星の座の夜


 その後ブラッドリーの部屋を出たのは夕食の時間をとうに過ぎ、夜も更け始めた頃だった。こんなに長くブラッドリーの部屋に居座ってしまったのは、昼から酒浸りになっていたからというのももちろんあるが、一番はブラッドリーの巧みな話術に引き込まれて時間が過ぎるのを忘れてしまっていたからだ。さすがに自分で大盗賊だの夜の帝王だのを名乗るだけあって、ブラッドリーは私のような下々の心をぐっと掴むすべに長けていた。
 階段をたらたらと下りながら、きゅうと情けなく鳴るお腹をさする。ブラッドリーと話し込んでいたせいで、うっかり夕食を食べっぱぐれてしまった。いつも私の分まで配膳してくれるネロに悪いことをしてしまっただろうか。大人数の食事を用意するからひとり分増えたところで構わないと、以前ネロはそう言っていたが、だからといって私の分を用意し配膳までしてくれているのだから、まったく手間でないはずがない。
 食べ物を粗末にするのは古今東西どの世界でもよくないことだ。溜息を吐きながら、ふらふらと階段をくだっていく。
 と、踊り場を抜け廊下に歩み出たところで、私ははたと足を止めた。そこは見慣れぬ扉が並ぶ、見知らぬ通路。私の借りている部屋があるのとはまったく別の場所だということに、ここでようやく私は気付いた。
 ぼんやりと階段を下りていたせいで、うっかり下りる階数を間違えたらしい。それにブラッドリーの部屋を出てそのままそばの階段を使ったが、私が借りている部屋は魔法使いたちの居住スペースとは区画が違う。階も違えば区画も違う、まったく無関係の場所にうっかり出てきてしまったようだった。
「ええと。建物の上下階が同じ造りなら、こっちの廊下を進んで階段を上がれば、私の部屋にたどりつくかな……?」
 そう独り言ちてはみたものの、ほろ酔いなうえ、魔法舎内の位置関係はまったく頭に入っていない。なんとなくの勘をたよりに数歩歩き出したとき、ふと前方から歩いてくる赤毛の男性が目に入った。腰から立派な剣をさげているのに、不思議なほどに足音は静か。身体の軸がぶれない歩き方は、よく鍛え上げられた身体を私に連想させる。
 どきりと胸が鼓動を打った。ほろ酔い気分も気持ち醒める。つかのまの逡巡ののち、私は、
「カインさん」
 と視線の先にいる人物に声を掛けた。カインがぴたりと足を止め、宙に投げていた視線を辺りに巡らせる。
「その声は名前か?」
「そうですけど」
「悪い。一度俺の手に触れてくれないか」
 そう言うカインの顔は一応こちらに向いているものの、カインと私の視線はまるきり合わない。これではまるで、カインには私の姿が見えていないみたいだ。奇妙に思いつつも言われたとおり、私はカインに近寄ると胸の高さに上げられた手のひらにそっと自分の手を合わせた。
 わざわざ黒の手袋をはずされたカインの手は、皮膚がかたくてごつごつしている。その手にそっと、自分の手を合わせた。なんだかこの世界に来てからというもの、男の人の手ばかり触っているような気がしてくる。
 手を合わせた瞬間、カインの視線がきっちり私に固定された。それと同時にカインの表情も、にこりと魅力的にほころぶ。
「ああ、よかった。これであんたの姿が見えるようになったよ」
「見えるようにって、さっきまでは私のことが見えていなかったんですか?」
「困ったことに、そういう<奇妙な傷>なんだ。あ、<奇妙な傷>が何かは聞いたか?」
「ええと、一応」
 たしか、年に一度の<大いなる厄災>との戦いのあと、魔法使いたちに現れた不思議な後遺症をそう呼ぶのだったか。一番最初にこの世界にやってきた晩、たしかそのように説明された。もっとも、あの時はどういうことなのかよく分かっていなかったが、今にして思えばオズやミスラの手を握らされたのも、その<奇妙な傷>に対し異界人であるところの私の効果を確かめたかったのだろう。結果は散々だったが。
