物語のうらがわに記す


 食事の支度は、村長夫人であるエマの母親とエマが担っている。この家にお世話になることになった日から、私もその手伝いをすることになった。
 元居た世界では独り暮らしをしていたので、身の回りのことは一通り自分で何でもできるつもりでいた。だが、便利な家電やガスコンロすらない環境での生活は、思った以上に難しいものだった。
 水は毎朝井戸に汲みにいかねばならないし、入浴も毎日できるわけではない。魔法舎はこの世界においてかなり設備が整っていたのだと、今更ながらに実感する。
 中でも慣れぬ材料と使い勝手の分からない道具での調理に、私ははじめ途轍もなく手間取った。それでもエマも村長夫婦も、呆れることなく私に手順を教えてくれる。おかげで三日もすると、ある程度村のやり方にも慣れた。

「いただきます」
 その日、私は夕餉のテーブルにつき、エマの母が母親がつくってくれたスープを口に運んでいた。素朴な味わいのシンプルなスープは、家庭料理そのものといった滋味に富んだ味わいをしている。見たこともない材料からつくられているはずなのに、家庭料理らしい味だと認識できるのが不思議だ。
 そういえば、魔法舎での食事は毎食趣向を凝らしてあったっけと、食事を口に運びながらぼんやり思い出した。木の食器はどれも口当たりがいいが、これも魔法舎では滅多に見なかった。たしか魔法舎で使用されていた食器は、陶器と銀食器だったはずだ。
 魔法舎で出された食事にも、馴染みのない材料で作られているものは多々あった。けれどネロの料理はどれもこれも、安心して口に入れられるようなものばかりだった。料理のメニューそのものは、私が元居た世界とあまり変わりなかったように思う。
「そういえば、一回おじや出てきたこともあったっけ……」
「おじや? それは何?」
 私の独り言に、エマがきょとんとした顔で首を傾げた。エマの両親は寄り合いがあるといって先程出て行ってしまったので、今夜の夕食は私とエマの二人きりだ。
 向かいに座ったエマのきらきらした視線を受けながら、私は頭の中におじやを思い浮かべていた。
「えーと、なんていうかな……お米を、こう、出汁でうまいこと煮込むとできるんだけど」
 改めて言葉にしてみると、シンプルな料理だけに説明が難しい。リゾットのような、とでも言えばいいのだろうが、そもそもこの世界にリゾットがあるのかも分からない。
 私の説明に、エマは一層困惑してしまったようだった。考え込むような表情で首をひねっている。
「名前さんの言う『お米』というのは、スタ米とは違う? スタ米は麦のようなものよね? 『お米』は穀物?」
「あれっ、こっちの世界にお米ってないんだっけ?」
「一応スタ米というものがあるにはあるけれど、主食はパンを食べる人が大半よ。スタ米をそのまま食べるというのは、うーん、私は聞いたことがないのだけれど。パエリアにしたり、ミルク粥にしたり」
「ミルク粥! それはかなりおじやに近いよ」
 そう言いつつも、私はミルク粥を食べたことはない。けれどアニメ映画で見たことがあるから、大体どんなものかは知っていた。洋風おじやのようなものだろう。
「あんな感じで、出汁で煮込む。出汁は分かる? 昆布とか……いや、海藻とかの旨味をね、こう、お湯にとるんだけど」
「分からないけど、なんとなくイメージはできたわ」
 おじや、おじや、とエマは確かめるように何度も繰り返した。時々エマにせがまれて、こうして元居た世界の話をすることがある。本当ならばエマは魔法舎での暮らしにこそ興味があったはずなのだが、私が魔法舎でほとんど部屋に閉じこもりきりだったと伝えて以来、魔法舎のことはあまり聞いてこなくなった。優しい子だと思う。
 真面目な顔でおじやを想像しているエマに、微笑ましい気持ちになりながら、私は器に残っていたスープを飲み干した。そうして話の流れを引き摺ったまま、魔法舎での生活に思いを馳せる。
「それにしても、言われてみればたしかに、こっちの人はお米炊かないね。魔法舎では普通に出てきていたんだけど、あれは特別だったのかな」
