夜空に星は輝かないけど


 私とブラッドリーが魔法舎にたどり着いたのは、昼食時をやや過ぎた頃だった。
 魔法舎に戻るなり双子から労われたり、フィガロからにこやかに釘を刺されたり、はたまたオズからどうでもよさそうな一瞥をもらったりしたのち、私は以前使っていたのと同じ部屋へと連れていかれた。しばらく空けていたにもかかわらず、室内は私が逃げ出したときと寸分たがわぬ様子で、さっぱりと殺風景な状態を維持している。
 本当ならばもう此処に戻ってくるつもりはなかった。だから誰に何処を触られていようとかまわないつもりでいたのだが、ベッドメイクがきちんとされている以外何もかもそのままの状態は、なんとなく嬉しいような居心地が悪いような、そんな複雑な気分にさせられた。
 戻ってくるのを待たれていたわけではないのだと思う。私は本来この世界にとって、凶兆のしるしなのだから。
 けれど、戻ってくる場所がないわけではなかった。嫌がられても、疎まれても。虜囚でも、賓客でも。魔法使いたちが私にここにいるよう望むなら、ひとまずはその要望を受け容れてもいいのかもしれない。嫌々だけど、自分の意志で。
 そんなことを考えていると、ふいに部屋のドアをノックされた。続けて「真木です」と声がかかる。私は弾かれたように立ち上がると、一目散にドアまで駆けていき扉を開いた。
 真木さんは前に見た時と同じ出で立ちで、心細げにドアの前に立っていた。
 真木さんとふたりきりで話ができるようにブラッドリーが話をつけてくれたのは、私が魔法舎に戻ってきてすぐのこと。話をつけたといっても、実際には私が直接双子に頭を下げたのだが、一応の口添えはしてくれた。
 もっとも、私が頼まずとも真木さんの方からも、私とふたりで話がしたいと魔法使いたちに要請があったらしい。こんなにもあっさりと面会を許されたのは、真木さんからの働きかけがあったからというところが大きい。
 私の部屋には椅子が一脚しかないので、そちらは真木さんに使ってもらうことにして、私はベッドのふちに腰かけた。座った拍子に幸福の村で織ってもらった衣装の繊細な図案が目に入り、少しだけ寂しい気持ちになった。
 束の間、気まずい沈黙が落ちる。先に口火を切ったのは、真木さんの方だった。
「あの、名前さん、おかえりなさい。無事に帰ってきてくれてよかったです。本当に、一時はどうなることかと心配しました」
「すみません。真木さんにだけは置手紙でも残して行った方がいいかなと思いはしたんですけど、直筆のものが残ってるとそれで追跡されるかもしれないなと思い直して……」
 魔法舎を脱出するのに際し、ブラッドリーからは追跡に使用されそうな痕跡はすべて消していけと、重々言い含められていた。真木さんへの置手紙は逃亡の直前まで残すべきか悩んだが、直筆のものは残すべきではないだろうと思い、結局諦めた。
 そのあたりの事情も、真木さんは魔法使いたちから聞かされているのだろう。彼女はそれ以上追及することもなく、思慮深さをたたえた静かな瞳で、ひとつ小さく頷いた。
「名前さんは幸福の村に滞在されていたんですよね」
「そうです。村の皆さんもいい人たちばかりで」
「分かります。私も前に一度だけ行ったことがあります。おだやかでいいところですよね」
「本当、ブラッドリーさんの裏切りにさえあわなければ、ずっとあの村で暮らすのもいいなと思っていたんですけどね……。いや、結構まじで。どうせ帰る目途が立たないのなら、好きなところで好きなように暮らしたいし……」
 とはいえ私は魔法舎と幸福の村での生活しか知らないから、ほかの土地に行けばもっと自分が暮らしやすいところもあるのかもしれないが。そんな軽い気持ちで発した言葉だったのだが、真木さんはたちまちしゅんと眉を下げ、肩を落として項垂れた。
「名前さんには嫌な思いをさせてしまってすみませんでした」
「いやだ、どうして真木さんが謝るんですか。真木さんは何も悪くないじゃないですか」
 というか悪いのはほとんど私だ。この世界に来たことそのものは不可抗力としても、ここでの私の態度はお世辞にも良かったとは言い難い。もちろん誰彼構わず突っかかったりはしていないが、それでも棘のある態度ではあっただろう。向こうがこちらを疎むのならばと、多少あてつけがましい態度をとっていた自覚はある。
 そのうえ、真木さんにまで黙って魔法舎を抜け出した。多分、真木さんを傷つけただろう。真木さんはたとえ何の咎もなくたって、自分のせいだと責任を感じてしまうような人だ。置手紙を残せないのならば、せめて会って一言伝えるべきだった。
