プロローグ/第一部


「真木さんは──」
 真木さんはつらくはないのだろうか。
 そう思ったのは多分、私自身が本当はどうしようもなく、この状況をつらいと思っていたからだった。
 口では適当なことをうそぶいて。平気なように振る舞って。
 だけどこんな異常事態と異常な環境で、本当の意味で平気でい続けられる人間が、一体どれほどいるのだろう。平気な顔をしているのは、そうしていないと嫌になってしまうからだ。先の見えない異常な環境に、絶望してしまいそうになるからだ。
 人の好さそうな顔に困ったような笑顔を張り付けて、真木さんは私をうかがうように見つめている。その表情に、むしょうに泣きたくなった。
 この人はつらくないのだろうか。
 真木さんの顔を見ていたら、そんな疑問を抱くなんて、それこそ馬鹿げていると気付いてしまった。気付いてしまったから、泣きたくなった。
 だって、つらくないはずなどあるわけない。
 この人だってつらいのだ。
 ただ、私と違ってつらいと言える立場にないだけで。
 ただ、私と同じでつらいと言ってもどうにもならないというだけで。


 ◆

 風が強くて、猫が騒ぐ、明るい満月の夜には、なにか不思議な事が起こるらしい──
 ずいぶん前に聞いた猫ばあさんの言葉を思い出し、
「おうおう元気にやってるねぇ!」
 喧嘩なのか盛っているのか、にゃごにゃご盛り上がる近所の猫の大騒ぎに茶々を入れつつ、私はさっきコンビニで買ったばかりの缶ビールを取り出して、帰宅を待たずにプルタブを開けた。
 かつて猫ばあさんの家に顔を出していた頃の私は、花も恥らう女子高生だった。通学路にある通称猫屋敷をたびたび訪れていたのは、猫好きな憧れの先輩との共通の話題が欲しかったからだ。もちろん猫は今も好きだが、どちらかといえば私は犬派である。
 ぐびぐびとビールをあおりながら、夜もふけた帰路をひとり歩く。なんといっても今日は金曜日。明日も明後日も特に用事は入れておらず、ひたすらだらだらして休日を過ごすつもりだった。
 吹きつける風が前髪を乱し、あらわになった額を強く撫でる。缶の表面についた水滴が指をぬらした。ふと頭上を見上げれば、濃紺の夜空に深いグレーの雲がまだらに散っている。その雲が風ですうっと流れていき、ふいに満月が雲の隙間から姿を現した。辺りがにわかに明るくなる。
「満月に飲酒、つまりこれは最高のやつ」
 アルコールに酔っているというよりは、乙なシチュエーションに酔っていた。ご機嫌なひとり言とともにマンションのオートロックを開く。待つほどもなくエレベーターがやってきて、上機嫌のままに私はそれに乗り込んだ。
 音もなくエレベーターの扉が閉じる。そのとき急に、立ち眩みのように足元がおぼつかなくなる。目の前の景色が粗く歪んだ。
 慌てて壁に手をついて、眩暈と脱力をどうにかこうにかやり過ごす。すぐに眩暈は消え去って、ほっと安堵した私は閉じていた目蓋を開いた。
「って、あれ……?」
 一瞬、見間違いかと疑って、空いた手で目頭をぎゅっと強くつまむ。今なにか、おかしなものが見えたような……?
 よろめき、またもや壁に手をつき愕然とする。冷たい材質のエレベーターの内装は、いつのまにやら重厚で装飾の美しい木材へと早変わりしている。同時に、耳につくガタゴトと鳴る古めかしい機械の音に気が付いて、胸の鼓動が速まった。このマンションは築浅で、エレベーターに乗っていて昇降の音を聞いたことなどこれまで皆無だった。
 まさかこれしきの缶ビールで酔っぱらったということもないだろう、と驚く自分をなだめすかし、おそるおそる、ふたたび目蓋を開いて周囲の様子に目を凝らす。エレベーターの行先階パネルは見当たらず、かわりに何に使用するのかも不明な金属製のレバーに置き換わっている。閉めきられた扉には──百合、だろうか? 何か花のような模様が彫り描かれていた。
 どくどくと、ますます鼓動が速くなる。
 花の模様は理由もなく恐ろしいものに思え、長々と直視していたくなかった。たとえて言うならそう、アニメやゲームに出てくる悪の組織の構成員が、共通して身体に彫っているタトゥーのような禍々しい雰囲気。
 その花の模様から目をそらすように、私は視線を上に向け──そして今度こそあんぐり口を開け絶句した。
 エレベーターの天井からはおよそ賃貸マンションには不釣り合いな、豪奢できらびやかなシャンデリアが、豪華絢爛、堂々と揺れ下がっていた。

