明日のこと、世界のこと


 そんな事情によって、私は中央の国のはずれにある、幸福の村を目指しているのだった。ブラッドリーは歩いて行けるようなことを言っていたが、実際には徒歩では到底辿り着けなかっただろう距離であることを、私は一夜明けた朝、御者に教えてもらい知った。
 聞けば大人の足で夜通し歩いても、まるまる五日はかかるだろう距離だという。不眠不休で五日も歩き続けられるほど、私は屈強な人間ではない。幸い馬車を借りていたことで、どうにか二日目の昼過ぎには到着できる見込みが立った。
 馬車の旅は、なかなか刺激的だった。少なくとも魔法舎で、することもなく無為に時間を潰しているよりは、よほど心身の刺激になる。
「幸福の村っていうのは小せえ村だからな。この大きさの荷馬車だと、村の中までは乗り入れられねえぞ」
「大丈夫です。近くまで行っていただければ、最後は自分で村まで歩きます」
 幸福の村が近くなった頃、親切にも教えてくれた御者に、私はそう答えた。
 御者は魔法舎を出た翌朝、休憩がてらに立ち寄った飯屋で食事代を私が支払ったこと、加えてブラッドリーが先に渡した法外に安い馬車代に、私が代金を上乗せしたことで、ずいぶんと親切にしてくれるようになっていた。
 上乗せの代金は飯屋の料金を参考に金額を決めたのだが、もしかしたら支払いすぎたのかもしれない。御者は露骨に態度を変えて、道行のあいだ何かと気を配ってくれた。おかげで荷台に荷物同然に載せられ運ばれているとはいえ、想像していたよりもずっと快適な旅をすることができた。
 がたがたと揺れる荷台も、慣れてしまえばそれほど苦痛ではなかった。幌の隙間から眺める中央の国は何処も活気に満ちている。外国の古い都市のような色使いの街並みは、いくら眺めていても飽きることがない。
「あなたは、ブラッドリーさん……あの顔に傷のある魔法使いに、脅しつけられて私を運ぶように言われたんですか?」
 道すがら、荷台から御者に向けて尋ねると、御者はちらりとだけ首を巡らせ振り返り、すぐにまた前を向いてしまった。それでも、
「まあ、脅されたといえば脅されたんだが」
 視線はまっすぐ進行方向に固定したまま、御者は私の問いに答えてくれた。
「あの、もしかして無賃で乗せるように言われてましたか……?」
「ん? ああ、いや。値切られはしたが、代金は初めから支払ってもらってる」
「よかった……」
 もしも無賃で私を運ぶよう脅しつけられていたとしたら、代金をさらに上乗せしなければならなかったところだ。一応この御者は幸福の村の近隣の村に荷を運ぶ予定があり、私はそのついでに運んでいるのだというが、そうは言っても本来用などない国境近くの辺鄙な村まで足を伸ばすのは、御者にとって面白くないことに違いない。
 しかし当の御者はといえば、幸福の村なんて辺鄙な村まで行かねばならないことよりも、ブラッドリーに頼まれたということが気に掛かっているらしい。
「だがなぁ、いくら代金を支払われても、あいつは北の魔法使いだろう?」
 どうにも気乗りしない調子で、ぼやくように御者は言う。私は曖昧に相槌を打った。
「魔法使いを王子殿下にいただく中央の国の国民としては、あまり悪しざまに魔法使いのことを罵ることも憚られるが……、そうは言ってもどんな魔法使いでも隣人だと受け容れられるほど、魔法使いは親切な生きもんでもねえだろ。特に北の魔法使いの悪評は、中央の国まで嫌というほど轟いてきやがる」
「はあ、まあ、そうですね……」
 倫理観や正義感と魔法使いへの嫌悪を天秤に掛けた結果、ぎりぎり嫌悪が勝っている──御者の口ぶりは、そんな心境の複雑さを滲ませるようだった。中途半端な返事をすることも躊躇われ、私はじっと黙り込む。
 私はアーサー王子を知らないが、カインがあれほど熱心に忠誠を誓うほどなのだから、きっと優れた王子なのだろう。それこそこの国の民が、魔法使いだというだけで悪感情を持てなくなるほどに。
