幸福の贄、生煮えの糧


 その身じろぎにつられて、私は顔をネロの方へと向ける。そしてようやく、ネロの身じろぎが私とふたりきりになったことに対する気まずさゆえなのだと、そう思い至った。
 しまった。即座に思ったが、後悔したところですでに遅い。今更こちらの都合で、真木先輩を呼び戻すわけにはいかなかった。かといって、スタ米を炊こうと言い出した私がこの場を去るのも、あまりに無責任だ。となれば、どうにかネロにこの場を立ち去ってもらうよりほかに、この気まずさを打開するすべはない。
 弱火にかけた鍋が音を立てている。気まずさからか、頑なにこちらを見ずに鍋を凝視し続けるネロに、私はおそるおそる声を掛けた。
「あのー、ネロさん」
 ネロは一瞬ぎくりと肩をこわばらせた後、やはり複雑そうな表情でこちらを向いた。
「ネロさんも、ずっとここにいていただかなくて大丈夫ですよ。しばらくは火の加減を見ておくだけですし、そのくらいなら私ひとりで大丈夫ですから」
「いや、俺も作り方覚えたいから」
「そうですか。それなら、はい……」
 気まずいのならば出ていけばいいのに、何故だか妙なところで強情だ。料理人としての矜持がそうさせるのか、あるいは厨房の主として身許の不確かな人間をひとりこの場に取り残したくはないのか。いずれにせよ、ネロが厨房を出ていく気はなさそうだった。ならば仕方がないので、気まずくても何でも、ふたりで鍋を眺めているしかない。
 ネロが近くにあったスツールをふたつ引き寄せて、一方を私に譲った。並んで腰かけ火と鍋を眺めていても、特に連帯感を感じることはない。
「あ、そろそろ少し火を強くしましょうか」
 鍋の音を聞きつつ言う。ネロもそろろそろだと思っていたのか、訝ることなく火を強めた。そしてあとから、
「ちなみに今のは、どういう目安?」
 答え合わせでもするような調子で、首を傾げて私を見た。
「『はじめちょろちょろなかぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな』っていうお米の美味しい炊き方の歌がありまして。『はじめちょろちょろ』は、弱火から始めるってことなんですけど、時間は昔、飯盒炊爨はんごうすいさんやったときの記憶で、適当に……」
「適当って。大丈夫かよ」
「まあ、失敗しても食べるの私たちなんで」
 焦げたら焦げたで美味しく食べるし、芯が残ったらおじやにすればいい。料理人のネロが隣にいるのだから、よほど大きな失敗をすることもないだろうと、若干たかを括っている部分もある。
 ネロは私の回答に呆れたのか、ふっと肩の力をゆるめて苦笑した。はからずも場の空気もゆるみ、先程までのぎこちなさは多少なりとも軽減される。さすがに炊きあがりまで気まずい空気を味わい続けるのは困ると思っていたところだったので、内心ほっと安堵した。
 それにしても、私への気まずさゆえに鍋を注視していただろうとはいえ、ネロが鍋に注ぐ視線は真剣そのものだ。さすがにこの魔法舎で、厨房を任されるだけのことはある。聞けば、舌の肥えた美食家や、健啖家の魔法使いも多いなかで、ネロの料理は全員から支持を得ているという。
「ネロさんは真木先輩と一緒に日本――私たちの故郷の料理を、いろいろと再現してくれているんですよね」
「ああ、まあ……。そこまでいろいろ作ってやれてるわけじゃないけど」
 謙遜した物言いは、おそらく彼なりの本心だろうと察せられる。ネロだって賢者の魔法使いとしてすべきことがあるのだから、厨房での仕事にばかりかまけてはいられない。
 それでも、私がここで出してもらった和食のレパートリーは、けして少ないわけではない。真木先輩の性格を考えれば、真木先輩からリクエストしたというだけでなく、ネロの方から私たちの元いた世界の料理を再現しようと歩み寄ったのだろうことは、想像に難くない。
「ほかの魔法使いのひとたちを見ていても思いますけど……、皆さん本当に真木先輩のことが大切なんですね」
 鍋を眺めながら、何の気なしにそう呟く。すると鍋に映った不鮮明なネロの顔が、わずかに表情を変えたように見えた。そのまま視線を実物のネロに遣ると、ネロはばつが悪そうな顔で、こそこそと首の裏をかいていた。
「間違ってはないけど」しばらくして、ネロはぼやくように言った。「そうまっすぐ言われると、さすがに気恥ずかしいもんがあるな」
「そうですか? ぞんざいに扱っているよりはずっといいと思いますけど」
「それ当てこすり?」
「えっ!?」
「はは。うそだよ」
 狼狽えたところを笑われて、自分が揶揄われたのだと気が付いた。たしかにここで軟禁生活を強いられた――今も強いられ続けている私の発言とすれば、今の言葉は当てこすりに聞こえたかもしれない。ネロが冗談めかしてくれたおかげで、うっかりすると愚痴っぽくなるところを軽く流してもらえた。