 もちろん、茶碗に白米がよそってあるようなことはなかったが、おじやは限りなく私が元居た世界で食べていたものに近かった。エマの反応から考えても、あれはきっとこの世界でよくある食べ方ではないのだろう。
「賢者様が異世界からお出でになった方だから、賢者様に合わせて少し違う食事を食べているのかしら」
「ああ、なるほど。それはあるかも」
 エマの言葉に納得して、私は相槌を打った。
 たしかに、真木さんの前にも『賢者』はいたはずなのだから、誰かがこの世界でおじやの作り方を魔法使いに伝えていてもおかしくはない。『賢者』の拠点が魔法舎であれば、魔法舎にのみそのレシピが伝わっている理由にも納得がいく。
 そして、この世界に来たばかりの私を気遣って、真木さんか、あるいは厨房を仕切っているネロが、私の元居た世界の食事に近いものを出してくれていたのかもしれない。少しでも元居た世界との繋がっていられるように、気を利かせてくれたのかもしれない──
 そんなふうに考えるのは、さすがに自惚れだろうか。魔法舎を飛び出してきた身でありながら、そんな考えを持つことは。
 頭に浮かんだ都合のいい幻想を振り払うように、私は空っぽになった器から視線を引きはがし、ぐるりと首を巡らせた。
 私が幸福の村にやってきてから、すでに二週間ほどが経過していた。魔法舎から離れて新しい環境に落ち着けば、きっと魔法舎での軟禁生活のことは次第に忘れていくだろう──そんなふうに考えていた当初の予想は大きく外れ、日を追うごとに、私は魔法舎での日々ばかり思い出している。
 生活に余裕ができると、余計なことを考える。嫌になって、自分で逃げ出したはずの場所なのに、ブラッドリー以外の誰にも告げずに出てきたことが、今になってひどく気に掛かっていた。
 だからといって、誰に逃亡を打ち明けるべきか考えてみても、ブラッドリー以外に話せる相手が思いつくわけではない。もっとも適切なのはやはり真木さんなのだろうが、真木さんこそ、私が一番逃亡計画を知られたくない相手でもあった。
 言えばきっと、真木さんを困らせる。そして真木さんに困った顔をされてしまったら、私はもうあそこを逃げ出そうとは思えなくなるだろう。もしかしたら私が望むならと送り出してくれるかもしれなが、それはまた別の問題だ。真木さんを困らせることが分かっていたから、私は何も言わずに魔法舎を出てきた。
 今更、魔法舎に戻ろうとは思わない。戻ってもいいと言われたって、戻りたいとも思わない。それでも、ふとした瞬間に思い出してしまう。
 食事をするたび、ネロの食事は美味しかったことを思い出す。
 美しい織物を見るたびに、クロエの衣装はおしゃれだったことを思い出す。
 誰かに優しくしてもらうたび、真木さんが名前を教えてくれたときのことを、思い出す。
「名前さん? 何を見てるの?」
 私が視線を巡らせていることに気付いたエマが、また不思議そうに首を傾げた。エマは根っから素直で賢い子だ。だからいつでもこんなふうに、屈託なく私に質問をする。
 思案の中身まで打ち明ける必要もないだろう。そう思い、私は織物を保管してある上階を指さし答えた。
「上に掛けてある織物を見てたんだよ。すごく素敵だなと思って」
「そうでしょう?」エマがぱっと顔を輝かせた。「あそこにあるのは、私がはじめて複雑な図案を織れたときのもの。売り物にするには少し粗いから、記念もかねて飾ってるのよ」
「そうだったんだ。あんなにきれいな織物を織れるなんて、やっぱりエマはすごいねぇ」
「ふふ、ありがとう。あの織物以外は、ここにあるものは街に持って行って売るものばかりだけれど、倉庫には賢者の魔法使いたちに着てもらった衣装も保管してあるのよ。よかったら今度見せてあげる」
 賢者の魔法使いが着た衣装というのは、くだんの祭りで使った衣装のことだろう。本来の舞い手と賢者の魔法使いでは衣装のサイズが違いすぎるため、エマたちはその祭りのために特別に衣装を用意しなおしたと聞いている。