 一方で、アーサー王子個人が如何に優れた王子であろうと、魔法使いという集団の印象を完全にクリーンにするのは難しい。ブラッドリーは見るからに荒くれもので横柄だし、きっとこの御者にもそうした態度を崩さず接したに違いない。北の魔法使いとして、人間ごときに舐められたくないというプライドや矜持もあるだろう。
 この世界では、人間と魔法使いとの間には未だ深い溝がある。そのことは魔法舎にいた頃から薄々聞き及んでいたから、御者の言い分に驚くことはない。むしろ私はもっとはっきりと、差別や軋轢が目に見えるものだと思っていた。だから御者のこの言い分は、想像よりもずっと魔法使いに寄っているなと思えるほどだ。
 ここがアーサー殿下を王子にいただく、中央の国だからだろうか。カインは魔法使いゆえに騎士団長の身分をはく奪されたといっていたが、それはあくまで上に立つものとして魔法使いが認められていないというだけの話。あるいはカインの言うとおり、魔法使いであることを隠していたからこその処遇。実際の民衆の生活には、思ったよりも魔法使いへの悪感情は根付いていないのかもしれない。
 物思いにふけり、私はぼんやりと思考の渦にはまりこむ。そんな私を現実に引き戻したのは、
「ああ、そろそろ幸福の村だな」
 という御者の声だった。
 御者にならい、視線を道の先に投げかける。村だと口にするわりには、辺りに民家や建物らしきものはほとんど見えていない。視線の先にあるのはただ、黄金に色づいた麦穂の海だけだ。
「ええっと……。村、ありますか……?」
「ある。この麦畑をこえていくと、村に出る。本当に小さな村だから、ここから見えるような高い建物はない。もう少し近づけば、ちゃんと家々の屋根が見えてくるから安心しな」
「はぁー、そうなんですね」
 元居た世界では建物が視界にひとつもないことなど有り得なかったし、道中見てきた中央の国の様子でも、それなりに高い建物はそこかしこに建っていた。ブラッドリーが幸福の村を鄙びた村だと言っていたことを思い出す。なるほど、これはたしかに田舎めいている。時代めいていると言い換えてもいい。文明の香りが、そこはかとなく薄い。
「スローライフだ……」
「すろう……何だって?」
「憧れの田舎暮らしってことです。まさかこの年で田舎に隠居することになろうとは思いもしなかったけど」
 とはいえ魔法舎にいたところで、スマホが使えるわけでもない。国でもっとも栄えている王都ですら碌に電気も通っていないというのなら、田舎だろうが王都だろうが大差ない気もする。
 御者がゆるやかに馬を止めた。
「幸福の村に行くんなら、悪いがそろそろ降りてもらえるか? これ以上行くと道が細すぎて、馬を回すのに難儀するんだ」
「大丈夫です。ここまで送っていただきありがとうございました」
 わずかばかりの手荷物を携え、私は荷台をぴょんと降りた。衣服に付着した藁草を叩いて落とす。御者もさっと降りてきて、私の前にやってきた。
 別れの挨拶だろうか。まさか追加で料金を求められるとか。そんなことを思っていると、御者は逡巡するように視線を束の間彷徨わせ、それから何とも唐突に、
「なあ、あんた魔法使いたちから逃げてきたのか?」
 ぼそぼそした声でそう言った。
「え?」
「いや、こんなことを聞いて首を突っ込むのはどうかと思って、今日まで黙ってあんたを運んできたんだが……。それにしたってあんな夜更けに魔法使いたちの魔窟を抜け出して。ありゃあ夜逃げだったんじゃないのか?」
「夜逃げ……、言われてみればたしかに……」
 別に借金などがあるわけではないのだが、夜に逃げているのだから夜逃げになるのだろう。私の行先はブラッドリーのみ知っている。しかしブラッドリーは自分の保身のためにも、絶対に誰にも私の行先を明かしたりはしないはずだ。だからやはり、これは夜逃げだった。