「俺の<奇妙な傷>は、触れた相手じゃないと見えない。一部例外はあるが、基本的にはそういう傷だ」
「でもさっき声を掛けたあと、私の方を見てませんでしたか?」
「気配や声、足音なんかで相手の大体の位置くらいは分かる。暗闇でも息遣いで相手の居所が知れたりするだろ?」
「それは結構、特殊な技能では……」
 少なくとも私はそこまで他者の気配に敏感ではない。いつの間にかそばに人が立っていて、気付かずあとから悲鳴を上げることもしばしばだ。息遣いで相手の居所が分かるというのなら、それはやはりカインが武の人ゆえだからだろう。
 そんなことを考えながら、私はさりげなくカインの様子を観察した。カインとこうして向き合うのは、考えてみればこの世界にやってきたあの日、エレベーターを降り塔から出るまでのあの短い時間以来だ。
 あの時も今も、カインの腰には変わらず剣がさがっている。あの晩は気が動転して随分失礼な態度をとってしまったが、こうして明るいところで落ち着いて見てみると、恐ろしさはあるものの、嫌悪するほど強い恐怖を感じることはなかった。
 もしかしたらそれは、私が直前までブラッドリーと話をしていたからかもしれない。ブラッドリーとの会話が、剣や銃に抱く私の恐怖感をさながら呪いをとくように、言葉でほどいてくれたことは言うまでもない。ブラッドリーにそのつもりがあったかどうかは別として。
 ぼんやりしていた私を見て、おそらくは建物の中で迷子になって途方に暮れているとでも思ったのだろう。
「それでどうかしたのか。困ったことがあったなら、俺でよければ手を貸すぞ」
 カインは親切そうな微笑みを浮かべ、私の表情をうかがった。
「いえ、そういうわけではないんです。なんというか、折角カインさんを見かけたので、この間言いそびれたお礼を言いたいなと思ったくらいで」
 そういうつもりで声を掛けたわけではなかったが、だからといって完全に嘘を言っているわけでもなかった。カインに失礼な態度をとった無礼を詫びなければとは思っていたし、親切にされたお礼だってしていない。たとえその親切が私を見張るためのものだったとしても、受けた恩に変わりはない。
「俺のことはカインでいいよ。それにしても、お礼? 俺、あんたにお礼を言ってもらうようなことをしたっけ」
「最初のときに、その、親切にしていただいたなと思って」
「なんだ、そんなことか。晶といい、あんたといい、異世界からやってくる人間っていうのは義理堅いやつが多いんだな」
 そうしてカインは屈託のない笑みを、惜しげなく私に向けた。そこまで明るく受け止められると、こちらの方が後ろめたさを感じるくらいだ。
 私の感じる気おくれに構わず、カインは親し気に言う。
「立ち話も何だから、部屋に入らないか? もちろん、あんたが俺と話をしたいと言ってくれるなら、の話だけど」
「それは、ええと、願ってもない話ですが」
「ああ、でもこういうときは談話室とかの方がいいかな? 俺の部屋はなんというか、あんまり人を招くのにふさわしい状況ではないんだよな」
 要するにちらかっているということなのだろうが、私にとっても、場所は談話室の方が都合がよかった。ブラッドリー相手ならともかく、カインに迷惑を掛けたくはない。個人の部屋に入るよりは談話室で話をした方が、誰かに見られたときにもまだ言い訳のしようがある。まして、私がこれからしようとしていることを考えれば尚更だ。
 加えて夜半も近いこの時刻。男性の部屋にお邪魔するのは単純に気が引ける。
「それじゃあ、談話室に」
「ああ、そうしよう」
 互いに肯き合ったところで、私とカインは揃って談話室へと移動した。

