愉悦を一匙


 成り行きでブラッドリーと一緒にキッチンを出て、ふたたび上階の居住スペースへと戻る。階段の踊り場にもうけられた大きな嵌めこみ窓からは中庭の様子がよく見えた。
 黒に近い髪色の男の子と、色の濃い金髪の男の子がふたり、低い位置で箒に乗って何かやっているのが目に入る。魔法使いが箒で空を飛ぶというのは、どこの世界でも共通のルールだと思うと不思議な気分になる。箒に乗って飛ぶなんて、どう考えても荒唐無稽なことなのに。
 窓の向こうで箒にまたがる彼らの名前を、私は知らない。二十一人の魔法使いのうち、名前を知っている魔法使いは半分と少し。それで特に困ることもないのだが、まだ名前も知らない魔法使いが私を避けていることを考えると、まったく胸が痛まないわけではない。
「結局、真木さんのことがみんな大好きなんですよね」
 道すがら、私はこの世界に来てから常々思っていたことを口にした。ブラッドリーがわずかに目を細めるが、混ぜ返したりはしてこない。甘い赤色の彼の瞳が、私に続きを促している。
「真木さんのことが大事だから、真木さんを脅かしかねない私のことが怖くて嫌だっていうのは、すごく分かりやすいなと思います。もっと理不尽で身勝手な理屈だったら、私も徹底抗戦したのかもしれないけど……」
 そういうたぐいの気持ちには、私にだっておぼえはあるのだ。
「だから、それを責めるわけにはいかないでしょう」
 投げやりでも何でもない。それが私の胸のうちから取り出した、正直なところの感想だった。
 誰にだって大切な人や守りたいものの一つや二つはあるだろう。私にだって一応はある。元の世界には家族がいて、気の置けない友人だっていた。
 この世界にやってきたとき、私は何も持っていなかった。せいぜいが空になったビールひと缶だけ。だけど、だからと言って、私はまったく何も持たない人間になったつもりはない。大切なものを、すべて手放したわけではない。
 もしも魔法使いが私の元いた世界を軽んじるようなことを口にすれば、私はきっとものすごく怒ることになるだろう。同じように、家族や友人を馬鹿にされれば傷つくし、腹も立つ。
 だからこそ、私も彼らの大切なものを無下にしてはいけない。彼らが私を拒むことで大切なひとを守ろうというのなら、それはそれで仕方のないことだと思うしかない。
「まあ、そうは言ってもむかつくものはむかつきますけどね! というかめっちゃむかついてますけどね! 私だって好きでこんなとこ来たんと違うし! むしろ私のことが嫌なら追い出してくれって感じですけどね、本当に!」
 空元気だということは自分が一番よく分かっている。それでも、笑ってでもいなければやってられない。空元気でも、元気は元気に違いない。
 わははと豪快に笑って見せると、ブラッドリーがにやりと笑い、私の背中をばしんと叩いた。
「おう、言ってやれ言ってやれ。年寄りは耳が遠いからな。文句のひとつふたつ、百二百、言ったところでバレやしねえよ」
「そうですか? それでは。閉じ込めたいなら娯楽のひとつも提供せんかーい! Wi-Fi飛ばして動画サブスク加入済みタブレットのひとつも寄越さんかーい!」
「よく分かんねえよ」
「大体お茶なんぞで満足できるかってんだーい! 酒を寄越さんかーい!」
 欲望のまま文句をつらねてみたところで、そういえばもう一週間も強制的に禁酒をさせられているのだということに気が付いた。もともとそこそこの頻度で飲酒をしていたこともあり、気付いた途端に急にお酒を飲みたくなってくる。というかよくもシラフでこんな状況に耐えていたものだと、自分の思いがけない順応力に感心すらした。
 と、ブラッドリーが勢いよく私の首に手を回す。そのまま何故か、がっと強く肩を組まれた。階段に足をかけていたところだったので、うっかり階段を踏み外しそうになる。
「うわ、っと! 危な!」
 よろめく私を気にもかけず、ブラッドリーは、
「よーし、よく言った」
 と、ご機嫌に私の首をぐっと締めた。今度は「ぐぇ」と不細工な声が漏れるが、ブラッドリーはそれすら華麗に無視をした。
「そういうことなら丁度、俺も一杯二杯酒を引っかけてえところだ。俺様の仕入れた酒を分けてやるから、おまえも付き合えよ」
「げほっ、ま、まだ昼間ですけど、いいんですか?」
「昼から酒飲んで悪い道理があるか?」
「たしかに? そうかな? いや、まあ何でもいいか! 休日の昼から飲む酒って最高だし!」
「見かけによらず話が分かるじゃねえか」
 とはいえ今日は多分平日なのだが。この世界では今日は休日なのかもしれないと、私はあっさり納得した。そもそも毎日が夏休み状態の今の私は、まっとうなカレンダーの感覚をとうに失っている。
