エピローグ/第一部


 その日の晩、私はふらふらとまるで導かれるようにして、魔法舎の中庭へと足を運んでいた。月を雲が覆い隠し、薄曇りの夜だ。星もないので視界はあまりよくないが、部屋にいるよりは気が紛れる。
 私の軟禁はとかれ、今後は魔法舎の中ならばある程度自由に歩き回っていいことになった。私が幸福の村で生活している間に、魔法使いたちは魔法使いたちなりに、私の処遇を定めたらしい。目下の害や災禍はないだろうと、そう判断されたのだそうだ。
 とはいえ、いきなり魔法使いたちと打ち解けられるはずはない。こちらにも抵抗感や意地はあるし、それは魔法使いたちにしても同じことだろう。勝手に魔法舎を出ていった挙句、賢者である真木さんと楽しげに異世界の話をする人間など、どう考えても受け入れがたいに決まっている。
 屈託なく付き合うというのはまだまだ先になりそう──それどころかそんな日は永遠に来ないかもしれないが、それならそれで仕方ない。どのみち人間同士だって、仲良くできない相手はいるのだ。魔法使いみんなと親しくするという方が無茶な話だ。
 食事だけは、みんなと同じように食堂でとることにした。ネロにいつまでも配膳させるわけにはいかない。魔法使いたちと時間をずらしたり、真木さんと誘い合わせてということになるだろうが、それも詳しくは決まっていない。
 落としどころとしては、こんなところなのだろう。私と魔法使いの双方が譲れるのは、せいぜいがここまで。これ以上は多分、無理だと思う。
 もちろん私もいつまでもここにいるつもりはないから、ゆくゆくは魔法使いの監視の目が届く範囲で働いたり外に家を借りたりするつもりだ。それまでは、ここで問題を起こさずやっていくしかない。
 そんなことを考えながらぶらぶら歩き回っていると、ふいに視界を人影がよぎった。その人物は私に気が付くと、「あっ」と声を上げる。それからくるりと体の向きを私の方へと向け、私を待ち構えた。
 風がにわかに強く吹いた。頭上でゆっくりと雲が流れている。
 やがて雲の向こうから月が顔を出すと、青白い光が中庭を明るく照らした。
「あの……」
「こんばんは。家出失敗しちゃって、連れ戻されちゃった」
 目のまえにいた男の子──クロエに、私はぎこちなく微笑みかけた。クロエのことは、幸福の村にいるときにも時折ふと思い出すことがあった。戸惑いながらも私に声を掛けてくれようとした、見るからに内気な男の子。魔法舎に戻って機会があれば、今度は私から話しかけてみようと決めていた。
 クロエから好かれているなどという、とんでもない自惚れを持っているわけではない。もしかしたら嫌がられるかもしれない、背を向けられるかもしれない。そうされたとしたら、それはそれで仕方のないことだ。
 覚悟だけ決めて、私は一歩、クロエへと近づく。と、次の瞬間、
「ぶ、無事でよかったよ!」
 突然クロエが大きな声で叫んだ。思わず私は足を止める。
 静かな夜に、男の子にしては高い声。一瞬びっくりしてしまったが、よくよくクロエの発した声を思い返してみれば、それが私を拒絶する台詞ではないことを理解する。
 クロエは顔を真っ赤にして、地面と私の顔を交互に見つめていた。少なくとも、嫌がられてはいないのか。ほっと胸を撫でおろす。
 クロエはきっといい魔法使いなのだろうという予感はあった。だが実際に、こうしていざ相対してみると、ほかの魔法使いと顔を合わせるときよりもずっと、クロエと向き合う自分が緊張していることに気が付いた。きっと無意識にクロエからは嫌われたくなかったんだと、自分の正直な心に気付いて苦笑する。
 そのクロエは、先程の叫び声がうまく言葉の呼び水になったのか、前回よりも言葉を探し選び取るのに苦戦していないようだった。暫しの戸惑いののち、
「俺、本当はずっと君と話をしてみたくて……だけどいきなり俺なんかに話しかけられたら困るかなと思うと、なかなか……。突然部屋を訪ねるのも変でしょ?」
 と、おずおず尋ねてくる。ああ、やっぱり優しい。そう思いながらも素直に喜べないのは、私の「凶兆のしるし」という不本意な扱いが、完全に払拭されたわけではないからだ。
「ええと……その質問に答える前に、こちらから質問させてほしいんだけど……クロエくんも私が災禍のきざしだとか凶兆だとか、そういう話は聞いてるんだよね? ああ、もしかしてカインたちみたいに、クロエくんも私が塞ぎこんでるって話とかまで聞いてるのかな」
 私自身はクロエと親しくなりたいが、私と親しくしたところでクロエに不都合があっては困る。あとから困ったことに巻き込まれただとか、知らなかっただとか言われるのはつらい。だから最初にこうしてきちんと、私のことをどの程度知っているのか聞いておきたかった。知らないで親しくなってしまったら、あとからつらくなるのはクロエだ。
 しかしそんな私の懸念を、クロエはぶんぶんと首を横に振って否定した。
「そういう話があるってこと、一応俺も聞いてはいるよ……。でも、西の国の魔法使いの先生はシャイロックだから。そういう怖い話があるってことも、カインたちには一時的に嘘を、いや、嘘なんて言ったら言い方が悪いけど、でも、そうやって事情を隠して君から遠ざけてるってことも、シャイロックは包み隠さず教えてくれた。知ったうえで、君と仲良くなりたいかどうかを俺が自分で決めるべきだって」
「し、知ってるのに仲良くなりたいの……?」
