傷つけた話


 この家で私にあてがわれているのは、村長宅の空き部屋だった。もともとは織物を置いておく倉庫として使用していた部屋らしいのだが、家の外に倉庫を置くようになったことにより空き部屋となっていたらしい。客室はこことは別にある。小さな村ではあるものの、さすがに村長の家は部屋数も多く客をもてなすための用意もきちんと準備されている。
 魔法舎とは違う低い木目の天井を、暗闇の中で私は見るともなく眺めていた。今日は月も星も明るくて、カーテンのない窓のおかげで夜でも室内はそれなりに明るい。
 夕食のときの考え事が、今もまだ思考に尾を引いていた。
 真木さんはどうしているだろう。考えても仕方ない──魔法舎を飛び出してきた私には考える資格もないようなことばかり、ついつい考えこんでしまう。魔法舎で、二十一人に魔法使いたちに囲まれて、この世界の救世主、まれびと賢者として今も暮らしている真木さんのことを。
 幸福の村での生活は、覚悟していたよりもずっと満ち足りて恵まれている。だからこそ、きっと考えてしまうのだと思う。魔法舎を抜け出した私は、いわばあの場所を捨ててきた。真木さんを、見捨ててきた。たとえ真木さんがあの場所を大切にしているとしても、どうしたってその罪悪感を感じないわけにはいかなかった。賢者などという貧乏くじを引かされた真木さんを、私はあそこに置き去りにしたのだ。真木さんを含め、たとえ誰が何と言おうとも、その事実に変わりはない。
 ごろりと寝返りを打ち、枕に顔の半分を埋める。昼間天日干しした枕は固くてもあたたかく、ぽかぽかの日差しのにおいが残っている。
 もしも元の世界に戻れるというのなら、もちろん戻れるに越したことはない。けれどもしも元の世界に帰る手立てがないのなら、それなら私はいつまででも、この村で暮らしていたかった。
 娯楽や刺激に乏しくても、ここには私を疎む人間は誰もいない。人も魔法使いも皆等しく、古株も新参者もそれぞれ協力しあうことで、日々をつつましく暮らしている。何不自由なく暮らしながら、殺風景な客室に押し込められていた七日間に比べれば、ここでの暮らしは涙が出そうなほどに人間らしいものだった。
 魔法舎には、未練も、思い残しも、何もない。あそこはきっと、私の幸福とは無関係の場所だ。そして私には自分で歩ける足があるのだから、私は、私が幸福になれる場所を探す。そうする権利が、私にはある。
 そう思って魔法舎を抜け出した。逃げ出して、飛び出した。意気揚々と、意気軒高な、前途洋々の逃亡劇のはずだった。それなのに生活が落ち着き、心に余裕が生まれるほどに、湧き上がるのは魔法舎での生活への後悔なのだ。
 あの場所に残してきた、真木さんのこと。ほんの一部でも親切にしてくれた魔法使いたちに、歩み寄れなかった自分のこと。ブラッドリーによって目の前に差し出された逃亡を選んだ時点で、私はそれらを手放したことになるのだろう。その選択を後悔はしていないのに、完全に見限ることもできないでいる。
 それでも今、もしも魔法舎に戻るかと言われれば、私は躊躇うことなく否と答えることだろう。疎まれ、厭われ、煙たがられ、それでも固執しなければならない理由など、私は持ち合わせていない。それだけは、はっきりと言い切ることができる。
 それならば、私はそろそろ腹をくくらねばならないのだろう。
 魔法舎にいる真木さんを、見捨てる覚悟。もう二度と、真木さんと顔を合わせない覚悟。
 年に一度、この世界を救ってくれるという魔法使いと賢者に、感謝しながらも背を向け続ける覚悟を。

