異世界の車窓に降る


 どこの世界でも、空気のにおいはそれほど変わるものではない──
 魔法舎で軟禁状態にあった頃、私はそのように思っていたけれど、それは私の思い違いだったのかもしれない。見知らぬ土地の夜は恐ろしく、まるで空気のにおいまでもが私の知らない、そっけないもののように感じられる。この世界にとっての異物である私を、突き放すような冷たい夜。元居た世界のように、夜通し点灯している街燈が、街のそこかしこにあるわけでもない。まして魔法舎のあたりには民家も商店もなく、たよりになるのは月と星々の明かりくらいのものだった。
 本来魔法舎には結界が張ってあり、通常は容易に出入りできるものではないらしい。しかし基本的には外敵からの攻撃を阻むための結界ゆえに、内からの脱出はそれほど難しくない。まして、双子とオズが弱体化する夜間であれば尚更──というのは、この計画を立案したブラッドリーの言葉だが。
 窓から眺めるばかりだった広々とした庭を駆け抜ける。ぐるりと垣根で囲まれた土地の外側は、魔法舎に面した通りだ。特に障害らしきものもなく、拍子抜けなくらいにあっさりと、私は敷地の外に出た。
 ブラッドリーから借りた薄墨色のマントを頭からすっぽりとかぶり、夜闇に乗じて舗道を行く。しばらく先に駆けていくと、事前にブラッドリーが手配してくれたという馬車の荷台が見えた。私と同じく闇に溶け込む色のマントを羽織った御者がひとり、心細げに身体を揺らしていた。
「お待たせしてすみません」
 駆け寄り御者に声を掛けると、御者は声をひそめて荷台を指す。
「あんたがあの顔に傷のある魔法使いが言ってた客か? 遅いじゃないか、乗るならさっさとしてくれ。あんた、魔法使いの関係者なんだろう。バレたら俺は殺されるんじゃないか?」
「それは多分、大丈夫だと思います」
「断ったら殺すと言われたが、ばれても殺されるんじゃたまったもんじゃないよ」
 御者がぶつくさと文句を言いながら、馬を出す準備に取り掛かる。なるほど、ブラッドリーは恫喝まがいのことをして、無理やり馬車を用意したらしい。私の逃亡計画に巻き込まれた御者に申し訳なさを覚え、私は小さな声で謝った。この世界の相場は私には分からないが、そういうことなら多めに料金を払った方がよさそうだ。
 荷台に積まれた藁束のあいだに私がこそこそ身をひそめると、すぐに御者は馬を出す。客を乗せる馬車を使っては、万が一魔法使いに見られたときにすぐに逃亡を疑われてしまうかもしれない。そう説明したブラッドリーが手配したのは、荷運びのための簡素な荷台しかつけていない馬車だった。まずは無事に逃亡することが第一で、快適さなどは二の次だ。ブラッドリーらしい策だと思う。
 舗装された道の凹凸に、荷台がいちいちがたごと揺れた。腹ばいになって寝そべると気分が悪くなりそうで、私は膝を抱えてうつ伏せになった。これなら多少は車輪から伝わる揺れも軽減される。
 姿勢が安定したところで、私はそっと藁束のあいだから荷台の外を見た。荷台には雨よけの幌がかかっているが、安い馬車なのかほとんど形ばかりの襤褸布だ。幌の布の隙間から、月明かりに照らされた景色が細くのぞいている。
 馬車は魔法舎からゆっくりと、しかしたしかに遠ざかっていた。月に照らされ浮かび上がった魔法舎の、中でもいっとう高い塔の影を眺めながら、私はブラッドリーの立案した逃亡計画についてぼんやり思いを馳せていた。

 ──逃げたいか逃げたくないか、てめえで決めろ。
 今からほんの数時間前、ブラッドリーが私に突き付けた問いかけに、私は躊躇いながらも「逃げたいです」と、一言はっきり返事をした。当然だ。私が魔法舎での軟禁を甘んじて受け容れていたのは、ひとえに私には逃亡の手立てが何ひとつなかったから。私にはこの世界の地図もなければ、常識すらない。先立つものも持たないうえに、魔法使いに監視されている。これでは逃げようなどと決断する方がどうかしているというものだ。
