理想や憧れで腹はふくれない


 中庭をのぞむ大きな窓から、朝の眩しい光が食堂にふんだんに差し込んでいる。
「ごちそうさまでした」
 ぱちんと両の手のひらを合わせて、日本式の食後の挨拶をする。正面の椅子に腰かけ向かい合っている真木先輩も、私と同様に「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
 早朝の静けさを過ぎ、爽やかな空気が満ちる時刻。魔法舎の食堂にいるのは、私と真木先輩のふたりきりだ。
 今がちょうど、朝いちばんに朝食を済ませる組と、ゆっくり朝食をとる組の谷間の時間らしいというのは、真木先輩から聞いた説明。とはいえ実際には、食堂に顔を出すようになった私のことを、魔法使い側がそれとなく避けているという事情も、まったくないわけではないに違いない。

 私が魔法舎に戻って一週間が過ぎた。すでに軟禁状態は解除されているものの、だからといってこれまで互いに避けあってきた魔法使いたちと、いきなり仲良く共同生活を送れるわけではない。向こうとしても、災禍うんぬんを別にしてもなお、異分子である私と暮らすのはいろんな意味で気まずいはずだ。
 そういうわけで、結局のところ私はこうして、真木先輩とばかりつるんでいる。真木先輩は、数年の空白期間などまったく気にさせない大らかさで、この世界、そしてこの魔法舎で心細い思いをする私のことを安心させようとしてくれた。先輩には今も昔も頭が上がらない。
 とはいえもちろん、ただ飯食らいの私と違って、真木先輩には賢者としてすべきことが山のようにある。だから私が一人きりで過ごす時間というのも、当然ながら持て余すほどある。
 真木先輩が不在にしている、もしくは忙しそうなときは、私は真木先輩のおさがりの語学教材――真木先輩が独自に日本語で注釈をつけたこの世界の絵本――で勉強にいそしむことにしている。いくら会話に支障がないとはいえ、言語の読み書きをできないというのは死活問題だ。この世界である程度の期間生活することを覚悟する以上、読み書きの能力は必須だろう。
 勉強するのはもちろん、私にあてがわれた例の客室で、だ。本当は図書室にも行ってみたいけれど、魔法使いたちのスペースに勝手に踏み入る勇気はまだない。

