なし崩しの夜


 この世界には魔法や魔法使い、魔獣というものがごく身近なものとして存在している──
 この世界にやってきた最初の晩、エレベーターのある塔から右も左もわからぬまま場所を移された私は、魔法使いたちからそう説明された。ちなみにその説明の場に居合わせたのは最初に声をかけてきた双子と黒髪長身のオズ、性別不明の麗し人シャイロック、室内でもサングラスを外さないファウスト、そして白衣を肩から掛けた自称医師のフィガロ。一応は彼らがここの責任者ということらしいが、人の子ひとりに対して向こうは六人がかりなのだから大仰というよりほかにない。
 彼らの口から説明された事柄は、どれをとっても私には信じがたいものばかりだった。ここが日本ではないどころか、そもそも別の世界なのだなんて、どうして信じられるだろう。
 とはいえ目の前で魔法のひとつも見せられてしまったら、信じないと言い張るのにも限界がある。マジックの域をはるかに超えた魔法はまさしく、神の御業とでも言いたくなるものだ。
 魔法。魔法使い。
 今私が座っているのは魔法舎と呼ばれる施設の、応接室を兼ねた談話室。
 魔法使いたちの、豪華できらびやかなねぐら。
 日本ではないどこか──異世界。
 およそ信じられる話ではない。が、信じないわけにはいかない。何故なら私が暮らす現代日本には、魔法や魔法使いなんてものはほぼ間違いなく存在しないのだ。その存在しないはずのものが存在しているのだから、ここは現代日本でない何処かだと受け止めるしかない。
「いや、だけどエレベーターに乗っていただけで、まさかそんなことになりますか……?」
 ひと通りの説明を受けたのち、私は肘掛け椅子で背を丸めたまま、耐え切れなくなり頭を抱えた。
 別の世界に転移するというのなら、普通はしかるべき準備の上で行われるべきでないだろうか。私はそういう話に疎いのだが、魔法陣とか最新の設備とか。とにかくそういう、一般の庶民には知られていないような技術が必須ではないのだろうか。こんな簡単に、事故みたいなノリで異世界に転移とかってしてもいいものなのか。
 こんなことならもっと漫画やアニメを見ておくべきだった。この世界に来た仕組みが分からないのだから、帰るすべも分からない。
 そんな悩める私に向け、シャイロックが愉快そうに目を細める。
「見たところ、貴女はこの世界がどういうもので私たちが何ものなのかということより、そもそもこの世界にやってきた仕組みの方が気になっているようですね。私たちやこの世界の環境が、貴女にとっての毒となるかもしれないとはお考えにならないのですか?」
 言われてみればたしかに、私は命の心配をほとんどしていなかった。本当ならば真っ先に、その心配をするところだ。
「まあ、そうですね……。そこまで深く考えていないというのが実際のところですけど、とりあえずあの人……、名前、なんでしたっけ? さっきの女の人」
「賢者様のことかな?」
 フィガロが答える。賢者というのは役職名であって名前ではないが、ひとまず私は頷いた。
「多分そうです。その賢者様とかいう人……私と同じ世界から来たはずのあの人が普通にここで暮らしているということは、いきなり私が死ぬような脅威──たとえば空気が合わなくて身体が蝕まれるとか、そういうことはないのかと思って……。だったらそれでいいかなと……楽観的すぎますかね……」
「ほほ、正直な娘じゃ」
「図太いところは賢者と同じじゃな」
 褒められているのか貶されているのかも不明だが、おそらく褒められているのだろう。自分に都合よく解釈して、私は話を続けた。
「この世界の事情については、よく分かりませんが……」
 年に一度訪れる<大いなる厄災>と、それを追い返す賢者の魔法使いたち。彼らを率いるまれびと、賢者──説明されたばかりの話を思い出しながら言う。
「まあでも、一応のところは納得しました。納得するしかないんですよね。それで、私はいつになったら賢者様とお話をさせてもらえるんでしょうか。今うかがったお話の感じだと、下々と話ができないような高貴な方ではないんですよね?」