 ただし、それは私ひとりで逃げるなら、の話。もしも私を監視する立場にある魔法使いの中から、助力をたのめる者がひとりでも現れるというのなら、私の逃亡も無謀な夢想ではなくなる可能性があった。
 そして実際に、ブラッドリーには私を逃がす案があった。
「てめえが逃げるっていうなら、この俺様が手を貸してやらねえこともない」
 酒の入ったグラスを置き、ブラッドリーはにやりと笑んで宣言した。私はいまだ半信半疑で、すがめた眼でブラッドリーを見る。ブラッドリーに心を許し始めているとはいえ、まったく信用しているわけでもない。ブラッドリーが一筋縄ではいかない相手だと心得る程度の分別は、酔った私にも備わっている。
「でも、本当にそんなことができますか?」
 あくまで慎重に、私はブラッドリーに尋ねた。
「皆さん魔法使いなら、逃げたところであっという間に私の居場所なんかばれるんじゃないですか? 逃亡なんてしようものなら、それこそ自分には疚しいところがありますって言ってるようなものでしょ。私は凶兆のしるしだなんて自覚はないし、自分が無実だと信じていますけど、それでもさすがに、捕まったら終わりですよ」
「捕まらなきゃいい」
「またそういうことを……」
 そりゃあたしかに、捕まらなければ冤罪も何も関係ないだろう。問題は私が逃げたら十中八九、追手がかかって捕まるだろうということなのだ。魔法使いの追っ手を躱し、土地勘のないこの世界で逃げ切ることができるほど、私は自分が逃亡犯として優れているとは思えない。それこそ、自称夜の帝王であるブラッドリーすらお縄になるのだから、私ごときが逃げたところで、瞬殺されることは目に見えている。
 しかし私の不信をものともせず、ブラッドリーは余裕たっぷりの笑みを崩さない。何か秘策でもあるのだろうか。わが胸中を読んだように、ブラッドリーがさらにぐっと身をかがめて、テーブルごしの私に顔を寄せた。
「てめえはこの世界にきてまだ日が浅い。そのうえこっちの世界で行った場所、触ったものは魔法舎の結界の中にあるものばかりだ。要するに、この世界との縁がまだほとんどない状態だな?」
「はあ」
「魔法で人探しやもの探しをする場合には、その相手の身に着けていたものや縁の深いものを魔法の媒介にする。髪や爪なんかが一番手っ取り早いだろうが、そう簡単に手に入るもんでもねえからな。たいていは装身具やら愛用品やらを使う」
「なんか、ファンタジーって感じの話だ……。ブラッドリーさんって本当に魔法使いなんですねぇ」
「今更何寝ぼけたこと言ってんだよ」
 ブラッドリーがはんと鼻を鳴らしたが、私は結構本気で感心していた。
 なるほどたしかに、魔法というのはけして万能なものではないのだろう。むろん魔力の量や素質によってできることに幅があるのは分かるのだが、たとえ世界最強の魔法使いであろうとも、全知全能の神というわけではないはずだ。
 魔法を使うにも、道具やとっかかりが必要な場合はあるだろう。そしてブラッドリーによれば、こと人探しにおいてはその人間を象徴するもの──媒介が、あるに越したことはないということだ。
 昔むかし、小学生時代に流行ったおまじないを思い出す。両想いになるおまじないを行うため、好きな相手の髪の毛を手に入れようと躍起になっていた女子が何人もいたことを。魔法とおまじないでは効果は雲泥の差なのだろうが、理屈としては似たようなものだろう。
「分かるか? だから魔法使いは普通、自分の血液や毛髪、爪に至るまで絶対に痕跡を残さねえ。少しの気のゆるみが命取りになるって分かってるからだ」
「でもここの皆さんって共同生活してるんでしょう? 髪の毛くらいすぐに手に入れられるんじゃないですか?」
「だったら風呂場でも調べてみろよ。毛の一本も落ちてねえだろうよ」
 いやに自信満々に、ブラッドリーは答えた。私が使っているバスルームは客用のものなので、魔法使いたちが使っているバスルームがどこにあるのかすら私は知らない。大浴場なのかシャワールームなのかは知らないが、ブラッドリーがここまで自信満々に言うということは、きっと本当に髪の一本すら排水溝に落ちてはいないのだろう。私は魔法使いでも何でもないので、掃除が楽でいいことだというくらいしか感想はない。