 そうですねえ、と、私は曖昧に笑って誤魔化す。が、御者があまりにも不憫そうに私を眺めているものだから、さすがにこのまま誤魔化しておくのはまずいような気になった。
 私が夜逃げした身であるのなら、そこには当然夜逃げするだけの理由があるはずなのだ。私が逃げ出してきたのは、大陸中でも屈指の力を持つ魔法使いたちが集う館。夜な夜な魔法使いたちの哄笑響く魔の巣窟──なのかどうかは私の知るところではないのだが、人間の世間から見ればそのくらい恐ろしく思われていても何ら不思議なことはない。
 となれば、如何なる誤解を招いているのかなど、容易く想像できてしまう。魔法舎にはこの国の王子も出入りしている以上、誤解をそのままにしておくのはきっと良くない。
「別に、虐げられていたわけではないので大丈夫ですよ。ほら、この通り路銀を持たせてもらえるくらいですから」
 普段以上に明るい声で、出発時よりも軽くなった路銀入りの布袋を取り出して見せれば、御者は不審げに眉根を寄せて首を傾げた。
「ううーん、たしかにそう……なのか?」
「大丈夫です。私は沢山の魔法使いを知っているわけではないですが、あの魔法舎にいた魔法使いたちのことなら、全員とは言わないまでも知っています。あそこにいた魔法使いたちは、ちゃんと『いい魔法使い』でしたよ」
 もちろんこれは本心ではない、ちょっとした嘘のたぐい。リップサービスとでも言うべきか。そもそも私は、私を送り出してくれたブラッドリーのことですら、いい魔法使いだなんて思ったことはない。
 私があの場所で実際に接し、『いい魔法使い』だと思ったのは、ラスティカとカインくらいのものだ。ネロのことも『いい魔法使い』だと思うが、交わした言葉の数が少なく判断が難しい。
 あとは、おそらくだが、クロエも『いい魔法使い』なのだろう。彼ともあまりきちんと話す機会もなかったから、半分くらいは私の想像と『いい魔法使い』であってほしいという願望だ。
 とはいえ一宿一飯どころか一週間以上も滞在した間の、食事と寝床の礼くらいはしておかないと罰が当たる。こうして魔法使いたちを良く言っておけば、風評被害だなんだと後から怒られることもないはずだ。彼らと会うことなど二度とないはずだと信じているが。
 依然首を傾げている御者に向け、私は腰を曲げて頭を下げた。
「ここまで送っていただきありがとうございました。それではお元気で」
「おう、お嬢ちゃんもな」
「お嬢ちゃんという年ではないんだけどな……」
 金さえ払えば気のいい御者とそこで別れると、私はいよいよ幸福の村に向け歩き出した。村に続く道も一応あるにはあるが、両側の麦畑から、大きく伸びた麦が道にまで穂を垂らしており、掻き分けながらでないと進めない。
 麦の海を進むことしばらく。ようやく開けた場所に出ると、そこはまさしく田舎の、小さな、鄙びた──けれど何処か懐かしいにおいを漂わせた、静かな村だった。

 ◆

 村に到着してすぐに、ここがけして裕福な村というわけではないことを察した。魔法舎とこの村までの道中しかこの世界を知らない私でも、この村が細々と暮らす人々の集まりだということくらいは見れば分かる。お世話になろうという以上はこの村の働き手になる覚悟はしているが、そうでなくても見知らぬ他人を歓待するような余力は、きっとここにはないだろう。
 それでも私がブラッドリーからの紹介だとひと言告げただけで、村人たちは私を快く受け容れてくれた。以前賢者様御一行をここに招いたことがあるといい、それゆえ異世界からやってきたという私の怪しすぎる経歴にも、拍子抜けするくらいあっさりと納得してくれた。魔法舎を逃げ出してきたくせに、賢者様──真木さんの威光と人徳によって生かされているとは、我がことながらまったく情けない話だ。
 村に滞在する間、当面は村長の家でお世話になる運びとなった。村の助けになるような技能もなければ、読み書きすらできないという私の体たらくを知ると、その家の娘であるエマが、