「それはそうなんだけどね」
 フィガロが答えながら、視線を双子に送る。心得たといわんばかりに頷いて、双子は立ち上がると私のすぐそばまで舞うように近寄った。
「その前に、そなたに頼みたいことがふたつほどある。聞いてもらえるかの。──おお、よいか。良い子じゃ。そら、オズ。手を」
「名前よ、オズの手に自分の手を重ねよ」
 唐突に名指しされたオズを、私はおそるおそると確認する。最初に塔で顔を合わせたときから、私はこのオズのことが何となくだが苦手だった。単純に目つきが鋭く怖いし、私を歓迎していない態度を隠そうともしないからだ。
 しかし好き嫌いを言っている状況でもない。言われたとおり、私はオズの方へとゆっくり手を差し出す。手が震えるのはアルコールのせいではないはずだ。というか酔いなどとっくに抜けている。
 オズは身じろぎひとつせず、私の差し出した手をむすりと睨みつけていた。言っておくが私だって、好きでもない男性と手なんか重ねたくない。やれと言われたから付き合っているだけなのに。
「あの……、ものすごく嫌そうな顔をされてるんですけど?」
「オズ、手を出して。あと笑って」
 フィガロの要請に、オズは眉間の皺を深くする。
「……無駄なことを」
「無駄なこととは限らないでしょう」
 シャイロックが嫣然と笑む。その場の全員の視線がオズの手に集中した。
 やがて観念したのだろうか、オズはあからさまに嫌そうに、渋々こちらの手を握った。大きくて冷たくて骨ばった、そのくせ妙にすべらかな肌が、私の手をすっぽり覆うように宙で重ねられる。
 そのままじっと、重ねた手のひらを眺めること、数秒。
「ええと……」
「何も起きませんね」
 シャイロックが色っぽく嘆息する。
「オズちゃん、ちょっと魔法を使ってみて」
「無意味だ。この娘からは何も感じない」
「それでもじゃ」
 双子にぐっと迫られて、オズの顔はもはや不機嫌の絶頂のように歪んでいた。シャイロックの艶っぽさとは比較にならない、荒々しく心底面倒くさそうな溜息を、オズがひとつ大きく吐き出す。
「……≪ヴォクスノク≫」
 オズが何か不思議な言葉──おそらくは魔法の呪文を、ぶっきらぼうに短く唱えた。と、その瞬間、オズの身体が大きく傾いだ。重ねたオズの手のひらがずるりと落ちかけ、慌ててその手をぎゅっと握る。
 驚きオズの顔を見ると、どういうわけだかオズは目蓋を閉じ、あろうことかくうくう寝息を立てていた。
「……え?」
 いや、なぜ。今の今まで普通に話していたはずなのに、こんなに急に寝落ちすることがあるのか。寝落ちする赤ちゃんの動画でも、こんなに急に寝落ちすることはないだろうに。
 しかしオズのいきなりの寝落ちに驚いているのは、なんとこの場に私だけらしい。あとの五人は平然と、
「だめか。やっぱり賢者としての力をこの子は持たないようですね」
「ううむ……」
 などと会話を続けている。安堵とも落胆ともつかない空気がその場に流れ、私はまたもやいたたまれない気持ちになった。もしかしたらオズもこの空気に耐えかねて、寝たふりをして誤魔化しているだけなのかもしれない。そうしたくなる気持ちも、少しは分かる。
 フィガロが億劫そうに腰を上げ、オズの肩をぞんざいに揺さぶる。
「オズ、起きて。ああ、もう手は離していいよ。協力ありがとう」
 後半は私に向けた言葉だろう。言われたとおりに手を離し、私はまじまじとオズを見た。フィガロに揺さぶられて目を醒ましたオズは、やはり仏頂面をしている。寝起きが悪いという次元ではない。何もかもに腹を立てている人の顔つきだった。
「あの、今この人寝ましたよね? 私のせい、ですか?」
 オズの怒りが私に向いてはたまったものではない。自衛のために誰にともなく問うと、
「そうとも言えるし、そうではないとも言える」
 フィガロが隙のない笑顔で煙にまく。
「もしも今しようとしてたことが成功してたらどうなってたんですか?」
「魔法を使えていた、それだけだよ」
