拗れすぎて最初に戻る


 建物から出ると、夜風がひやりと肌を撫でる。せめて一枚羽織ってこればよかったと思うものの、すでにブラッドリーは私を部屋から放り出したのち、しっかりと出てきたドアを閉めてしまっていた。仕方がないので腕を組んで背を丸め、私は仏頂面をつくる。
「それで、急になんですか? エマたちがいるところでは話せないようなことなんですか」
 この家にお世話になっている身としては、あまり恩人一家に隠し事をしたくはない。話があるというのなら、できればエマたちがいる場所で済ませてほしかったというのが本音だ。
 しかしブラッドリーには私の心情など関係ない。
「お、暫く家出してる間にずいぶん反抗的になったじゃねえか」
 私の喧嘩腰な態度に苛立つ様子もなく、ブラッドリーは余裕しゃくしゃくでにやりと笑った。その余裕が憎たらしくて、私は一層眉間の皺を深くする。
「私はもとからこんな感じです」
「つーことは、荒事も辞さないってことでいいな?」
「えっ」
 ちょっと待って、何その穏やかではない話。そう問い返す暇もなく、ブラッドリーはすかさずアドノ何やらと呪文を唱えた。直後、私の身体がふわりと宙に浮かび上がる。
「えっ、うそ、待って。なになに、何ですか? 怖い怖い怖い下ろして!」
「ガタガタうるせえな。口もついでに縫い付けてやろうか」
「人権を無視しないで……!」
 この世界に人権という概念があるのかは不明だが。
 宙に浮かんだ私の身体は、じたばたしようとしてみたところで指先ひとつ動かない。浮いている高さはせいぜい数センチ程度のものなのだが、身体の自由が利かないことが恐怖に拍車をかけていた。ブラッドリーに身体の自由を奪われるとか、何をされるか分かったものではない。
 わずかばかりのお情けなのか、ブラッドリーはさすがに私の口を封じることまではしなかった。とはいえ夜間に静かな村で大声を出すことも憚られ、私は周囲に迷惑にならない程度の声量で、必死でブラッドリーに文句を言う。
 ブラッドリーは魔法で何処からか取り出したのか、荒縄を手にして私の方へと近寄ると、その荒縄で私と箒を手際よくまとめあげた。
 え、嘘でしょ? さっと全身から血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと! ブラッドリーさん!? なんで私を箒にくくりつけるんですか!」
「魔法舎に戻るぞっつっても、どうせ逃げ回って嫌がるだろ。これが一番手っとり早いんだよ」
 ブラッドリーに悪びれる様子はまったくない。そのことが、この状況の覆らなさをひしひし私に伝えてくる。
 だからといって無抵抗でいられるほど、私も諦めが良くはない。みすみす幸福の村での生活を手放すなんて、そんなことはまっぴらごめんだ。
 動かない手足のことは諦めて、私は必死にブラッドリーを説得する。
「いや、待って待って、ちょっと待ってくださいよ。薄々察してたけどなんで私が魔法舎に戻らなきゃなんないんですか! そもそも私の逃亡をほう助したのはブラッドリーさんでしょうが!」
「うまくいっただろ?」
「ブラッドリーさんが現れるまでは万事うまくいってましたよ!」
 わりと冗談抜きにして。何なら元居た世界の人間関係の煩わしさからすら解放されて、めちゃくちゃ快適に暮らしていた。理想のスローライフを送っていたはずだったのに。
「半月も息抜きすりゃ満足だろ。バカンスとは縁もゆかりもねえような村だが、てめえも大概田舎くせえし、まあどっこいどっこいだな」
「失礼だな!」
 私にも村にも。失礼だろうが。