 ◆

 改築、リフォーム、デザイナーズマンション。
 そんな言葉が私の脳裏をよぎっては消えてゆく。そうこうしている間にエレベーターは何処かに到着したらしく、がごんと一度危なげに揺れ、機体をようやく停止させた。
 扉が開いたその先は、何処かの階段の踊り場のような薄暗く狭い場所だった。見たところ、人の気配はなさそうだ。もちろん、私がたびたび顔を合わせて挨拶をする、同じマンションの住人の気配など何処にもない。それどころかマンションの居室はひとつもなかったし、そもそもここは私が住んでいるマンションでもなかった。
「いや、どこ……?」
 呆然と呟いた瞬間、開いていたドアがゆっくりとまた動き出す。私は慌ててドアの隙間から飛び出した。飛び出してから、しまったと後悔する。このままエレベーターに乗っていれば、そのうち元のマンションに戻ることができたかもしれないのに。
 慌ててエレベーターの扉を叩いたが、閉まった扉はうんともすんとも言わずに固く閉じている。エレベーター前の操作盤らしきものにも一応触れてみたが、これもまったく何の反応も示さない。
「そもそもこれ、何か文字が書いてある? 石板? 外国語? インテリアのために適当な文字彫っただけなのかな……?」
 とりあえず操作盤のうえにビールの空き缶を置いておき、辺りの様子を探ってみることにした。こういう状況をあらわすための言葉がたしかあったはずだと思うのだが、それを口にするのはどうしても躊躇われた。もしも口にしてしまったら、この現状が現実として固定されてしまうような気がした。
「おおーい、あの、誰かいませんかぁ……?」
 エレベーターの内装にしろ、この建物の造りにしろ、かなり本格的な代物だということは認めないわけにはいかなかった。もしもここが何処かのマンションだとか居住用の建物ならば、間違いなく私のマンションよりもグレードが高い建築物だ。常駐の管理人のひとりくらいいたっておかしくない。
「あのぉ、すみませぇん……」
 誰にともなく声を掛け続けているうちに、だんだんと心細くなってきた。こんなことならもう一本くらいビールを買っておくんだった。どうせ不安になるのなら、せめて酔って事に臨みたい。
 すでに何段か階段をのぼった後だったが、いっそ空になったまま置いてきたビールの缶だけでも回収してこようか。缶に残ったアルコール臭を嗅いでいるだけでも気が紛れるかもしれないし、それ以前にそもそもあんなところに空き缶を置きっぱなしにしてはここの管理人さんに迷惑だ。
「よし、引き返そう」
 わずか数段のぼっただけの階段を、踵を返して今度はくだる。すぐにエレベーターの前まで辿り着き、私はさっとビールの缶を回収した。よかった、誰にもポイ捨て未遂の現場は目撃されていない。
 と、この場に不似合いな安堵で心を多少なごませていた、そのとき。
「誰か、そこにいるんですか……?」
 階段の下から声がして、私はぎくりと固まった。続けて数人の、階段をのぼってくる靴音。ほっとするより恐怖が先立ち、私は返事をすることもできないまま、そこに立ち尽くしていた。

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