 そうしなかったのは、私が怖かったから。真木さんと顔を合わせて、引き留められるのが怖かった。情に絆されてしまうことが分かり切っているから。あるいは平気な顔で送り出されるのが怖かったのかもしれない。今となってはもう、どちらでも変わりない。
 遠い昔、卒業式の日に真木さんに話しかけられなかった時から、私は何も変わっていない。
 話をしたくて仕方がなかったのに、決定的な何かを告げられるのが怖かった。だから何の言葉も残すことなく、私は真木さんの前から逃げ出したのだ。
 けれど私のその薄汚い怯懦に、高潔な真木さんが気付くことはないのだろう。彼女はきっと、想像もしないに違いない。今だってそう。真木さんは申し訳なさそうに俯いて、必死で言葉を紡いでいる。
「名前さんが凶兆のしるしだとか不吉なことの前触れかもしれないという話を聞いていたのに、私には何もできませんでした。一応、話ができるようにフィガロやオズに掛け合ってはいたんですけど」
「いえ、それは本当にどうしようもないことというか……。一回出ていった私が言っても嘘くさいかもしれないですけど、この世界の人たちにとっての真木さんが、絶対に必要な大切な人であって、是が非でも守らなくちゃいけない人だということは、私もちゃんと分かっているつもりですし」
「それでも、申し訳ないですと思うんです」
 きっぱりとそう断言して、真木さんは顔を上げた。表情豊かで茶目っ気たっぷりのかんばせが、まっすぐ私を見つめている。名前さん、と真木さんが私の名を呼んだ。
「名前さんの言うとおりです。私は賢者だから……。だから魔法使いのみんなに必要としてもらえて、助けてもらえて、気に掛けてもらえて、恵まれてるんだと思います。名前さんみたいにここから逃げ出そうと思ったことなんて、私は一度もない。逃げ出したいと思うほど、嫌な思いをここでしたことがないんです」
「本当ですか?」
「はい。最初から、私はずっと『賢者』として扱われていたので」
 オーエンの言葉が、頭の中に呼び起こされる。片や、賢者様。片や、災禍のきざし。順番が違うだけで、得られるものは天地の差。賢者は恵まれているのだと、オーエンは言った。真木さんも。
「でも、それって恵まれているのとは違わないですか」
「違いますか」
 真木さんの声がそのときはじめて、不安げに揺らいだ。心細いのとも、申し訳なさそうなのとも違う。はっきりと、狼狽を滲ませて、声が震えた。
「恵まれているって、真木さんはそう思うんですか?」
 今度は私が問う番だった。そしてその問いは、私が魔法舎に戻ることになってから、いや、本当はそれより前からずっと、真木さんに尋ねたくて仕方がない問いだった。
 この人はつらくはないのだろうか。
 そう思ったのは多分、私自身がどうしようもなく、この状況をつらいと思っていたからだった。口では適当なことをうそぶいて。平気なように振る舞って。
 だけどこんな異常事態と異常な環境で、本当の意味で平気でい続けられる人間が、一体どれほどいるのだろう。平気な顔をしているのは、そうしていないと嫌になってしまうからだ。先の見えない異常な環境に、絶望してしまいそうになるからだ。
 「元の世界に帰ることができないのなら、幸福の村で暮らしたい」? それはたしかに本心だ。そこに欺瞞は一分もない。
 だけどもっと本音をぶちまけるなら、元の世界に帰りたい。一分一秒でも早く、元の世界に帰りたい。どれほどこの世界が素晴らしいのだとしても。それでも私は元居た世界を選ぶだろう。
 こんな見も知らぬ世界で生きていかなければならないなんて、そんなものはただの理不尽で、不条理。そんな罰を課されなければならないほど、私は悪いことはしていない。
 だけど。
 人の好さそうな顔に困ったような笑顔を張り付けて、真木さんは私をうかがうように見つめている。その表情に、むしょうに泣きたくなった。
 この人はつらくないのだろうか。
 真木さんの顔を見ていたら、そんな疑問を抱くなんて、それこそ馬鹿げていると気付いてしまった。気付いてしまったから、泣きたくなった。
 つらくないはずなんて、あるわけないじゃないか。
 この人だってつらいのだ。
 ただ、私と違ってつらいと言える立場にないだけで。
 ただ、私と同じでつらいと言ってもどうにもならないというだけで。
 この人はそれでも、逃げ出すことが許されない。逃げ出してしまったら、きっと世界が亡んでしまうから。見知らぬ世界といったって、自分のせいで亡びましたなんてことになればきっと寝覚めが悪いから。