 そんな遣り取りの間にも、ブラッドリーはどんどん撤退の準備を進めている。私は貨物よろしく箒にくくりつけられて、ぷかぷか宙に浮いていた。荒縄で縛られ、箒の柄にまたがるようにくくりつけられているわりに、身体のどこにも痛みはない。ブラッドリーが魔法を使ってくれているのかもしれないが、そんな優しさを見せるより先にそもそも私を箒からおろしてほしい。
「ぶ、ブラッドリーさん。とにかく穏便に、私にも分かるように、一度きちんと事情を説明してください」
 もはや息も絶え絶えになりながら、私は必死で懇願した。ブラッドリーが甘い色の瞳を面倒くさそうに私に向け、ひとつ深々溜息を吐く。嘆息したいのは私の方だ。
「さっき言っただろ。こっちの事情で来たって。事情は変わるんだよ。てめえが家出したときの事情と今の事情はまったく別もんだ」
「今の事情とは」
「てめえを連れ戻せば恩赦」
「こ、このひと私の身柄を売ったんだ! うわっ最低だ!?」
「馬鹿、もとはといえば俺様の助けがなきゃ魔法舎を出ていくことすらできなかったんだぞ。それを俺がどう回収しようが勝手だろうが」
「上げて落とすの本当にやめてくださいよ! だったら魔法舎脱出の夢なんか見ない方がよかった!」
 このひとでなし! と言いかけて、ブラッドリーが魔法使いだと思い出した。しかも悪名高い北の魔法使いの中でも、生粋の強くて悪い魔法使い。そりゃあひとでなしだろう。むしろひとでなし上等、気の利いた褒め言葉くらいに思っているに違いない。
 ブラッドリーが私の逃亡を手助けしてくれたのは、そこにブラッドリーにとっての利があったからだ。しかしよくよく考えてみれば、ブラッドリーはそもそも双子とフィガロに弱みを握られている身の上だ。恩赦を餌にちらつかされれば、「胸がすかっとする」などという一時の利よりも、より確実な利をとることは分かり切っていた。
 その分かり切った方程式を私が完全に失念していたのは、私がうっかりブラッドリーを信用しかけていたから。あんなに信用していない、いい魔法使いだなんて思っていないと何度も確認したはずなのに。ひと晩酒を飲みかわしただけで、私はすっかりブラッドリーを信用するに足る相手だと思い込んでしまっていたのだ。
 なんたる醜態。なんたる無様。
 その結果が、荒縄で箒にくくりつけられている。
 「恩赦」というブラッドリーにとって大きな利を餌にされた以上、私がここに残れる希望は一切失われた現実を、もはやこれ以上直視しないわけにはいかなかった。このまま私は魔法舎に強制送還されてしまうのだろう。であれば、最後に望むのはただひとつだった。
「待って、ブラッドリーさん」
「だから何だよ? うるせえな」
 強面こわもてに凄まれて、普通に怯む。しかし怯んでいる場合ではない。
「さ、最後に村の人たちにお礼を言わせてください。せめて村長一家にだけでも!」
「あ? どうせ縄ほどいたらてめえ逃げるだろうが。後で手紙でも出せよ」
「慈悲がなさすぎません!? 私がこの世界の文字書けないの知ってるくせに!」
「北の魔法使いだからな。そら出発だ。さっさと帰んねえと夕飯食いっぱぐれちまう」
「さっき村でもしこたま食べてたでしょ!」
 ブラッドリーが箒にまたがる。箒は一層高度を上げ、すぐに村長の家の屋根と同じくらいの高さまで浮上した。
 ああ、さらば私の第二の故郷。一面の麦畑も村のあちこちから聞こえる機織機の音も、きっとこれっきりになるのだろう。
 ブラッドリーのコートの裾が、風を受けひらめくのを見ながら感傷にひたる。眼下には夜風に吹かれさわさわと揺れる麦畑。今は世闇に沈み、その色彩は暗く沈んでいる。
 と、そのとき。
「名前さん!? ブラッドリーさん!?」
「エマぁ!」
 いっこうに戻ってこない私を心配してくれたのか、エマが家から飛び出してきた。すでに上空に浮上している私とブラッドリーを見て、目をまるくして悲鳴をあげている。
「どういうことなの、ブラッドリーさん!?」