 ならず者とふたり意気揚々と肩を組んで階段を上がる私は、魔法舎に来てから多分はじめて、浮きたつような楽しい気分に満ち満ちていた。

 ◆

 三階の踊り場でブラッドリーと別れ、私は一度借りている部屋へと戻った。
 私の居室は魔法舎の三階にある客室のうちの一室だ。魔法使いたちの居住スペースとは別の、臨時の客室のようなものらしい。魔法舎には滅多に宿泊客など来ないので、私がそこを塞いでいても問題ないとのこと。客室なのに殺風景なのも、ここがほとんど使用されていないことを示しているようだ。
 自室に水差しを戻してから、私はブラッドリーの部屋がある五階の居住スペースへと向かった。ブラッドリーの部屋はもちろん、五階に足を運ぶのもはじめてだ。魔法使いたちの居住スペースになど用はないし、うかうか踏み込んで怒られたくもない。
 手ぶらで五階まで上がっていく。居住スペースの奥には物置や書庫だろうか。何か広い部屋がある。広さが分かるのは、壁の扉の感覚がそのあたりだけ大きく開いているからだ。外から魔法舎を見る機会がないので把握していなかったが、ここは結構大きな建物らしい。
 階段を上って手前の部屋は、どれも同じような扉の造りになっている。そのためぱっと見た感じでは、学校か何かの寮のようでもある。扉の間隔から部屋の広さを推察するに、私の借りている部屋とそれぞれの居室の広さは変わりなさそうだ。もっともここは魔法使いたちの巣窟。見た目と室内の広さがまったく違っても、驚くほどのことでもないのかもしれない。
 ブラッドリーの部屋はたしか、階段を上がって左手、二番目の部屋。
「左手……っと」
 三つ等間隔に並んだ扉のうち、真ん中がブラッドリーの部屋だ。ほかの扉が誰の部屋に通じているのかまでは聞いていない。聞こうというつもりもない。
 と、扉の前に立ち、ノックしようと右手をゆるく上げたところで、ふと背後で扉がばたんと閉まる音がした。つられてそちらに視線を向ければ、白のスーツにトランクを提げた銀髪の魔法使いが、私に目を留め立ち止まっている。
「あ……」
 左右で違う瞳の色は、初日に言葉を交わした騎士──カインを彷彿とさせた。だがカインとは、纏うオーラがまるで異質だ。
 彼の名前は、たしか──、そう、オーエンといっただろうか。前に私がラスティカと話していたときに、たまたま通りかかったので見たことがある。その時は一瞥だけされ無視された。彼の名前を教えてくれたのはラスティカだ。
 前回は挨拶すら無視されたが、さすがにこの距離で私の方から無視することもできない。
「ええと……こんにちは?」
 おそるおそる、私は挨拶試みる。すると意外にも、
「こんにちは」
 と、オーエンは礼儀正しく返事をしてくれた。抜け目の無さそうな瞳はほかの魔法使いと同じだが、顔にはうっすらとした笑みが浮かんでいる。その笑みに、私はかくんと拍子抜けした。好意的かはともかくとして、愛想笑いをくれるタイプだとは思ってもみなかった。
 おしゃれなトランクを提げているところからして、オーエンはこれから何処かへ出掛けるところなのだろうか。そう推察してみたものの、しかし彼はどういうわけか、その場から一歩も動くことなく私をじろじろ眺めるばかりだ。値踏みされているようで正直気分はよくないが、正面切ってやめてほしいとも言いにくい。
 たしかラスティカは、オーエンのことを北の国の魔法使いだと言っていた。ということはオーエンも、ブラッドリーと同じような不良タイプだろうか。それとも双子と同じ影で牛耳るタイプか。できればブラッドリータイプであってほしいところだ。間違ってもミスラみたいにいきなり破壊行為に及ぶようなタイプであってほしくはない、などと、オーエンの視線に晒されながらぼんやり思考する。
 と、オーエンが目の前にいるにもかかわらず、私がひとり思索にふけっていると。
「つまらない人間だね」
 まるでぶつ切りにしたようなぞんざいな言葉を、やおらオーエンは私にぶつけた。一瞬何を言われたのか理解できず、「え?」と間の抜けた返事をする。その途端オーエンがにやりと一層笑みを濃くして、すうっと一歩、私との距離を詰めた。
「えっ、なに、近」
「これじゃあオズたちじゃなくても、歓迎なんてするはずない」
 無遠慮に近づけられた顔が、美しくにっと歪められる。それが悪意に満ちた笑顔であることに、私は一拍遅れでようやく気が付いた。思わず一歩、後ずさる。
 目のまえに差し出されているのは、この魔法舎に来てから出会った魔法使いたちの中でも、おそらく屈指の美しいかんばせ。しかしそこには嗜虐的な愉楽の色が、隠そうともせずあらわになっている。