 返ってきた答えは、たったのそれだけだった。物腰の柔らかさに反して最低限の説明しか為されないのは、説明したところで私には分からないだろうということなのだろうか。たしかに魔法のことは分からないのだし、ほとんど部外者の私には話せないこともあるのだろう。最低限でも説明してもらえただけよしとすべきか。
 その場に重たい沈黙が落ちる。オズの仏頂面とフィガロのあからさまに答える気のない回答が、この場の全員を何とも言えず気まずい気分にさせていた。双子が顔を見合わせて「困ったね」という顔をしているが、一番困っているのは間違いなく私だろう。罰ゲームのような扱いで手を握られた挙句、聞きたいことにも答えてもらえず無言の責め苦にあっている。夢ならさっさと醒めてほしい。
 そんな空気に風穴を開けるように口火を切ったのは、妖艶な色気を漂わせたシャイロックだった。
「それで、この後はどうなさいますか? 先程話し合ったとおりミスラのもとにもこの方を連れていきますか?」
「今のを見たところでは望み薄な気もするが」
「失敗したらミスラちゃん怒りそうじゃな」
「それではミスラを訪ねるのは明日の朝にしましょうか。オズ様が魔法でミスラを止められる時間に試したほうがよさそうです」
「そうじゃな……」
 私の意見は一切求められぬまま、とんとんと話は進んでいった。ふと壁にかけられた時計を見れば、すでに夜も更け明け方が近いような時刻になっている。ここまで眠気はまるで感じなかったが、身体と精神の疲労はピークに達していた。
「そういうわけじゃ。悪いがもう一つの頼みは明日に延期させてもらうがよいか?」
「私はいいですけど」
 願ったりな提案に、私は迷わず頷いた。
 もしかしたら明日になれば、今夜のことはすべて夢、自分のマンションのエレベーターの中で泥酔していただけだと発覚するかもしれない。それはそれで相当嫌だが、見知らぬ土地で目を醒ますよりはずっとましだ。
「明日の朝はのんびり起きてくるとよい。そうじゃ、これを渡しておこうかの」
 ≪ノスコムニア≫、と双子が声を揃えると、何処からともなく銀色のベルが現れる。手渡されたそれは金属にしてはやわらかな肌ざわりだった。
「これは?」
「何か用があればこれを部屋で鳴らすとよい。すぐに我ら魔法使いのうち誰かが飛んでいこう」
 要するに、用事もないのに部屋から出るな、用事があっても部屋から出るなということか。シャイロックがかすかに哀れむような視線をこちらに寄越す。反対にファウストは黙りこくったまま私を見ようともしない。よくよく考えてみれば、この談話室にやってきてからというものファウストは一度も私に声をかけてはこなかった。同じ黙っているのでも、ファウストとオズでは多少事情が違うように見える。
「それじゃあ俺が部屋まで送っていくよ」フィガロが言った。「トイレと浴室は君の使う部屋のすぐ隣にあるから迷わずに済むね」
「わぁ、ありがたいですねー……」
 いよいよ生活範囲をきわめて狭い範囲に設定されてしまった。
 手渡されたベルを鳴らさないように注意して、フィガロの後をついて談話室を後にする。歩きながら手の中でベルをもてあそぶともなく触り、そういえば以前、アクセサリーを買う時に、銀は強度が弱いのでアクセサリーに加工するときには他の金属と混ぜ合わせるのだと聞いたことを思い出す。ということは、このベルはよほど銀の純度が高いのだろう。魔法で取り出したものということもあってか、ベルの表面には一点の黒ずみやくすみすらない。
 銀。古来より退魔の力を持つとされる金属。もっとも実際には、銀が暗殺用に盛られた毒物に反応するからという、いたって現実的な来歴だそうだが。
 ともあれ、私の夢見が悪くならぬようにと、わざわざ銀のベルを渡してくれたとは思えない。エレベーターを降りた時から感じ続けている居心地の悪さをまたもや感じ、私は眉をひそめてフィガロを追った。

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