「諸事情でこいつを連れ帰らなくちゃならなくなった。そんだけだ」
「そ、それだけって……!」
 どう見ても納得していない顔をしているエマだったが、それでもすでに屋根の高さまで浮上している私たちを連れ戻すことは、子供のエマには不可能だ。
 エマの不安げな表情に、覚悟を決めたはずの心が揺れた。縛られた足首や手首が、エマから見えていないことを祈る。エマは魔法使いを尊敬しているのだ。そんな子に、私が魔法使いからこんな無体を働かれているところは見せたくない。
 ブラッドリーが、ちらりと背後の私に目くばせした。箒は上昇するのを一時止め、同じ高さでふわふわと浮かんでいる。
 それがブラッドリーから僅かばかり与えられた、最後の温情だった。
「エマ! さっき使って飲みかけのカップとかポットとか、片づけできなくてごめんなさい! あとあの、私がお借りしていた部屋の机の引き出しに、少しお金が残ってるはずなので! 私がこの村で用意してもらったものの代金はそこから返済お願いします! 足らない分は魔法舎あてに請求書を、三割増しくらいの金額かいて送ってくれたら大丈夫だと思うので!」
 今度はもう、村の迷惑など気にせず大声をあげた。少しでも大きな声を出して、私が元気であることをエマに分かっていてほしい。これで涙声にでもなったなら、きっとエマの心には拭いされない魔法使いへの不信感が生まれてしまう。
 魔法使いのことは好きではないけれど、エマのきれいな心に余計な傷はつけたくない。ただ、それだけだった。
 私の大声が功を奏したのか、あるいは私の気持ちを汲んでくれたのか。エマはにこりと大きな笑顔で、私とブラッドリーに向けて手を振った。
「名前さん、また遊びに来てね!」
 身体を動かせない今の私は手を振り返すこともかなわずに、さりとて「またね」と言葉を返す強さもない。私はぼんやりとした笑顔だけを顔に張り付けて、いつまでも幸福の村を見下ろしていた。

 ◆

 行きは馬車で二日かけた道程も、障害物のない夜の空を箒でかっ飛ばせば、一日かそこらで魔法舎まで帰れてしまうらしい。相変わらず縄でくくられてはいるものの、ひとまずの身体の自由を取り戻した私は、ブラッドリーが遠慮なく飛ばす箒で中央の国を上空から見下ろしていた。
 身体が自由になったところで、この高度、このスピードの箒の上では何もしようがない。せいぜいが猛スピードのせいで吹きつけるすさまじい風を防ぐため、ブラッドリーの背に張り付いておくくらいだ。こんな裏切り者、大きな風よけ扱いしたって罰は当たるまい。
 すでに夜更け近い時刻のためか、地上にもそれほど明かりは灯っていない。そもそもこの世界は現代日本のような照明設備が普及していないので、夜になると何処もかなり暗くなる。幸福の村など、日が暮れればお年寄りはみな寝静まり、朝は日の出とともに生活がはじまっていた。
 魔法舎の夜は長かった。魔法使いたちは宵っ張りらしく、私が布団に入ったあとでも、絶えず建物のなかにはざわめきが満ちていた。
 ブラッドリーはあの場所に、私を連れ戻そうとしているのだ。そう思うと、やはり嫌だなぁという思いがしみじみ込み上げた。
「ブラッドリーさんがこんな腰抜けだと思いませんでした。何が反社だ。日和っちゃって、だっせー」
 顔を埋めたコートに向けて、聞こえるか聞こえないかくらいの声でぶちぶち文句を吐き出す。耳元では引っ切り無しに、びゅうびゅうと空気を裂く音。私の呟きなど悲鳴のような音にまぎれてすぐに消えてしまう。
 と、そう思ったのだが。空気のかたまりを切り裂くような箒の運転をしておきながら、しかしブラッドリーは耳ざとく私の文句を聞きつけて、
「三回も地上に落っことせば静かになるな?」
「すぐそういう怖いことを……」
