朝の匂いと日々のくずれ


 ◆

 朧気な意識が徐々に輪郭を取り戻し、私ははっと目蓋を開いた。無意識に腕を動かそうとして、その腕がブラッドリーの腰に回っていることに気が付く。
「何がちょっとだけーだ? がっつり寝やがって」
 ブラッドリーが呆れたように吐き出した。眼下を見れば朝の白けた光を浴びて、中央の国の美しい街並みが輝いていた。すでに田舎の風景はどこにもない。私が眠っている間に、ずいぶんと魔法舎の近くまで戻ってきていたようだった。
 昨日幸福の村を出たときのままの恰好だというのに、朝の空気の中でも肌寒さはまったく感じられなかった。もしかしたら寝ている間に、ブラッドリーが魔法を使ってくれたのかもしれない。そういえば昨夜より、耳元で鳴る風の音も静かになっているような気がした。
「おはようございます。運転、代わります?」
「できもしねえことを言うんじゃねえよ。喧嘩売ってんのか」
「夜間の運転をまかせて仮眠をとった人間は、朝起きたときにこの挨拶をするというのが私の元居た世界の常識なんですよ」
「どこまで本当か疑わしいぜ」
 適当な軽口を叩きつつ、私は周囲をぐるりと見回した。魔法舎の塔はこの世界でもそれなりに高い建物だ。この世界の地理に明るくない私でも、塔が見えれば魔法舎までの距離が分かるかもしれない。そう思ったのだが、残念ながら視界に塔はまだ見当たらなかった。
「魔法舎まであとどのくらいですか?」
 風の音にかき消されぬよう、声を高くしてブラッドリーに尋ねる。ブラッドリーはちらと私の方を振り返ると、すぐに視線を前方に戻した。
「そろそろ首都だ。昼前にはつく」
「じゃあ、どっかで朝ごはん食べません? お腹空いたんですけど。喉も乾いたし」
「だからなんでてめえはそう神経が太ェんだよ。もうちょっとしおらしくなんねえのかよ」
「しおらしくしたら幸福の村に引き返してくれます?」
「ねえな」
「じゃあ無理です」
 これといって利もないのに、落ち込んだりしおらしくして見せる義理もない。しおらしくしたところで私の魔法舎での待遇が良くならないことは、一度目の軟禁のときにすでに学んでいる。まして、ブラッドリー相手ならば尚更だ。
 ぐう、と腹の虫が鳴く。ブラッドリーが呪文を唱えると、彼の背中で暖を取るようにぴたりとくっついていた私の身体が箒の後ろにずるりとずれ、空いたスペースにバスケットが現れた。よく見るとそれは、昨夜からブラッドリーが箒にぶら下げていたものだ。てっきりブラッドリーの貴重品か何かが入っているとばかり思っていた。
「今からてめえの腕をほどく。びびって落っこちんじゃねえぞ」
「えっ、あ、はい」
 私が頷くのと同時に、ブラッドリーの腰に回していた腕が自由になった。私は慌てて箒の柄をつかむと、全身でどうにかバランスをとる。ブラッドリーから離れたことで、箒の上で重心をとるのが難しくなった。
「バスケットの中に朝飯が入ってる。開け方分かるな? 片手使えれば開くだろ」
 ブラッドリーに言われ、おそるおそる箒の柄から片手を放した。箒はほとんど揺れることなく、またスピードを随分落としてくれているおかげで、片手でもどうにか落ちずに済んでいる。空いた片手で、自分もバスケットも落ちないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりとバスケットの留め具に手を掛ける。
 留め具を外してバスケットを開けた。中に入っていたのは、油紙につつまれた固めのパンと水筒だ。中身はすっかり冷めているだろうが、パンの香ばしくて甘い匂いは残っている。私のお腹がまた、ぐうと大きく鳴った。