「ええと、要するに……私はまだこの世界との縁がないし、愛用品というほどこの世界のものを持っていない……。だから、ここから逃げ出すことさえできれば、うっかり足がつかない限り、魔法で居場所を特定されることはない?」
「恐らくな。てめえの部屋や使った場所からてめえの痕跡さえ消せば、そうそう見つかることもねえだろ」
 そういうものなのか。ブラッドリーの言葉を聞きながら、私はふむと考えた。
 部屋の掃除は大変そうに思えるが、実際には暇に飽かせてしょっちゅう掃除をしていたおかげで、私の借りてる部屋は髪の一本すら落ちていないほどの清潔さを保っている。バスルームだけチェックすれば、よほど痕跡を残すということもないだろう。
考え込む私をよそに、ブラッドリーはどんどん話を進めていく。すでに逃亡の可否の検討の段階は終了し、論題は具体的な逃亡計画へと移っていた。
「いいか? この中央の国の端に、」そう言ってブラッドリーは魔法で地図と万年筆を出現させると、地図の端近くの土地をぐるりと丸くマークする。「幸福の村っつう、ひなびて寂れてぱっとしねえが、飯が上手くて善良な人間しかいなさそうな、小せえ村がある。そこならてめえの足でも、まあ迷わずに歩けば数日で辿り着けるだろ。土地勘がなくて歩き詰めがきつければ、途中までは馬車でも拾えばいい」
「馬車……結構遠いんですね?」
 読めない文字で土地の名前が記された地図を覗き込みながら、私は不安いっぱいに意見した。地図といっても現代日本で使われていたような地図記号ばかりの地図ではなく、児童書の挿絵などにありそうな、特定の建物や土地をイラストで記したデフォルメの地図だ。中央にあるのはこの国のお城だろうか。白壁に青の屋根が爽やかで、まさに童話らしいイラストだった。
 ブラッドリーがマークをつけたのは、そのお城とは反対方向にある村だ。地図には特にイラストなどが描かれているわけでもない。ブラッドリーの言うとおり、辺境の小さな村なのだろう。
「スマホのナビなしで歩けるとも思えないし、馬車に乗れたらいいんですけど……、でも私、お金持ってないですよ」
「足代くらいなら俺様がカンパしてやるよ。この間派手に勝ったばっかだからな、路銀を出すくらいわけねえよ」
「逃亡に手を貸すスポンサーってことですよね? それ、あとでバレたときに怒られるのはブラッドリーさんでは」
「うまく言いぬけてやるさ。てめえが見つかりさえしなければ、こっちのことはどうとでもなる」
 大変な自信だった。しかしこれで、私とブラッドリーの運命は一連托生ということになる。異世界からやってきた人間を勝手に逃がしたとなれば、ブラッドリーとてただでは済まされないはずだ。
 ここまで聞いたかぎりでは、ブラッドリーの計画には致命的な穴はないように思われる。というよりも、私の想像の及ばない魔法という部分についてブラッドリーから専門的な助言があるだけに、私だけではこれ以上の逃亡計画を思いつけない。
 加えて最後の一手、ブラッドリーを信用してもいいのかという点についてのみ不安だったのも、この運命共同体宣言によって、はからずもクリアされてしまった。もはや、計画の実行を躊躇する理由もない。
 けれど──
「村の手前は道が細くなってるから馬車が乗り入れられねえかもしれねえが……まあ、その時はその時だな。前にその村の小せえのが俺様を訪ねてここまでひとりできたからな。さすがに大人が行けねえことはねえだろ」
 滔々と語るブラッドリーの顔を、私は話を聞きながらじっと見つめた。ブラッドリーは得意げに話を続ける。
「その村の人間たちには恩を売ってある。俺様の名前を出せば、悪いようにはされねえはずだ。ジジイとババアの多い村だから、若いやつならてめえみたいなのでも歓迎されるだろ。──なんだよ、さっきから人の顔じろじろ見やがって」
 そこでようやく、ブラッドリーは私の視線が彼を讃えるものではないことに気付いたようだった。ぐっと私の方に傾けていた上体を元に戻し、ブラッドリーは何か見定めようとするように私をじろじろ眺める。