 からっぽになった底の深い洋皿を眺める。皿の底を彩る独特の模様は、幸福の村の織物と同じく、この世界のどこかの地域の固有のものだろうか。おじやを食べ終えたことで現れた、底にあしらわれた模様に、誘われるように視線が向く。
「今日は久し振りにおじやでしたね」
 ぼんやりと皿の模様に視線を落としていた私に、真木先輩が話を振った。そういえば私が此処に戻ってきてから、朝食でパン以外のものが出たのは今日がはじめてだった。
「真木先輩。今日のおじやに入ってたお米って、厳密には私たちの世界で食べてたようなお米ではないんですよね?」
「そうみたいですね。慣れれば違いも気にならなくなりますけど」
 異世界トリップの先人である真木先輩は、そう言って何故だかちょっとはにかんだ。年上の女性だというのに、やたらめったら可愛らしい。
「まあ、お米『みたいなもの』でも、ないよりはあった方がありがたいですよね。日本人としては」
「そうですね。この世界の主食はパンなので、和食っぽいものはあんまりないんですけど、ネロが限りなく和食に寄せた料理をつくってくれて私も本当に助かってます」
「パンが続くと和食が恋しくなりますよね」
 そういえば、幸福の村では一面の麦畑こそ見たが、水田を見た覚えはない。幸福の村だけでなくその近くの村でも、稲は育ててはいなかったはずだ。栽培に適した気候などは分からないが、麦があればわざわざお米を栽培する必要がないというのも、理屈としては理解できる。
「別にこの世界ではお米が稀少な食材、というわけではないんですよね?」
「そういうわけではないと思います。ネロも普通に買い付けてきますし」
「ふうん、なるほど……」
 と、そんな話をしていると、厨房からネロが顔を出した。
「賢者さんたち、食べ終わった?」
「あっ、はい。終わってます」
 どうやら私たちの朝食が終わったと見て、空いた食器を片付けにきたらしい。ネロが厨房をあずかっているとはいえ、そこまで手を煩わせるわけにはいかない。私と真木先輩は慌てて食器を手に腰を上げた。
「遅くなってしまってすみません、ネロ」
「いや、いいよ。鍋とか洗うついでにあんたたちの皿もって思っただけだから。むしろ急かしちまったみたいで悪い」
「いえ、私たちももう食べ終えていたので。今日の朝食も美味しかったです」
「お口に合ったようで何より」
 気の置けない会話をかわす真木先輩とネロの横で、私はそろりと厨房をのぞいた。
 厨房には一度だけ入ったことがある。基本的にここの厨房はネロと、カナリアという通いのメイドが管理しているらしい。
 きちんと整頓された厨房には、色やかたちが様々な瓶や壺と一緒に、米櫃こめびつのようなものが置かれている。あの中身がお米もどきだろうか。そういえばお米もどきのことは「スタ米」というのだと、エマが教えてくれたっけ。
「あー、厨房に何か用?」
 私が視線をめぐらせていると、ネロが遠慮がちに問うてくる。真木先輩に接していたのと違って口調が固いのは、やはりまだ私には気を許していないからだろう。
「いえ、スタ米ってどんなお米なのかなと思って」
「スタ米?」
「ちょうど今、スタ米の話していたところだったんです」真木先輩が、さらりと言葉を足した。「ネロ、よければ見せてもらえませんか?」
「スタ米をか? 別にいいけど……」
 ネロはちらりと厨房を振り返る。戸惑いながらも、私たちを厨房に招き入れた。
 ホテルの厨房かと思うような広い空間の、これまた広々とした作業台の上に、米櫃は置かれていた。ひつは桐のような木材でできており、上部に蓋がついている。私がひと目で米櫃だと分かったのは、櫃のつくりが現代の米櫃とよく似ているためだった。
 ネロが手元に米櫃を引き寄せる。私たち三人は米櫃を囲んだ。米櫃を腕に抱くネロを挟んで、私と真木先輩が両側に立つ。
「パントリーにはもっとたくさん貯蔵してあるけど、場所をとるから直近で使うぶんはここに取り分けてる」
「直近といっても暮らしてる人数が多いから、結構な量ですよね」
「まあな」
 ほら、とネロが米櫃の蓋を開ける。中をのぞきこむと、精米されたお米のうっすら甘いにおいが香った。見た目もにおいも、私が食べ慣れている米とほとんど変わりない。食べ慣れると違いが気にならなくなる、と真木先輩が言っていたとおり、スタ米と普通の米では、それほど大差ないのだろう。
「お米のにおいってお腹が空いてきますよね」
 くんくんと鼻をひくつかせ、真木先輩が食いしん坊なことを言い出す。
「賢者さんたち、今朝飯あさめし食ったばっかじゃん」
「それとこれとは話が別というか……」
 そうですよね、と真木先輩が私に同意を求めるように視線を寄越す。私はそうですねぇ、と相槌を打ちつつ、米櫃から顔を上げると、ネロに顔を向けた。
「あの、ネロさん」
「……なに?」
 応じるネロは、あからさまに身構えている。若干出鼻を挫かれた気分になりながらも、私は気持ちを奮い立たせて続けた。
「良ければあとで少しだけお鍋と火を貸していただきたいんですけど、お時間ありますか?」
 私の問いかけに、ネロが訝し気な顔をする。そのまま彼は、横の真木先輩に目くばせした。
 おそらく私と直接遣り取りをするよりは、緩衝材として真木先輩を挟んだ方がいいと判断したのだろう。ネロの意を汲んで、真木先輩が私に「何かつくりたいものがあるんですか?」と小首を傾げた。
「つくりたいというか、せっかくお米みたいなものがあるのなら、普通に鍋で炊いて白米みたいに食べてみたいなと思って。案外やってみたらうまくできるんじゃないかなと思うんですけど」
 この世界にやってきて、おじややパエリアは食べさせてもらった。だがお米をただふっくら炊いたものはまだ食べていない。おそらく、そういう調理法がないか、あっても魔法舎ではメジャーではないのだろう。私の話を聞くネロのピンと来ていなさそうな顔からも分かる。
「真木先輩、白米食べたくないですか?」
「あっ、食べたいです」
「はく……?」
「スタ米を鍋でふっくら炊いてみたいっていう話です」
「それはおじやとは違うのか?」
「違いますね」
 きっぱりと断言すると、ネロはしばし考え込むように口を閉ざす。やがて沈思ののち、
「昼飯のあと、夕飯の仕込みをするまでの間なら」
 ネロはそう言って、溜息を吐いた。
「ありがとうございます。じゃあ、午後よろしくお願いします」
「了解。あと、朝食の食器はこっちで洗っておくからいいよ」
 これはどうやら、これ以上厨房に長居してくれるなというサインらしい。私はネロと、それから間を取り持ってくれた真木先輩に頭を下げ、厨房を後にした。

 ネロと話があるという真木先輩と別れ、ひとり食堂を突っ切っていく。胸のうちはひとまず、ほっと安堵に包まれている。
 ネロは見るからに私と関わり合いになることを避けている。完全に突き放しているわけではないが、あくまで一線引いたところにいたいというスタンスのようだ。だからお米を炊くのに付き合ってほしいと頼んだところで、正直受けてもらえるかどうかは五分五分だろうと思っていた。
 きっとネロは料理人として、異世界の調理法への好奇心に抗えなかったのだろう。そう考えると、プロフェッショナルの意識の高さに付け込んでいるようで、多少の申し訳なさも感じる。とはいえ白米を食べたいという日本人的欲求を満たすためには、厨房の主たるネロの手助けは必須だ。
 せめて上手に白米を炊けて、ネロの協力に報いることができますように。そんな身勝手なことを考えながら、私は午後までの時間をつぶすべく、あてがわれている客室へと引き返した。