 もしも今ネロが冗談にしてくれなかったら、後から自分で今の会話を振り返ったときに、言わなくてもいいことを言ってしまったと自己嫌悪するかもしれない。ネロにその気はなかったかもしれないが、今たしかに私はひとつ、ネロに助けてもらったのだろう。
 しかしネロは特に恩に着せるような素振りは見せない。だから私も、今の遣り取りについてはこのまま通り過ぎることにした。
「魔法使いのみなさんと同じように、私も、真木先輩のこと好きです」
「それは見てれば分かるよ」
「はい。だから真木先輩のことを大切にされているここの魔法使いたちは、きっと悪い人たちではないんだろうなとも思うわけでして」
「ふうん」
「いや、まあそうだったらいいのになっていう願望も、多分に含んでいるんですけど」
 そしてそれは、ここに来てからというもの折に触れ、私が考えていることでもあった。
 自分が大事にしている人やものを、同じように大事にしてくれている相手に対してならば、一定の信頼はおけるのではないだろうか。たとえ愛し方や大事にする方法、あるいは気持ちの程度が違っていたとしても、根底にある思いに致命的な差異はきっとない。近しい気持ちを共有できるというのは、理解のとっかかりとして悪いものではないはずだ。
 私が真木先輩を好きでいる気持ちと、魔法使いが賢者を大切にする気持ち。うまく噛み合わないことがあっても、そこだけは互いに信頼できたらいいと思う。
 と、ネロが、
「俺があんただったら、ここが悪い魔法使いの巣窟だった方がましって気もするけどな」
 皮肉っぽい笑みを口の端にうっすらと浮かべて、ぽつりとこぼした。思いがけないその言葉に、私は思わず首を捻った。
「どうしてですか?」
「だって善良なやつらに軟禁まがいのことされてたなんて、あんまり楽しいことじゃないだろ。それなら相手が悪い魔法使いで、あんたには非なんてひとつもないのに理不尽に虐げられたって考えてる方が、あんたにとっては優しい理屈だ」
「はぁ、たしかに……」
「まあ実際、あんたに非があるかって言われると、そういうわけじゃないんだろうけどな。俺たちの都合で悪いことしたよ」
 木製のスツールに腰かけ、背を丸め、身体の前で手を組んだネロは、淡々とそう口にした。顔にはうっすらとした笑みが浮かんでいるのに、不思議と誠実さが伝わってくる。その横顔を眺めているうち、私はたまらなくなって口を開いた。
「あの、薄々気付いてましたけど、ネロさんって実は、ものすごくいい人……?」
 尋ねた途端、ネロが嫌そうに顔を顰める。
「やめろやめろ。俺、そういうんじゃないから」
「ええ? でも、ものすごくきちんとされてますよね。なんかフィガロさんとか双子とか、ああいう人たちとは一線を画すというか……。あっ、これ別に悪口じゃないんですけど」
「いや、そりゃまああいつらに比べれば、俺なんか小物も小物なんだけど」
「別ににこやかに愛想よくされているわけじゃないのに、下手ににこやかな人たちより全然信頼できそうなこの感じ。人徳……?」
「そんなおだてるなって。いや本当に。まじで。つーかうっかり当人に聞かれでもしたら、絶対面倒くさいことになる……」
「それはたしかに。あ、ごはんいい匂いしてきましたね」
 自由かよ、と溜息を吐くネロの視線を、笑って受ける。生憎と本気で悪口を言えるほど彼らのことを知らない私だが、それでも「当人に聞かれたら面倒くさいことになりそう」というネロの主張には説得力があった。私としても、あからさまに私を警戒している魔法使いよりもむしろ、彼らの方が下手に人あたりがいいだけやりにくい。
 むろんそんなことを言えばどうなるか分かったものではない。思うだけで口にしないのが賢明だというくらいは、いくら何でも私にも分かる。
 鍋の蓋のふちから、白く湯気が立ち上っている。会話がふつりと途切れ、厨房に沈黙が落ちる。今度の沈黙にはもう、ぎこちなさのしこりは残っていなかった。
 ――けれどもその沈黙は、突風のようにやってきた賑やかさによって、たちどころに破られる。
「ん? なんだ、ネロと虜囚じゃねえか。どういう組み合わせだ?」
 騒々しく厨房に入ってきた顔を見て、私はげっ、と声を上げた。
「ブラッドリーさんだ……」
 顔を歪めた瞬間に、ブラッドリーが私の目の前までやってくる。長身を支える長い両足は、あっという間に彼我ひがの距離を詰めてしまう。
「お、嫌な顔しやがったな? おいこら虜囚、逆さにつるすぞ」
「暴力反対ー、裏切り反対ー」
「ああ? 終わったことをいつまでも根に持ちやがって。しつけえ女だな」
「根に持たれるようなことをする方が悪いんじゃないですか?」
 ブラッドリーと顔を合わせるのは、私が魔法舎に戻ってきた直後以来だった。基本的に夜型の彼とはあまり生活リズムが合わないし、そもそも私は部屋に引きこもっていることの方が多い。