 ◆

 翌日の夕刻。エマとともに隣村からのお遣いから戻ると、すっかり日が傾いてしまっていたので、その日の機織練習は休みにすることになった。
 エマと私が隣村から持ち帰ってきたのは、何種類かの薬草とすでに加工された薬が入った薬袋。いずれも幸福の村では栽培しておらず、必要になったころに隣村まで出向いて売ってもらうのがならわしらしい。
 村同士のものの売買は通常、大人同士で行うものだ。しかし急を要する場合や、今回のように事前に金銭の受け渡しが済んでおり、あとはものを受け取るだけの場合には、エマのような子供がお遣いに駆り出されることもある。小さな村では大人の働き手をむやみに減らすわけにはいかないので、子供であろうと必要に応じて仕事を割り振られる。
 幸福の村へ戻ると、薬草は村の薬師の庵へと運びこみ、その後家に戻ってから土埃に汚れた身体をきれいに拭った。舗装されていない道はただ歩いているだけでも全身満遍なく汚れる。田舎道は見るべきところもそれほどないが、エマと一緒に遠出をしてお遣いをするというのは、想像していたよりもずっとずっと楽しいことだった。
 水の入った桶と使った手ぬぐいを自室の床の上に置き、私はふうと息を吐いた。固い木製の椅子に腰かけると、全身にどっと疲労が襲い掛かる。
 エマはすでに夕食の手伝いに行っている。先程部屋に引き上げる直前、
「名前さんは私ほど足が強くないから、今日は歩き詰めで疲れたでしょう? 少し休んでいてね」
 年下の、それもずいぶん年下の女の子に気を遣われてしまった。ありがたいことではあるのだが、大層情けなくもあった。
 現代日本で生まれ育ったひ弱な人間は、スローライフを送るにもまず、体力作りから始めなければならないらしい。そのことを、私はこの村にやってきてからというもの、つくづく思い知らされている。
 現代ではあれほど気を配っていた肌も、今ではすっかり日に焼けた。機織と水仕事で指先は乾燥している。けれどそういった見た目の変化も、それほど気にならないから不思議だった。それどころか、気力体力ともに充実している。気持ちのいい暮らしをしていると思う。
 体力も、以前よりはずいぶん増したと自分では思っていたのだが、まだまだこれしきでは足りないらしい。エマや村の人たちに気を遣わせるのも忍びないので、もっと本格的に体力づくりをした方がいいのかもしれない。
 と、ふくらはぎをもみほぐしながら、村での今後の生活について思いを馳せていると、ふいにドアをノックする音がした。どうぞ、と声を掛けると、開いたドアの隙間からエマが顔を覗かせる。何かいいことでもあったのだろうか。その顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
「どうしたの、エマ? 今日の晩御飯はエマの大好きなシチュ―?」
「ううん、そうじゃないの」
 エマが笑顔のまま首を横に振って、部屋に入ってきた。
「名前さんに、お客様がいらしてるわよ」
「え? 私に?」
「ブラッドリーさんが、箒で来てくれたみたい」
「ええ……? ブラッドリーさん……?」
 こくこくと嬉しそうに肯くエマは、それだけ言うとさっさとドアを閉め戻ってしまった。残された私はといえば、思いがけない魔法使いの訪問に、知らず識らずのうちに顔を顰めていた。

 ◆

 魔法舎を逃げ出してきた時から、追手がかかるかもしれないことは想定していた。いくらブラッドリーの案とはいえ、ブラッドリーは魔法舎で最強の魔法使いではない。ブラッドリーでは私の追跡は不可能でも、彼よりもっと強力な魔法使いにかかれば、大した縁や魔法のための触媒がなくても追跡が可能かもしれないと、その程度の想像はしていた。
 だから万一魔法使いの誰かがここを訪ねてきた場合には、残念だがこの地を離れ、さらに遠方に逃げるしかない──そう覚悟を決めたうえで、私はこれまで幸福の村で暮らしていた。しかしながら、まさかブラッドリーがこの村にやってくるとは。その可能性だけは、私はまったく想定していなかった。
 何せブラッドリーは私を魔法舎から逃がした張本人。魔法舎の魔法使いが私に追手をかけるとしても、ブラッドリーでは甚だ不適切だろう。場合によっては私とふたりで画策して、私をさらに遠くへ逃がすことだって十分にありうる。魔法舎の問題児が──双子とフィガロの鼻を明かせればすかっとすると豪語していたブラッドリーが、まさかそう簡単に彼らの命令に従うとは思えない。
 では、何故ブラッドリーが幸福の村へやってきたというのだろう。まさか私に会いに来たとか? いや、それはないだろう。頭に浮かんだ疑問への答えを、私は即座に打ち消した。
 ブラッドリーと私は共犯関係めいた繋がりを持ってはいるものの、それほど親しいわけではない。わざわざ危険を冒してまで私の逃亡生活を見にくるほど、ブラッドリーはハートフルな魔法使いではないはずだ。もしも私が逆の立場ならば、逃がすだけ逃がしたあとは知らぬ存ぜぬを決め込む。結果的にそれが両者のためになると分かっているからだ。
 では、私の身に何か危険が迫っているのを教えてくれようとしているとか? いや、それこそブラッドリーが、わざわざそこまでの親切心を私に見せるとは思えない。そもそもブラッドリーは魔法使いなのだから、伝えたいことがあるのならわざわざ自分で赴かずとも、どうとでも伝言の手段はありそうなものだ。
 結局、私ひとりがどれほど頭をひねったところで、何故ブラッドリーが幸福の村へやってきたのかという問いへの納得できる答えは、到底出そうになかった。私は早々に考えることを放棄して、自室を出ると階下におりる。
 階下には夕餉のにおいがたっぷりと満ちていた。食卓に顔を出すと、テーブルの上座についたブラッドリーが、誰より先に我が物顔で夕食にありついている。村長は笑顔でブラッドリーのグラスに酒を注いでおり、その姿を見てはじめて、私は彼がこの村では歓迎される立場にある魔法使いなのだということを実感した。
「お久し振りです、ブラッドリーさん」
 できるだけ自然な調子を心がけて声を掛けると、ブラッドリーはようやく目の前の皿から視線を上げて、にやりと私に笑いかけた。
「よう。虜囚。元気そうじゃねえか」
「今はもう虜囚じゃないです。いや、虜囚だったことなど一度もないんですが」
 お世話になっている家の人たちの前で、虜囚呼ばわりはやめてほしい。幸い、夕餉の支度に忙しいエマたちは、誰も私たちの会話を聞きとめてはいなかった。ほっと胸を撫でおろす。この狭い村の中でひどい風評を立てられてはたまったものではない。ブラッドリーは「相変わらず小うるせえな」などと平気で悪態を吐いている。
「おい親父、この揚げ物のおかわりはねえのかよ?」
「ああ、いいですいいです。私がやりますから、村長さんは座っててくださいね」
 腰を浮かせかけた村長に代わり、私が慌ててブラッドリーに揚げ物を取り分けた。そもそもこれは私たちの今夜のおかずのはずなのに。先程から、ブラッドリーはひとりで食べつくさんばかりの勢いで食事をし続けている。もしかして、この村の食糧事情を知らないのだろうか。
「てめえが給仕すんのか。まあいいけどな」
「何しに来たのか知りませんけど、これ食べたら帰ってくださいよ。できるだけ私は魔法舎と接点を持たないようにしたいので」
 どういうつもりかは知らないが、まさかただ飯をかっ食らいにきた訳でもあるまい。話があるなら手短に済ませ、さっさとここから立ち去ってほしかった。薄情だとか恩知らずだとかという問題ではない。私の生活が懸かっているのだから、こちらも必死だ。
 ブラッドリーは、私の言葉に聞くなり、むすりと眉根を寄せた。その表情に、ぞわりと怖気が走る。
「その件だが──、まあ飯の後にしようや」
「え? ちょっと待って。今、悪寒が走ったんですけど」
「この肉、もうねえのかよ?」
「露骨に話をそらす! というかブラッドリーさん食べすぎですよ!」
 冷汗をかきながら言い募るものの、もはやブラッドリーの耳には私の言葉など届いていない。エマが運んできたフライドチキンに我が物顔で腕を伸ばすブラッドリーに溜息を吐き、私は給仕の手伝いをすべくその場を離れた。