「ネロからだ。パンならてめえでも片手で食えるだろ」
 中からパンを取り出すと、ブラッドリーの背と自分の身体で挟んで固定していたバスケットを、一度ブラッドリーに戻した。ブラッドリーも中からパンを取り出すと、ふたたびバスケットに留め具をかけ、それを器用に箒に引っかける。
 かさこそと音を立てる油紙で包んだパンを、大きく一口かじった。何も塗らなくても食べられるよう、パン生地の中にドライフルーツが練りこまれている。ほんのりとした甘味と塩っ気が、朝の小腹を満たすのに丁度いい。
「おいしい……」
 思わず、素直な言葉が口からこぼれた。幸福の村でも幾度となく思い出した、ネロの作ってくれた食事の味。けして派手ではないけれど、食べる者のことをよく考えて作っていることが伝わる、優しい料理だ。鼻つまみ者の私のことすら気遣ってくれた、あたたかな食べ物たち。
 幸福の村でエマたちと囲んだ食卓。逃亡の道中、御者と一緒にとった簡単な食事。この世界で私と一緒に食事をとってくれたのは、逃げた先の人間たちだけだと思っていた。ブラッドリーとはお酒を一緒に飲みはしても、一緒に食事をしてはいない。
 ひとりぼっちで私が寂しく食事をしていることを、きっとネロは見透かしていたに違いない。それでもネロは立場上、一緒に食事をとろうとは言いにくいはずだ。だからきっと、精いっぱいの誠意で、私の食事を用意してくれていた。
 私はその優しさを、逃げ出すときまで見逃していた。いいや、ネロだけではない。きっとほかの魔法使いが差し出してくれていた、彼らなりの優しさも、私はみすみす見逃してきたのだ。
 魔法使いみんなを好きになれるわけではない。ブラッドリーは信じていても裏切った。オーエンは嫌なことを言ってくるし、ミスラとオズは単純に怖い。ほかの魔法使いたちだって、私の味方というわけではないのかもしれない。
 だけど。
 私は、彼らに親切にしてもらえるだけの何かを、まだ何ひとつとして為していない。私がしたことといえばせいぜいが、波風立てないように静かにしていたことくらい。魔法使いのことを心底信用できないと思うのは、こちらが最大限の誠意を見せてなお、誠意を踏み躙られてからでも遅くないのかもしれない。
 もしも私がそう言ったら、真木さんはどんな顔をするだろう。この世界でただひとり、私と同じ孤独を知っているかもしれない、真木さん──この世界で自分のなすべきことをこなし、魔法使いと共に暮らす真木さんは。
 そんなことを考えパンを齧っていると、ブラッドリーが私に背を向けたまま、
「俺様だって、てめえがあの鄙びた村で楽しくやってんなら、知らねえふりしてやってもいいと思ってたんだよ」
 独り言のように呟いた。もちろんそれが独り言などでないことは分かっている。
「……私、結構楽しくやっていましたよ?」
「そうかよ」
「そうですよ。だって村では誰も私のこと避けないし、みんな親切で、私を閉じ込めたりしなかったし。村長の晩酌に毎晩付き合えるのもよかったな」
「酒がありゃどこでもいいんじゃねえか」
「どこでもよくはないんですよ」
 はっきりと、そう答えて。
「ブラッドリーさんの目から見て、あの村での私は楽しそうに見えませんでしたか」
 私はブラッドリーに尋ねた。ブラッドリーは一切迷うことなく、どうでもよさげに答えた。
「さあな。忘れた」
「おじいちゃんですか?」
 気恥ずかしくて、照れくさくて。
 思わず茶化したその直後、ブラッドリーに箒を大きく横に揺らされて、私はたまらず悲鳴を上げた。