 おそろしく物騒なことを平然と言ってのける。荒っぽいやり方で強制連行されている真っ最中なので、落っことす云々も信憑性があって恐ろしい。
 本当に落っことされてはたまらないので、私は箒の柄をぎゅっと握りなおした。魔法舎に戻りたくない気持ちはもちろんあるが、それ以上にこんなよく分からない世界で死にたくない。ブラッドリーに看取られて──いや、見下ろされながら死ぬなど絶対に耐えられない。
 これ以上余計な口を叩いてブラッドリーの機嫌を損ねない方がよさそうだ。私はひとまず、喉元まで上がってきていた文句を飲み下し、おとなしく箒にしがみついていた。
 ブラッドリーが少しだけ箒のスピードを落とす。どうせなら、もっとスピードを出してくれたらいいのにと思った。どうせ魔法舎に連れて帰られてしまうのなら、さっさと到着してほしい。幸福の村や魔法舎の外で出会った人たちへの、懐かしさや名残惜しさなど、感じさせないでほしい。
「静かになったらなったで薄気味悪ィな。おい、お前なんか喋れよ」
 雲を横目に、ブラッドリーが言う。だが、これといって話したいことも思い浮かばなかったから、仕方なしに私はこれから先の話をする。
「魔法舎に戻ったら、私叱られるんですかね」
「どうだかな」
「ちなみにブラッドリーさんは、私を逃がしてた件について怒られました?」
「半殺し」
「ひえっ、やばいなそれは」
 ミスラという怪獣みたいな魔法使いが暮らしている時点で、魔法舎には暴力が蔓延していることは想像に難くない。が、半殺しとは穏やかではなかった。むしろブラッドリーはどうして生きているのだろう。もしかしたら死んでいるのかもしれない。魔法舎には幽霊の魔法使いも暮らしている。
「死んでねえよ」
 私の思考をあっさり読んで、ブラッドリーは言った。
「まあ、てめえは大丈夫だろ。何せ異世界からきた『賓客』じゃねえか」
「そんないいもんでもなかったですけどね。体感としては虜囚のが近いし」
 なげやりな口調で言うと、ブラッドリーが鼻で笑った。それから暫く沈黙が続く。私たちはぴったりくっつきながらも色気もへったくれもない気分のまま、深海みたいな夜空を一直線に進んでいく。
 こんな上空だというのに、ブラッドリーの背に張り付いているためか、次第に目蓋が重くなってきた。逆に言えばくくりつけられている分、落っこちる心配もない。
 今日は──飛んでいるうちに日付が変わってしまっただろうから、正しくは昨日だが──エマと遠出をしてくたくたになっていた。沈黙とブラッドリーのコートごしの体温が心地よく、微睡みが私の意識を侵していく。
 額をブラッドリーの背にあずけて目蓋を閉じた。ブラッドリーがかすかに身じろぎした気配がした。
「寝んのか? 落ちても知らねえぞ」
「ちょっとだけ……」
「てめえ、まじで神経が太ェな……」
「まあ、はい……」
 ブラッドリーが溜息を吐いたのが分かった。箒の柄を握っていた手がひとりでに外れ、ブラッドリーの腰にしがみつくよう回される。きっと私が落ちないよう、ブラッドリーが魔法でどうにかしてくれたのだろう。こんなふうに優しくされたところで、私のブラッドリーへの好感度急落に歯止めはきかないんだからな、という軽口は、眠気の前に言葉にならずに消えていく。
 箒がまた、ゆるやかに速度を落とす。耳元で鳴っていた風の音が小さくなる。ブラッドリーが口ずさむ鼻歌が耳に届いて、笑ってしまいそうになった。私の知らない歌。どこか古めかしさのある、しっとりとした曲調。小声で低く掠れたブラッドリーの声。
 うっかり裏切られたことも許してしまいそうになるくらい、甘くて優しい声だった。

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