 世界の滅亡に比べれば、自分ひとりがつらい思いをすることくらいは、何でもないようなことだから。

「真木さん。私、前にオーエンから『先にこの世界にやってきただけの賢者様が妬ましくないのか』って聞かれました。今真木さんが言ったのと同じような意味で。真木さんは恵まれているのにどうして自分は、って話ですよね。多分」
 私の言葉に、真木さんは何も答えない。
 だから私が、話を続けた。
「まあ実際、妬ましいとかは思わないわけですが……。でも、真木さんが先にこの世界にやってきたって話については、少し思うところがあるというか。なんというか多分ですけど、この世界に先にやってきたのが真木さんだったのは、必然だったんですね」
 ひとつひとつ、考えを話しながら纏めるように。私はぽつぽつと、取り留めのない言葉を口にする。そうしていると、次第に思考がクリアになっていく。
 私には、この人のような考え方は絶対にできない。それはもう、謙遜でも何でもなく、絶対に断言できることだった。
 賢者という役目を押し付けられ、重責にのしかかられる。魔法使いたちと共にあることを強制されているも同然の、世界でただひとりの人間。そんな人間に、私はなれない。頼まれたってなりたくなかった。
 だからこそ、この世界で「賢者」の役割を担うのは、私ではなく真木さんなのだろう。自分が残酷なことを考えている自覚はある。嫌な仕事を押し付けているという意味では、私も、真木さんと私をこの世界に喚んだ何かも大差ない。
 けれど、私は此処にいる。身勝手に真木さんを喚ぶだけの、何かとは違う。私は、私だって、痛みを伴っている。真木さんの手を握ることができる場所に、立たされている。
 それならば、私にできることは「賢者」という役割から外れた場所で、せいぜい「真木さん」を支えることくらいだ。そう思えば多少は、自分の気が楽になる。畢竟、どこまでも自分可愛さの思考でしかないけれど──それでも。

 居場所も役割も、今から自分で見つければいい。

 真木さんと話をしたことで、ようやく自分の道筋が見えたような気がした。それと同時に、胸につっかえていた何かがするんと腑に落ちる。
 気になっていることがあるのなら、直接聞いてしまえばいいのだ。そうしなければ伝わらないし、ひとりでうじうじ悩むのは性に合わない。
 未だ申し訳なさげな顔をしている真木さんに、私は思い切って呼びかけた。
「あの、真木さん」
「はい」
「つかぬことをお尋ねしますが、真木さんって、どこの高校出身ですか? もしかして──」
 私が母校の名を口にすると、真木さんは驚いたように目を見開いて私を見た。その反応に、私はにやりと笑う。ブラッドリーと一晩一緒にいたせいで、笑い方が移ってしまったような気がする。
「やっぱりそうですよね。私、真木さんと同じ高校でした。猫ばあさんの家でも何度か会ったことありますよ」
「えっ、あ……あっ!? 苗字さん!?」
「覚えていてもらえて嬉しいです、真木先輩」
 あえて昔のように呼ぶ。真木さんは面映ゆそうに眉を下げ、慌ただしく椅子から立ち上がった。ばたばたと私の前までやってくると、不思議な声をあげながら私の手をとる。
 やわらかくて、しっとりとした真木さんの手だった。物語の中のお姫様みたいな、すべすべの手ではない。ペンだこがあって、爪は短くて、まぎれもなく私の知っている、真木先輩の手。
 しっかりと手と手を取り合っていると、なんだか懐かしいようなこそばゆいような不思議な気分になった。あの日話しかけることもできずに別れてしまった先輩が、今私の手をとっている。「先輩」と「後輩」だった私たちが、今は「賢者」と「凶兆のしるし」として向かい合っている。
「私にとって真木さんはきれいで優しい憧れの先輩でした。それは今も変わらないです。私にとっての真木先輩は、絶対に世界を救う賢者様なんかじゃない」
 真木さんの目をまっすぐ見て、私は宣言した。
 真木さんが「賢者」の役からおりられないというのなら、私だけは彼女を「賢者」として扱わない。今ようやく、私の腹も決まった。
 この世界での真木さんは、正しく賢者であるのだろう。真木さんを賢者として扱う魔法使いや人間を、私は責められる立場にない。私はこの世界の人間ではないのだから。この世界のルールに則って生きている人々を糾弾する資格など、けして持ちえない。
 だからこそ、私は真木さんと同じ世界を生きる人間として、彼女を影から支えよう。せめてこの優しい人のやわらかな精神が、異常な環境の中で麻痺して消耗してしまわないように。私だけは真木さんを、賢者として消費しないように。
 魔法使いたちが真木さんを賢者として「消費」しているのではないことくらい、私にだって本当は分かっている。だけど、それでも。真木さんをただの人間の女性として見つめて、手を差し伸べ続けられるのはきっと、私だけだから。
「私はあなたのことを賢者様なんて絶対に呼びません。真木先輩、この世界に一足先に来た人として、私の先輩になってくれませんか?」
 できるだけの笑顔で私がそう尋ねると、真木さんも、花がほころぶような可憐な笑顔で頷いた。
「もちろん、こちらこそ喜んで」

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