 ◆

 談話室にやってくるのも、最初の晩以来のことだった。最初の晩、私はここで魔法舎を代表している六人の魔法使いから、この世界のことをかいつまんで教えてもらったのだ。今になって考えれば、あの晩の私は本当によく頑張ったと思う。適度に酒を飲んでいたのがよかったのかもしれない。
「どう考えても、意味不明な状況だったもんなぁ……」
 一週間前のことを回想してしみじみしていると、カインが紅茶の準備をととのえ談話室に戻ってきた。話をするなら飲み物くらいあった方がいいだろうと、厨房で準備をしてきてくれたのだ。何か手伝おうかと一応声は掛けたが、「あんたは座って待っててくれ」とやんわり断られた。
 夜半の談話室にはひと気がなく、やけにひっそり静まり返っている。とはいえ遠くから人の気配や建物の軋みの音が聞こえるので、この時間は魔法使いにとってはまだまだ宵の口なのだろう。談話室に誰もいないのは、もしかしたら物凄く幸運なことだったのかもしれない。
 お茶のしたくが整ったところで、カインが私の正面に腰かける。そして紅茶を飲むのもそこそこに、「そういえば」と切り出した。
「この世界にやってきたショックであんたが塞ぎこみがちだって話を聞いていたんだが、気分はよくなったのか?」
 まったく身に覚えのない話だが、すぐに合点がいった。
「あー、まあ、はい。おかげさまで……」
「フィガロに聞いた時は驚いたけど、異世界から来たんだからそういうこともあるよな」
 なるほど、フィガロか。その名前にぴんと来る。大方、凶兆だの何だのというだけでは私を魔法使いたちから遠ざけるのには不十分だろうと予想して、さらに策を重ねていたというところだろう。
 ブラッドリーやオーエンのようなならず者はともかく、カインのように若くてまっすぐな魔法使いを制御するには、多少の嘘を織り交ぜる必要があったのかもしれない。年長者として、あるいはここで大勢の魔法使いの命をあずかる立場として、そういう策を弄したくなる気持ちは、まったく分からないわけではない。
「晶が平気そうな顔してたからって、あんたまで平気とは限らないしな。それに晶のときはばたばたと色んな事件なんかが起きていて、慌ただしく賢者に就任することになったんだ。だけどあんたはそうじゃない。いろんなことを考える時間がある分だけ、思うところがあってもおかしくないさ」
「カイン……」
「元気になったのならそのうちアーサー殿下にも顔を見せてやってくれると嬉しい。アーサー殿下はあんたのことをいたく気に掛けて、胸を痛めていらっしゃるから」
「アーサー殿下……、会ったことがないかも。どんな方ですか?」
「俺とともにオズから魔法を学ぶ魔法使いで、大切な友人で、そして俺のただひとりの主君だ。会えばひと目でアーサー様だと分かるよ。立ち居振る舞いや小さな所作のひとつひとつが高貴だからな」
「主君……」
 ということは、カインが腰の剣で守るべき相手はそのアーサー殿下とやらなのだろう。そう考えれば腰の剣も、ただ恐ろしいだけのものではなくなるのだろうか。そんなことを思ってみたものの、まだ会ったこともないアーサー殿下では想像が膨らむはずもない。剣はただの剣でしかなかったし、その剣を佩くカインもまた、私にとっては魔法使いと人間以前の、もっと身近な感覚にある断絶の先にいる人だった。
 剣は人を傷つけるもの。その考え方は、そう易々と拭い去れるものでもない。
 私が黙考していると、カインは私の思考を待つように、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。そうしてたっぷり間を置いてから、
「そういえば俺に何か話があったんだっけ? いや、違ったか、俺が談話室に行こうって誘ったんだっけ?」
 あくまで軽やかな口調で、そう私に問いかけた。
「ええと、」
 問われ、咄嗟の返答に詰まった。お礼は先程伝えてしまったし、実のところ話題という話題もない。カインと話をしたい気持ちはたしかにあったはずなのに、いざこうしてその段になってみると、何を話していいのかさっぱり分からなくなってしまう。
「話、はなし……そうですね……」
 懸命に話題を探しながらも、ついつい視線はカインの剣にばかり吸い寄せられる。そうすると余計に剣のことばかりが頭を占め、ほかの話題を思い付かなくなってしまう。
「ええと、話というのは……」
「剣が気になる?」
 唐突なカインの質問に、私は思わず「えっ!?」と狼狽した声を出した。カインが声を立てて笑う。
「だってさっきから、俺の剣にばかりあんたの視線がいってるからさ。かっこいいだろ。見るか?」
「えぇっ!?」
 さらに狼狽え悲鳴を上げた。しかし私の返事を待ちもせず、カインは手際よく剣を鞘ごと剣帯から外すと、それを両手で恭しく持ち上げる。

prev - index - next

- ナノ -