 ◆

 昼食を食べた後、頃合いを見て厨房を覗くと、すでに真木先輩とネロは集合していた。もじもじする私に気付いた真木先輩が、笑顔で私に手招きしてくれる。その可愛らしい仕草に誘われて厨房に入ると、作業台の上にはすでに、金属製の鍋とスタ米が用意されていた。
「おお……」
 思わず声がもれる。元いた世界では、鍋でわざわざ米を炊く習慣はなかった。自分で言いだしたことながら、うまく炊けるだろうかと、緊張と期待が同時に胸にわいてくる。
「土鍋じゃないので、なんかキャンプの飯盒炊爨はんごうすいさんみたいですね」
「たしかに。カレーが食べたくなってきます」
 午前に引き続き、またしても真木先輩が食いしん坊発言を繰り出した。かつての憧れの先輩は、一緒にいると案外かなりお茶目な人柄だということが分かる。
 そういえば記憶の中の真木先輩よりも、今目の前にいる真木先輩は、こころなしかふっくらとして肌艶がいいような気がした。ネロのつくる料理は美味しいから、ここで生活していると食欲が旺盛になるのかもしれない。
 真木先輩を見るネロの目は優しい。やはり自分の作った料理をもりもり食べてくれるのは気分がいいよなと、そんなことを考えつつ、私はそでをまくり、ネロが取り分けてくれているスタ米の入ったお椀をのぞきこんだ。
「あんまりたくさんやって失敗しても困りますし、まずは二合くらいにしておきましょうか。私と真木先輩とネロさんの分」
 うろ覚えの記憶を過信するわけにもいかない。失敗した場合のことも想定しておかなければ。
「俺も食べていいの?」
 ネロが控えめに問う。私と真木先輩は「もちろんです」と揃って頷いた。
 できればネロには白米の炊き方と味を覚えてもらいたい。そうすれば次からはネロがお米を炊いてくれるだろうし、そのぶん白米をリクエストしやすくなる。
 お椀から鍋にスタ米を移し、適量の水にひたす。こうして見てみると、慣れ親しんだ白米との違いはほとんど分からない。強いて言えばスタ米の方が、気持ちばかりつややかだろうかというくらいだ。
「もしも上手に白米が炊けたら、漬物とかも欲しくなりますよね。真木先輩は何の漬物がお好きですか?」
「うーん、たくあんとか……?」
「あー、いいですね。そのうちたくあんも漬けましょうか。こっちの世界って大根あるのかな」
「ラディッシュとかならあるはずですよ」
「ラディッシュでもいけるかな?」
 さすがに厨房でいきなり漬物をつけたら、においがきつくてネロに嫌がられるだろうか。料理人のネロならば案外、寛大な心で受け容れてくれるのかもしれない。
「焼き魚と味噌汁はここでも作れますからね」
 ね、ネロ。と真木先輩がにこにこと付け足す。
「あと、白米炊くのに成功したらお寿司とかも作れるんじゃないですか?」
「可能性は無限大ですね……!」
 おもに私と真木先輩が和気藹々と話をしながら、のんびりと米が水にひたるのを待つ。しばらくして、ようやく鍋を火にかけたところで、ふいに食堂の方から真木先輩を呼ぶこどもの声が聞こえてきた。
「賢者様、いらっしゃいますか?」
「ミチル? 何かありましたか?」
 真木先輩の声に応じて、少年がひょこりと厨房に顔を出す。ミチルと呼ばれた少年は、私と目が合うとハッとした顔をして、少しだけ緊張したおももちで「はじめまして」と挨拶をしてくれた。
「はじめまして、苗字名前です。お世話になっています」
「いえっ、あの、ミチルです。よろしくお願いします!」
 小学生か、中学生くらいの年回りだろうか。やわらかな髪が、お辞儀とともにさらりと揺れる。立ち居振る舞いから、育ちの良さが滲み出ているようだった。
 ミチルは固い笑顔で挨拶をしたあと、改めて真木先輩へと向き直った。
「今、中庭でフィガロ先生に授業を受けていたんですけど、実技演習をするのにもしよかったら賢者様にも参加してもらいたい、ってフィガロ先生が……。あっ、でもネロさんたちと用事があるのなら大丈夫です」
 ミチルが遠慮がちに、私とネロに視線を寄越す。大丈夫だと言いつつも、真木先輩に一緒に来てほしいと思っているのは明白だった。
「真木先輩、炊けるまでまだまだ時間ありますし、ここは大丈夫です。ミチルくんと一緒に行ってあげてください」
 私がそう言うと、ミチルは分かりやすくほっとした顔をした。私としても、賢者としての仕事を断ってまで、一緒にお米を炊いてほしいなんてわがままを言うつもりはない。真木先輩を賢者扱いしないこと、というのが私が自分に課したルールだが、それはあくまで自分の中でのものであり、ここでのルールをひずませてまで押し通すものではなかった。
「すみません。ネロ、名前さん。それじゃあちょっと、ミチルと一緒に行ってきますね」
 申し訳なさそうに何度も頭を下げながら、真木先輩はミチルに手を引かれていった。真木先輩の上着の裾がひるがえるのをぼんやりと見送っていると、すぐ横でネロがそっと身じろぎした。

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