 その視線に晒されながら、私はひとつ、疑問をブラッドリーに投げかけた。
「ブラッドリーさんは、どうしてそんなに私の逃亡に対して協力的なんですか?」
「あ?」
「うまい話には普通は裏がありますよね? 私がここから逃げたところで、ブラッドリーさんに旨味があるわけでもないですし。それなのに、どうしてこんなにも親身になって協力してくれるんですか?」
 そう、それこそが、この計画において唯一の、そして最大の疑問だった。
 ブラッドリーはけして人助けを好むようなタイプの魔法使いではない。むしろ単純な善か悪かで二分するなら、彼は間違いなく悪に属する魔法使いだろう。私を助けたところで金銭的な得をするはずもなく、盗賊の『仕事』として請け負うにはあまりにも割が合わなさすぎる。
 事によると、ブラッドリーも凶兆のしるしである私を、この魔法舎から遠ざけたいのだろうか。彼の『盗賊』としての部分でなく、賢者の魔法使いとしての部分が、私を自分たちの監視下におきたいというフィガロたちとは別の形で、私を排そうとしているということも、まったく考えられないことではない。もしもそうなのだとしたら──それは私にとっては結構、きついことではあるのだけれど。
 そんな私の隠しきれない不安が、ひょっとすると顔に出てしまっていたのかもしれない。
 ブラッドリーは一瞬思案するように真面目な顔をしたかと思えば、
「別にてめえを追い出そうなんてつもりはさらさらねえよ」
 真面目くさった声でそう言った。揶揄したり、あるいは無闇に私をなだめようという声音ではない。ただ、侮るつもりもおもねるつもりもなさそうなその声は、直感的に嘘を吐いてはいなさそうだと、私に思わせるだけの説得力を持っていた。
 それでも、頭から信じられるわけではない。ブラッドリーは私なんかより何枚も上手を行く駆け引き上手だ。迂闊なことをすれば、あっという間に私など食い物にされる。
「……本当ですか? いいですよ、正直に言ってくれて。もう結構言いたい放題された後なんで」
「そもそもてめえをたばかったところで何の得があんだよ。てめえごときが凶兆だ厄災だって騒がれたところで、俺様には何の障りもねえって言ったのはてめえだろうが」
「それはまあ、あの場のノリじゃないですか」
「ノリでも何でも事実だろ」
 ブラッドリーは、つい先程までの自信満々な笑みをふたたび顔に浮かべると、手酌で酌んだグラスの酒をぐいっと豪快にあおった。
「何を気にしてんのかと思えば、そんなことかよ」
「そんなことですみませんねぇ……。でも、じゃあ、どうして私に協力してくれるんです。謀ってもいないのなら、それこそ慈善ってことになりますよね?」
「誰が得もねえのに慈善事業なんかに手を染めるかよ。んなもん、恩赦つきの奉仕活動だけでも胸が悪くなるほどやらされてるっつうのに」
 そうしてブラッドリーは、今日一番の悪い笑顔を、その整った顔に満々と湛えて言った。
「分かんねえか? てめえがまんまと双子やフィガロの目をかいくぐって逃げたら、そりゃもう当然、俺様の気分がスカっとするだろうが」
「ああ……、はい。なるほど」
 これ以上ないほど明快な理由に、私はがくりと脱力する。たしかにブラッドリーにとっては、自分を捕縛したというフィガロや双子に一矢報いることができれば、中途半端な金銀財宝などよりも余程意味のあることだろう。どのような形であれ、借りを返さねば盗賊の頭の名が廃る。
「本音を言えば、俺様が自分で自由の身になるのが文句なしの万々歳だが、とはいえそれはクソみてえな約束のせいでできねえからな。そういうわけで、代理でてめえだ。俺様に代わっててめえが逃げろ、地の果てまででも」
「幸福の村まででしょ」
 地の果てまで行く体力も土地勘もないですよ。そう返すと、ブラッドリーは白けたように鼻を鳴らした。

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