「もしかして、嫌だった!?」
 クロエが真っ赤な顔をたちまち真っ蒼にした。私は慌てて首を振った。
「違う違う、嫌じゃないよ。ただ、ええと……そう、びっくりした」
「びっくり……? 仲良くしたいと思われることに?」
「だって普通、縁起が悪いものには近寄らないようにするでしょう。まして、私はみんなの大切な賢者様を傷つけるかもしれないとまで言われてるんだし。フィガロさんたちが嘘をついてまでカインたちを私から遠ざけたのも、ここの魔法使いや真木さん──賢者様に何かあっては困るからって、そういう考えがあってのことなんでしょう? クロエくんは、そういう心配はしなかったの?」
 私の問いに、クロエは躊躇うように視線を伏せた。その些細な仕草だけでも、彼が私に話しかけてくれるまでの間に、どれほどの思案と葛藤を抱えたのかが容易に想像がついてしまった。優しい優しい男の子。きっと大切なものを天秤にかけることは、本来ならば得意としていないだろうに。
「それは……たしかに賢者様のことは心配だよ? 俺は賢者様のことがすごくすごく大好きだし、俺の気持ちの問題だけじゃなくて、賢者様はこの世界に必要とされている大切な人だしね。だけど──」
 クロエが戸惑いがちに揺れる大きな瞳を、おそるおそると私に向けた。
「君がこの世界に喚ばれてしまったことも、不吉だと言われてることも、そういうことは全部、君が望んでそうなったことではないでしょ?」
 その瞬間、クロエの言葉以外の音が、すべてこの世界から消えてしまったような心地がした。たったそれだけの言葉。たったそれだけの問いかけ。
 しかしそれは、私がこの世界に来てからずっと、誰かに言ってほしかった言葉だった。
 心臓のあたりがざわざわして、顔に熱がみるみるたまる。けれどそれはけして、心を昂らせるような、苛烈な感情を伴ってはいなかった。
 そうではない。そうではなくて。
「俺も昔、魔法使いに生まれたせいで、いろいろ嫌な目に遭ったから……。そのせいで自分なんて価値がないものだと思ってたし、自分に関わる人間の価値を下げる、貶めることになると思ってた。
 今でも魔法使いは悪をなすものって言われたら、驚くし、怖くなるよ。だって、絶対にそうじゃないって俺には言い切れないもの。そういう魔法使いだってたしかにいるし、俺も、誰のことも傷つけたくはないけど、何かの間違いで誰かを傷つけたり、災いをもたらしたりしないとは限らないから」
「……でも、それは、魔法使いも人間も同じことじゃない?」
「そう! だから、俺も君も同じだと思う」
 私の掠れ声の相槌に、クロエは嬉しそうに肯いた。
 胸の中がじわじわと、熱く熱くなっていく。もしも胸のなかに感情をたたえる器があるのなら、それは今、きっとこぼれるぎりぎりまでクロエへの感謝に満たされているだろう。もうあと少しで、気持ちがこぼれてしまいそうになる。だけど絶対に、こぼしてはいけないのだ。中身を少しもこぼしたくない。クロエがくれるこの熱くてやわらかくて優しい気持ちを、私は少しも損なうことなく、胸のなかに大切に感じていたかった。
 クロエの熱弁は続く。彼は今、どれほど私と友達になりたかったのかを、熱烈に語っているところのようだった。気恥ずかしさなど感じる余裕もなく、私はその言葉ひとつひとつに耳を傾ける。
「俺はラスティカに会って救われたんだ。ラスティカって、あんなふうにぽやんとしてるけど、本当はすっごい魔法使いなんだよ。ううん、たとえすっごい魔法使いじゃなくても、ラスティカは俺にとって大切で、すばらしい師匠なんだけど」
「そうだね、それは私にもなんとなく分かる気がする」
「だから、今度は俺が君に手を差しのべられたらな……って。あっ、もちろん俺はラスティカみたいに凄いことはできないし、誰かを──君のことを救うなんておこがましいことを思ってるわけじゃないよ? ただ、昔の自分がされてつらかったことを、君に同じように繰り返すことはしたくない。自分ではどうすることもできない境遇を理由に、君のことを疎んじたりしたくない。そう思って君に話しかけるのは、迷惑だったかな……?」
 ようやく一息吐いたクロエは、期待と不安が混ざり合った瞳を私に向けて返事を待っている。
 私は泣きそうな気持ちになるのをぐっと堪えて、それからそっと、クロエに手のひらを差し出した。
 クロエがかつてラスティカにしてもらったのと同じように、私に優しさを差し出してくれるというのなら。
 私もまた、あの日真木さんが名前を教えてくれたのと同じように。
「私の名前は苗字名前です。この世界に来てまだ日が浅いから、いろいろと分からないこともあるし至らないこともあると思う。それでもいいと思ってくれるなら、クロエくん、私と友達になってくれませんか」
「うん、よろしくね、名前! あっ、名前で呼んだら馴れ馴れしい!?」
「ううん、クロエくんさえよければ名前って呼んでほしい」
「俺のこともクロエって呼んでほしいな」
 青白い月光が皓皓と照らす夜半の中庭で、私とクロエはしっかりと握手を取り交わす。賢者様は私の支えるべき先輩で、ブラッドリーは油断ならないが気の置けない相手。エマは私の先生で友達。
 そしてクロエはこの世界で、はじめて私の友達になってくれた。優しくておしゃれな魔法使いだった。

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