 私が幸福の村でブラッドリーから受けた仕打ちについては、当然ながらそうそう水に流すつもりはなかった。とっくに恨みは鎮火しているが、しつこく言い続けるくらいは許されるだろう。せめてもの報復だ。もちろん相手は無法者のブラッドリー、ぎりぎり許されるラインは見極めるつもりでいる。
 ブラッドリーが小突き回すような手つきで、私の頭をぶんぶんと上下左右に振り回す。やめてほしいと思っても、ブラッドリーは私の頭を鷲掴みにしているので逃れようがない。リーチは圧倒的にブラッドリーの方が長い。
 と、ブラッドリーがふいに視線をネロの方へと向けた。
「どうしたネロ、根暗が豆鉄砲くらったような顔しやがって」
「ブラッドリーさん根暗に恨みでもあるんですか」
 あんまりな言い草に、思わず反論が口をついて出た。いきなり豆鉄砲の的にされたら、根暗じゃなくても驚くに決まっている。しかも発言主はブラッドリー。長銃を魔道具にしている素行不良魔法使いが言うと、いちいち冗談に聞こえないから怖い。
 口を挟んだ私に、ブラッドリーは煩わしげに目をすがめた。そして、
「根暗がびっくりしてんだから、間違ってはねえだろ」
 そら、とブラッドリーが顎でしゃくってネロを示す。頭頂部をブラッドリーに鷲掴みにされたまま、私は無理やり首をひねってネロの方を向いた。ブラッドリーの言うとおり、ネロは驚いた顔で私とブラッドリーを眺めていた。
 ネロはそのまま暫く絶句していたが、やがてゆっくりと口を開く。
「あんた」
「あ、名前です」
 私を呼ばわるネロに、一応自己紹介をしておく。あんたと呼ばれたことで、もしかしたら名前を知らないのかもしれないと思ったからだ。しかしよくよく考えれば、私は先程ミチルにも名乗っている。私の名前を知らないわけではないのだろう。
 それでも名乗られた手前ということなのか、ネロは「名前……さん」と私の名前を呼びなおした。
「あ、名前呼び捨てで大丈夫ですよ。私の方が多分年下だと思うし、この世界にない名前ってだけで呼びにくいと思うので」
「おい。てめえ俺様には『名前で呼ぶほど仲良くない』とか何とか言ったじゃねえか」
「ブラッドリーさんのがよっぽど根に持つじゃないですか」
 茶々を入れてくるブラッドリーのせいでなかなか話が進まない。視線でネロに先を促すと、ネロは一瞬気まずげに言い淀んでから、窺うような視線で私とブラッドリーを交互に見た。
「あのさ、あんたブラッドリーのこと怖くねえのか? もしかして、こいつが北の国の魔法使いってこと知らねえとか……?」
「知っててこの態度なんだよ、この虜囚は」
 私が答えるより先に、ブラッドリーが答えた。そのまま私の頭をぐしゃぐしゃにかき回す。鍋に映ったぼやけた自分の姿はもはや、正視に堪えない有様になっていた。
「虜囚じゃないです。苗字名前です」
 ブラッドリーの手を逃れるべく奮闘しながら、口癖のようになった抗議の言葉を繰り返す。ほかの魔法使いはともかく、ブラッドリーとは酒を酌み交わし、裏切られまでした仲だ。いい加減、名前くらいちゃんと覚えてほしい。大体、『賢者』のように正規の役職名で呼ばれるならともかく、私は虜囚ですらない。ひどい濡れ衣だ。
「私はブラッドリーさんの名前ちゃんと覚えてるのに」
 思わずそうぼやくと、ブラッドリーはけろっとした顔で、「名前? 名前だろ? ネロに名乗るのを聞く前から、そのくらい知ってるっての」などと平然とのたまう。
「えっ、じゃあもしかして、ちゃんと名前知ってるのに、わざと虜囚とか言ってたんですか?」
「んー? まあ、そういうことになるな」
「さ、最低……!」
「誰が最低だ。ぶん回すぞ」
「もうぶん回してるくせに!」
 やいやいと言い合う私とブラッドリーを、ネロが不味いものでも食べたような顔をして見つめている。
「……ブラッドのやつ、こういうタイプ好きだったか?」
「あ? なんだって?」
「なんでもねえよ」
 ほとんど聞き取れないような小声で呟いたネロは、やがて何かを吹っ切るような顔で溜息をひとつ吐き出した。ブラッドリーと私は顔を見合わせる。けれど視線を合わせてみたところで、聞き逃したネロの独り言の中身など、私たちふたりに思い付くはずもなかった。
 ブラッドリーはブラッドリーで、聞き取りそびれたネロの言葉にもさっさと関心を失ったらしい。今度はしきりに鼻をひくつかせ始める。
「つーかよ、さっきから気になってたこの甘い匂いなんだよ。その鍋か? ちょっと蓋開けてみろ」
「ダメです。『赤子泣いてもふた取るな』ですよ」
「へえ。赤子泣いても? なかなかいい根性した料理じゃねえか」
「何想像してるか知らねえけど、多分ブラッドが想像してるような物騒なもんじゃねえからな」

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