出している。贅沢という言葉が、一瞬脳裏を過ぎった。
 ミスラは先に来ていたフィガロたちから、すでに事情を聞いていたらしい。おそるおそる私が寝台に近寄ると、ミスラは私の手を無造作に掴み、そのまま寝台の横に引っ張った。予告なく手を握られたことに驚き、「ひっ」と喉から悲鳴が漏れる。
 冷たくて温度のない、骨と皮ばかりの手。昨晩手のひらを重ねたオズとは違う、もっと無関心で、躊躇のない触りかた。その手の冷たさに、うっかり死者を連想してどきっとした。男性に手を握られたということよりも、生理的な恐ろしさの方が勝る。
「これで本当に寝られるんですか?」
 ミスラは私を一瞥もせず、私の後ろに控えるフィガロに視線を投げる。
「どうだろう。だめもとで、やるだけやってみて」
「はあ」
 見た目に違わぬ気だるげな調子でフィガロに答え、ミスラは今度は私をじろりと見上げた。ふたたび胸がどきりと鳴る。依然、手は握られたままだ。どちらかといえば手をつないでいるというよりも、つかまり、捕らわれているというのに近い。
 こんなことをして、一体何が分かるのだろうか。昨晩のオズは、手を重ねてうまくいけば魔法が使えるはずだったらしい。それではミスラも、うまくいけば魔法が使えるようになるのだろうか。いや、しかしさっきのフィガロとミスラの会話では、これで寝られるのかというような話をしていた。オズは実験が上手くいかずに寝落ちのようになっていたが、ミスラはそうではないのだろうか。
 何ひとつ分からないままにどんどん話が進んでいくことが、こんなにも不安を覚えることだとは思わなかった。自分の置かれている状況が、自分の知らぬままに刻一刻と変化している。私にできることは見知らぬ相手も同然の魔法使いたちから与えられる情報を信じ、その都度求められる通りにするしかない。
 暫しの沈黙の間、不安が胸にわだかまるのを感じながら、私はひたすら時間が過ぎるのを待っていた。ミスラの手はどれだけ握っていてもずっと冷たいままで、手をつないでいるときに感じる、肌と肌の境目が曖昧になる感覚はいっこうに訪れない。いつまで経っても私の手を掴むミスラの手は、私にとって怖ろしい異物以外の何にもならない。
 幸か不幸か、沈黙は、しかしそれほど長く続きはしなかった。
「全然駄目です。なんでこの人連れてきたんですか?」
 やがてミスラが溜息まじりに吐き出して、苛立たし気に私の手を放した。反射で私はさっと手を引く。そのままいつでも逃げられるように、急いでドアの方へと後退した。
 ミスラが気だるげな雰囲気を纏わせているのは先程までと変わりはない。しかし私の手を放り出したあたりから、明らかに彼の機嫌は悪くなっていた。もはやミスラは私に一瞥すらくれない。それなのに、肌がびりびりと恐怖を感じていた。こんなことは、これまで生きてきて一度もなかったことだった。
 この人はやばい、近寄ってはいけないタイプのやばい人だ──普段はなまくら同然の私の野生の勘が、びっくりするほどはっきりとそう告げていた。
「うーん、まずいことになりそうな雰囲気だな。よし、あとのことはオズに任せよう」
 よもやフィガロのひと言を、こんなにも有難く頼もしく感じることになろうとは。責任者としては甚だ責任感に欠けた発言だったが、今の私にはこれ以上なく待ち望んだ言葉だった。フィガロの言葉を聞き届けるよりはやく、私は逃げ去るような俊敏さでミスラの部屋から飛び出し──その直後、部屋の中から爆音がした。

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