 ◆

 箒上での軽食も済ませ、つらく険しい道のり──というよりは、道程の半分ほどを寝こけて過ごしたすっとこどっこい珍道中もそろそろ佳境。いよいよ魔法舎が近づいてくるにつれ、私はずしんと気持ちが重くなるのを感じていた。
 魔法舎に戻る覚悟を決めたと言いつつも、意気揚々と乗りこんでいけるわけではない。魔法使いたちに逃亡を謝罪するつもりはまったくないが、少なくとも真木さんには謝っておかねばならないだろう。あの人は多分、私の失踪を心配してくれていたと思う。私に何かあった場合、実際に逃亡をほう助したブラッドリーよりも真木さんの方がずっと、心を痛めていただろう。
 眼下の町並みは寝覚めに見た辺りよりも、ぐっと整然としていた。城下が近いからだろう。この国は王族が暮らすグランヴェル城を中心に発展しているため、王城の近くがもっとも栄え、なおかつ整然としている。これは幸福の村への道中、御者に教えてもらったことだった。
 足元に向けていた顔をふたたび上げ、ブラッドリーの白黒頭に視線を向けた。
 ブラッドリーとは食事を摂って以降、適当な世間話をいくらか交わしただけだ。さほど口数が多くないのは、ブラッドリーはブラッドリーなりに私を連れ戻すことに思うところがあるからなのかもしれない。あくまで私の想像なので、単に長距離の飛行に疲れただけかもしれないが。
 陽が高くなってきたおかげで、上空を飛んでいてもぽかぽかと暖かい。重たい気分とは裏腹の気候が、少しだけ恨めしい。風になぶられ乱れた髪を手でおさえ、私は深々と溜息を吐き出した。
 落ち込んでばかりいても仕方がない。とりあえず、私は私にできることをしなければ。さしあたって、魔法舎に到着するまでの私にできることはただひとつだ。
 私はブラッドリーの肩をちょいちょいと指で叩くと、
「ブラッドリーさん、ひとつお願いがあるんですけど」
 と大して下手にも出ず声を掛けた。ブラッドリーはぞんざいな仕草で振り向くと、私を一瞥してすぐ前を向いた。
「内容と条件による」
「私の希望を打ちのめしたんだから、ひとつくらいお願い聞いてくださいよ」
 ブラッドリーには恩もあるが、恩の大きさと仇の大きさを比較すれば、圧倒的に仇の方が大きいはずだ。ブラッドリー自身その自覚があるのか、無言で私に「お願い」を口にするよう促した。
「魔法舎に戻ったら、私が真木さんとふたりきりで話をできるよう、あの双子に口利きしてくれませんか?」
「なんでだよ。賢者に呪いでもかけんのか?」
「私にそんな力があると思いますか? あったら今頃裏切り者のブラッドリーさんのことを呪い殺してますよ」
「よほど叩き落とされてえらしいな」
「ギャーッ!」
 箒がぐらりと揺れ、次の瞬間には天地がさかさまになっていた。慌てて箒の柄を掴みなおすが、上空高くで頭が真下を向いているなど、正気の沙汰ではない。ブラッドリーはゲラゲラ笑っている。
 幸い箒はすぐに元の位置に戻ったが、私の心臓はばくばくと恐ろしい速度で鼓動を打っていた。ブラッドリーに恨み言をぶつけるだけの気力もない。多分この世界にやってきて、今が一番命の危機を感じた瞬間だった。カインの腰の剣に気付いた瞬間の恐怖を軽く飛び越えた。
 私が未だぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しているにも関わらず、ブラッドリーは平然と、先程までの話の続きを始めた。
「賢者と話したところで、てめえの状況が良くなるわけでもねえだろ。恨み言のひとつでも聞かせてえってんなら別だが」
「真木さんに恨み言なんてないですよ」
 恨み言を言いたいのはブラッドリーにだ。とは、もちろん言わない。うっかり言ってまたぞろ箒を逆さまにされては、今度こそ私は死ぬかもしれない。
「というかそもそも、私が真木さんのこと恨む理由もないですし。前にちらっとオーエンさんが言ってた待遇格差がどうのって話だって、私には真木さんを羨む気持ちなんてないから見当違いもいいところだし」
 そこで一度、私は言葉を切る。箒の少し下のあたりを、鳥が群れになって飛んでいくのが目に入った。ぼんやり視線で追いかける。頭の中にあったのは、この世界のものらしい見慣れぬ衣装を纏った、真木さんの姿。
「持て囃されて、持ち上げられて、必要とされて褒められて……。だけど、どうしてみんな、それを恵まれていることだと思うんだろう。求めていたわけでもないものをいきなり押し付けられて、それって結構ありがた迷惑な話じゃないですか?」
「賢者が迷惑がってるってか」
「そこまでは言いませんけど。というかろくに話をできてもいないのに、そんな相手の考えてることなんか分かりませんよ。一緒にお酒呑んで語り合ったブラッドリーさんにすら、こうして予期せず裏切られているというのに」
「てめえ結構根に持つタイプだろ」
 ブラッドリーの嫌そうな声は聞かなかったことにして、私は話を続ける。
「私はただ、真木さんがどう思ってるのか知りたいんです。いえ、どう思ってるのかは分からなくてもせめて、どういう顔して賢者なんかやってるのか知りたい。魔法使いがひとりもいないところで、ただの真木さんと話がしたいだけです。それだけなんですよ」
 ブラッドリーは私のお願いに、分かったとも無理だとも言わなかった。私がいくら恩だの仇だの言ったところで、ブラッドリーはおそらく、自分がしたくないことはしない人なのだろうと思う。
 けれどその一方で、彼ならばきっと、私のお願いを聞き入れてくれるに違いない。そんな確信に似た予想を、私は漠然と胸に抱いていた。すでに一度派手な裏切りを受けているにもかかわらず。ブラッドリーには、そう思わせるだけの頼りがいがあるのだった。

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