 その祭りの話をするとき、エマはうっとりと夢見るような表情になる。今もやはり、陶然とした表情を浮かべていた。
「エマは、賢者の魔法使いのことが大好きなんだね」
 試しにそう言ってみると、エマは猛烈に勢い込んで頷く。
「もちろんよ。あなたも中央の国の魔法舎から来たのなら、魔法使いたちがどれほどきれいで、どれほど素敵か知っているでしょう?」
「うーん、どうだろう。私はあんまり、魔法使いたちと接点がなかったからね。きれいな人たちだっていうのは分かるけど」
「本当にきれいよね……。魔法使いたちの舞の美しいことといったら。名前さんにも見せてあげたかった」
「舞かぁ。誰が躍ったの?」
「特に大事な役どころはヒースクリフさんと、オーエンさんと、ミスラさん」
「それって大丈夫だったの?」
 どう考えても舞という柄ではない魔法使いが、若干二名ほど混ざっているではないか。オーエンとミスラといえば、私が魔法舎で害された魔法使いの二翼だ。舞のメインどころの三人のうち二人が問題児では、祭りが成功したのはほとんど奇跡だったとしか思えない。むしろ本当に成功したのかすら疑わしくなってくる。
「大成功だったわよ? 隣の村のみんなも大喜びだった!」
「そうなんだ……」
 たしかにオーエンもミスラも、顔は整っているうえにスタイルもいい。本当にちゃんと舞を披露できたのなら、それはそれは麗しいものとなったのだろう。きっと真木さんの指導のもと、奇跡的に成功がおさめられたに違いないと、私は半ば無理やり理解した。
 ヒースクリフという魔法使いのことは知らないが、ミスラとオーエンとともに舞うことができるというのだから、きっと肉体派の魔法使いなのだろう。ものすごく強くて、筋力でミスラとオーエンを従えることができるのかもしれない。
 そういえば一度だけ、黒髪で随分と体つきのしっかりした魔法使いを見かけたことがある。名前を聞きそびれてしまったが、あれがおそらくヒースクリフに違いない。

 話が弾んでいるうちに、すっかり夕餉を終えてしまっていた。食後に冷やした果物をひとつ、エマと半分こにして食べてから、一緒に食器を洗った。それも済んでしまうと、一日の仕事はほとんどおしまいだ。あとはもう床に就くだけになる。
 エマの両親はまだ寄り合いから戻っていなかった。こういうことはよくあることだそうで、寄り合いはそのまま宴席になり、夜遅くになってから戻ってくるらしい。エマひとりを残していくのは危なくないのかとエマに尋ねると、
「こんな田舎だもの。家の中に押し込んでくるような悪人なんて、そうそういやしないわよ」と苦笑しながら教えてくれた。
 現代日本においてはもはや片田舎ですら防犯意識が根付いているというのに、幸福の村の村民はとことん人がいい。お世話になっている身で余計なお世話かもしれないが、どうかこの村が悪党に襲われないようにと、願わずにはいられなかった。
「さて、と」
 寝支度を済ませたエマが、火の元を確認しながら呟いた。
「明日は午後から、隣の村に用事があるの。名前さんも一緒に来てくれたら助かるのだけど」
 隣の村とはいいつつも、子供の足で歩けばそれなりに距離がある。歩けない距離ではなく、村同士の交流はあるそうで、村長の娘であるエマはたびたび隣村までお遣いを頼まれていた。
 私に声がかかるのはこれがはじめてだ。だがそろそろ村での生活も慣れてきた頃でもある。私の行動範囲を広げてやろうという、村長たちの親切心であることは明らかだった。
「もちろん、私でよければ荷物持ちでも何でもするよ」
「よかった! 隣村には美味しいクッキーを焼くおかみさんがいるの。お遣いに行くときにはいつも寄り道しちゃうんだ。名前さんも連れて行ってあげるね」
「ふふ、楽しみにしてる」
 私とエマは顔を見合わせて笑い合うと、それぞれ寝室へと引っ込んだ。

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