 ◆

 ようやくブラッドリーと話ができる状況になったのは、夕餉が終わって一段落した頃だった。私がブラッドリーと縁ある者だと知っている村長一家は、気を利かせて私を食後の後片付けから外してくれた。今日の私はエマのお供をしたくらいで、大して何の役にも立っていない。だからこういう気遣いは少しだけ心苦しい。それもこれも、ブラッドリーがアポなしで訪問してきたりするせいだ。
 大皿の並んでいたテーブルは片づけられ、今は食後のお茶の用意だけが私とブラッドリーそれぞれの前に置かれている。この村でつくっている特製のお茶は美味しくてお気に入りなのだが、今はどうにも手をつける気分になれず、私は静かに立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。
 ブラッドリーは先ほどから、素知らぬ顔で織物など眺めている。これは私の方から話し始めるのを待っているのだろう。状況のコントロールがうまい人だよなぁ、とこんなときでも苦々しく感心してから、私は渋々口を開いた。
「それで? ブラッドリーさんはどうしてここにいるんですか。様子を見にきてくれたとか?」
「こっちの事情で来ただけだ、てめえが感謝なんかすんじゃねえ」
 その言葉にふたたび悪い予感が過ぎる。ブラッドリーの事情なんて、どうせ碌でもないものに決まっている。私はブラッドリーのことを大して知っているわけでもないのだが、それでも彼が自分の都合と自分の事情を最優先にするタイプだということくらいは分かっていた。通すべき筋は通しているが、それが公共の福祉や人助けに繋がるとは限らない。任侠ものっぽい魔法使いとでもいうべきか。
 ブラッドリーが自分の都合で動いたとして、それが私の得になるとは到底思えなかった。前回私の脱走を手伝ってくれたのは、私の希望とブラッドリーの思惑が重なった、稀有な例なのだ。
 あからさまに身構える私を、ブラッドリーはじろじろと無遠慮に全身眺める。その視線に私が一層肩をこわばらせてたじろいでいると、
「──お前、ちょっとついてこい」
 やおらブラッドリーは椅子から腰を浮かせた。かと思えば、さっさとテーブルを回り込み、同じく椅子に掛けていた私の腕をしっかり掴む。半ば引き摺られるように立たされて、そのままずるずると部屋の外へと引っ張られていった。
 ふと見ると、柱の影からエマがはらはらした様子で、私とブラッドリーを見守っている。
「だ、大丈夫だからねー。あっ、お茶の片づけはあとで自分でするから置いておいて!」
 それだけどうにか言い残し、私はエマにぐっと親指を立て、そして無様に部屋から引きずり出されていったのだった。

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