「村での生活から文字の読み書きまで、私が責任もって手とり足とり教えてあげる」
 と買って出てくれた。エマは中学生くらいの年齢だが、村長の娘だけあって面倒見がいいらしい。その提案を、私はありがたく受けることにした。
 村での生活の勝手を覚えようと努力しているうちに、日々はあっという間に過ぎていく。一所懸命暮らしていくうちに、私にもだんだんとこの村の事情が理解できるようになっていった。
 村をぐるりと囲む麦はほとんどがこの村の蓄えとなるそうで、村の主な収入は特産品である機織にかかっているらしい。私も機織を教わることになり、生活が落ち着いた二日目から早速、エマの機織指導が始まった。
 ばんばんと力強い音を立てる機織機もあれば、かたこんと軽い音を立てるものもある。軽い音を立てる機織機はもっぱら繊細な図案を織るために使われているようで、比較的年配の女性が使用していることが多い。
 集団の作業場とは別に、各家庭に機織機が置かれており、私はエマの家の機織機で練習することになった。当然ながら、私に貸し出されたのはばんばん大きな音を立てる方の機織機だ。
「でも、私に機織なんてできるのかな。いえ、教えてもらうからには頑張って覚えますが、この織物、ものすごく繊細な図柄になっているんじゃない?」
 機織を教わることになった最初の日、私はエマに尋ねた。エマの家の機織り部屋はいたるところに織物や巻糸が置かれている。繊細な模様の織物は、元居た世界の感覚でいえばエスニックっぽい雰囲気がある。とてもではないが、私のような初心者が織れるような代物ではない。
「そうね。でもさすがに、いきなり名前さんにそこまでの技術を求めたりしないから、そこは安心して。まずは村の中で使う分の織物を織れるように頑張りましょう」
 斯くしてその日から、幼いながらに村でも名うての機織名人だというエマによる、スパルタ機織生活が幕を開けたのだった。

 それにしても、氏素性も不明な私のような怪しい人間に、この村の英知ともいえる機織の技術を教えてくれようとは。この村の働き手になるつもりで頼ってきたのはたしかだが、まさか初っ端からこれほど信頼してもらえるとは思ってもみなかった。遠巻きにされるどころか、数少ない村民たちは日々かわるがわる私を気遣い顔を出してくれる。
 「分からないことが何でも聞いてちょうだい」
 腰の曲がったおばあさんが皺皺の手で私の手を握ってくれる。
 「困ったことがあったら頼ってよ」
 エマと同じ年頃の子供たちが請け負ってくれる。裕福ではない村だろうに、よそ者の私にも毎食お腹いっぱい食事を食べさせてくれる。村にある数少ない書物を、私の読み書きの勉強のために貸し出してくれる。困ったときにはお互い様だと、嫌な顔ひとつせず。
 それもこれも、以前この村の祭りを助けたという賢者の魔法使い御一行に対し、村民がとてつもない感謝の心を持っているからだ。彼らの私への無条件の親切心だけ見ても、その功績は推して知るべしだ。
「もちろんそれもあるけれど……。何よりここは小さな村だから。若い人手はありがたいのよね」
 ある日の夕食時、私がそのことを口にすると、エマは大人びた口調でそう言った。
「誰かを差別したり迫害している余裕もないというのが正直なところかな。新しく来てくれる人がいるのなら、みんなで歓迎してここに居ついてほしい。もちろん、そんな下心ばかりじゃないのよ?」
「それは大丈夫。ちゃんと分かってるよ。みんなすごく親切にしてくれるし」
「本当にいい人ばかりの村よ。小さな村だけど、私の大好きな、自慢の村。だから名前さんも、身の回りが落ち着くまで、ううん、落ち着いてからだって、いつまででもここにいてね」
 村長の娘としての言葉だろうか、エマは自信たっぷりに笑った。

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