 オーエンがわずかに身体を傾けた。すらりと長身の体躯をそうして屈めると、私の顔をぐっと覗き込むような姿勢になる。こんな時でなければきっと、この距離の美形にさぞかし感謝しただろう。しかしまさかこの状況で拝んでいられるほど、能天気な性格はしていない。
「あの、オーエンさん……」
「知ってる? 賢者様はこの世界に来た最初から、誰からも待ち望まれて歓迎されていたらしいよ。人間にも、魔法使いにも、みんなに望まれていたって」
「そ、そうですか」
 会話がうまく噛み合わない。ただ話をするだけなのに、距離を詰める必要があるだろうか。おまけにオーエンは、
「おまえとは随分扱いが違うと思わない?」
 甘い口調で的確に、私が言われたくないことを口にする。悔しさなのか腹立たしさなのか、思わず握った手のひらに力がこもった。七日間伸ばしっぱなしの爪が手のひらに食い込む。つきりと感じた痛みに顔を顰めた。
オーエンが北の魔法使いの中でどんな立ち位置で、どういったタイプの魔法使いなのかは分からない。しかしひとつ確実に言えるのは、どこまでも私の存在と生命に無関心だったミスラとは、オーエンはまったく異なる態度を示しているということだ。おそらく今、オーエンの頭にあるのはどのようにして私を傷つけてやろうかということだけなのだろう。オーエンの美しい顔立ちには、徹底的に鋭く冷たい悪意が息づいている。
 顔を合わせてからの短時間、混乱した頭でさえ理解できるほど、オーエンの悪意はシンプルだ。異世界であることは一切まったく関係ない。世界共通、全銀河共通の、ありふれたたぐいの悪意。よく知った手触りの悪意、とでもいおうか。だからこそ、その悪意の破壊力は私も身をもって知っている。
 ごくりと喉を鳴らして唾を飲む。オーエンは愉しそうに、肩を揺らして笑っていた。
「ねえ、おまえがやってきてから今日まで、もう何度夜が過ぎた? 誰にも訪ねられず、誰のことも訪ねられず、ひとりで知らない世界の夜が深まるのを待つのは楽しい? おまえがそうしている間、賢者様は一体どこで何をしているのか考えたことはある?」
「……私は凶兆のしるしだそうですから。賢者様とお会いできないのは、当然の処置なんじゃないですか」
 隙を見せたら一気に畳みかけられる。慎重に、隙を見せないように、私はゆっくりと返答する。
「私にその自覚はないですが、大切な賢者様に害なす存在なのだとしたら、遠ざけられても仕方がないんじゃないですか」
「凶兆のしるし。厄災のきざし。忌まわしい異界人。ふうん。自分たちとは違う、害悪な存在──害悪じゃない生き物なんて、本当はどこにもいないくせに」
「オーエンさん……?」
 ほんの一瞬、オーエンの纏う空気が震えて揺れた。色違いの一対の瞳が、あたかも物憂げに影を落とす。しかしその理由を探るより先に、オーエンはまた意地悪な笑顔に戻ってしまった。さっと私から身を引くと、オーエンは踊るような足取りで廊下の中央を数歩歩く。すらりと長い手足が無造作に揺れ、その所作に不思議と視線を奪われる。
「いつだってこの世界は不公平なんだ。だって先にこの世界に喚ばれたってそれだけの理由で、向こうは誰からも大切にされる『賢者様』。片やおまえは誰からも顧みられない、疎まれて嫌がれるだけの人間。ねえ、腹が立つ? それとも賢者様のことが妬ましい?」
「別に、私はそんなことを思ってはいませんが」
「見え透いたきれいごとの嘘はやめろよ、白ける。先にこの世界にやってきた賢者様は、後からやってきたおまえに何をしてくれたっていうの」
「何って」
「ひとりだけ甘い蜜を吸って、おまえのことなんか少しも気にしてなんかいないよ」
 どくんと心臓が嫌な跳ね方をした。賢者が、いや、真木さんが。その顔が脳裏をよぎるとき、私の胸は不穏にざわめく。
 私は真木さんのことをこの世界に来る前から知っている。だからこと真木さんの評価にかんしては、ここで何があろうとなかろうと、容易に揺らいでしまうものではない。
 それに真木さんは、私に名前を教えてくれた。魔法使いたちを押し切ってまで、私に名前を教えてくれた。私を信じてくれた。自分の危険を、多少もかえりみることもなく。
 だけど。
「真木さん……賢者様は……」
 私のことなど、少しも覚えてなんかいなかった。私を見ても、何も思い出したりしなかった。
 その事実がこの間から、小さなとげのように胸に刺さって、ずっと取れないままでいる。

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