ひたむきな天使たち


 とはいえ、お国柄だけで個人の性格の方向性が完全に決まってしまうわけでもない。何事にも例外や事情が異なる場合はつきもので──
 私はぴたりと足を止めると、そのままくるりと振り返った。来た道を振り返ると、柱の影からそっとこちらを伺うように、パーマの赤髪が見え隠れしている。
 かくれんぼをするような年でもないだろうから、私の様子を探っているのだろう。気付かなかったことにするかどうか数秒悩み、けれど結局人恋しさも手伝って、私は彼に声を掛けた。
「ええと、私に何かご用ですか?」
「あっ、えっと……その……」
 私の方から話しかけたのに驚いたのか、柱の陰の彼はびくりと肩を跳ねさせたあと、緊張でこわばった顔で一歩、私の方へと歩み寄った。
 たしか彼の名前はクロエ、といっただろうか。頭の中で知っている魔法使いたちの名前と顔を照らし合わせ、彼の名前を思い出す。
 以前浴室を使う際、この廊下で、彼とその師匠らしいラスティカと鉢合わせしたことがある。ラスティカは優雅な物腰と何処か浮世離れしたたたずまいの魔法使いで、自分の自己紹介をしたのち、次いで弟子のクロエのことも紹介してくれた。
「クロエくん、ですよね」
 雰囲気が年下っぽかったのでくん付けで呼んでしまったが、クロエは特に気にすることもなく、ほんのわずかに表情を明るくした。微笑みはぎこちないが、不思議と嫌悪は感じない。
「そ、そう! 名前、覚えてくれてたんだ……」
「もちろん。というか私に名乗ってくれる人の方が少ないので」
 特に考えずに返事をした直後、すぐに自分がずいぶん卑屈な発言をしたということに思い至る。やってしまった。クロエはまた表情を固くして、気まずげに視線を私から逸らした。
 後悔先に立たず。クロエとてここの魔法使いの一員なのだから、これでは当て擦ったようにしか聞こえない。慌てて「ごめんなさい、変な意味じゃないんです」と続けたが、そんな言葉に大した効果があるはずもない。
 この間はじめて顔を合わせたときにも、クロエはこういう態度をとっていた。ファウストのようにあからさまに私を忌避していたり、フィガロのように物腰やわらかくも一切隙を見せないのとは違う。ただただ私にどう対応していいのか分からずに、途方に暮れているのだろう。そのことが相対する私にも分かってしまうだけに、どうにもいたたまれないような気分になる。
 私を扱いあぐねるのなら、ほかの魔法使いと同様に私のことなど避けてしまえばいいのに。まさか私をここで待っていたわけではないだろうが、わざわざ柱の陰に隠れて様子を伺うというのも、いまいち意味が分からない。それとも何か私に話でもあるのだろうか。西の魔法使いたちは私に平気で話しかけるし、彼も西の魔法使いとして、師匠たちの振る舞いに倣おうとしているとか。
 何か事情があるならばと、私は暫しクロエの前で言葉を待つ。観察するつもりではなかったが、目の前にいる以上はどうしてもクロエの容姿に目がいった。
 赤い髪に蒼い瞳。つり目の下の泣きぼくろ。所作はいかにも自信なさげだが、クロエもまた魔法使いたちの例にもれず、美しく華やかな見た目をしている。チェックのジャケットの鮮やかな色あいを、こんなにもしっくり着こなせる人間はそういないはずだ。
 と、そんなことをつらつら考えている間にも、クロエは何か視線を彷徨わせては顔をかっかと赤らめている。時々もどかしげに口を開くが、その口から私に向けて言葉が紡がれる気配はまるでない。
 これはもしかして、私が何も言わないから、彼もこの場を立ち去るきっかけを見失っているのだろうか。暫く漫然とその場に突っ立っていたが、ようやくそのことに気が付いた。柱の陰に忍んでいたのも、もしかすると普段ろくに部屋から出てこない私がほっつき歩いているのを発見し、それで監視していただけなのかもしれない。むしろ私に話しかけられたくなくて、それで隠れていた可能性すらある。
 だとしたら、今の沈黙はクロエにとって果てしなく気詰まりなものだろう。自分が要らぬ気を回したせいで、クロエに迷惑を掛けてしまったのかもしれない。そう考えて、私はこの場をひとまず切り上げることにした。
「えーと、クロエくん。どこかに行くところだったんですよね。話しかけちゃってすみませんでした」
 そのように言っておけば、クロエも立ち去りやすいだろう。本当はキッチンの場所を教えてもらいたいところだが、これ以上引き留めるつもりはなかった。
「あー……じゃ、私はこの辺で」
 と、私がクロエに背を向けそそくさと立ち去ろうとした、そのとき。
「あ、あのさっ!」
 急にクロエが大きな声で、私のことを呼び止めた。思いがけず大声を出され、私は驚き肩を跳ねさせる。驚いたはずみにうっかり水差しを取り落とすところだった。危ない。
「え? なに、クロエくん?」
 改めてクロエの顔を見上げ、私は彼の言葉を待つ。しかしクロエは今の大声で気力をすべて使い果たしたのか、それとも自分の大声にことのほか驚いているのか、何故だか一層困った顔で、途方に暮れたように私の足元を見下ろしていた。
 いや、途方に暮れられても困るのだが。立ち去ろうとしたところを引き留められた手前、今度はもう私からはどんな話も切り出しにくい。
 ふたたびクロエの言葉を待ちながら、はてさてこの状況をどうしたものかと頭を悩ませる。こういうとき、どうするのがベストなのだろう。如何せん異世界にやってきたのなどはじめてなので、異世界の魔法使い相手のうまい気の遣い方など知るべくもない。
 掛けるべき言葉を探しながらも、もういっそトイレに行きたいふりでもしてしまおうか、切羽詰まっているふりをして立ち去ってしまおうかと、私が逃げの手段を講じ始めていた、その矢先。
「何ほっつき歩いてんだ、虜囚」
 ぶっきらぼうな救いの声が、ふいに私とクロエの沈黙に割り込んできた。背後の声に振り返れば、そこにいたのは白黒の髪に室内にも関わらずモッズコートを着用した、北の国の魔法使いブラッドリーだった。
 彼はこの魔法舎では珍しく、私と何度か顔を合わせている。ムルの次くらいには見知った相手だ。もっとも、顔を合わせて自己紹介と、それから多少世間話らしきものをしただけで、まともに話をしたことがあるわけではない。彼が私をどう思っているのか、腹の底で何を考えているかまでは私には分からない。
 とはいえブラッドリーは、凶兆だの何だのということを気にすることがなさそうで、私にとってはどちらかといえば気兼ねしなくていい相手だった。ブラッドリー自体あまり周囲の魔法使いに和する風でもなさそうだし、どちらかといえば問題児のような扱いを受けているらしい。要するに、私が迷惑をかけてもあまり問題無さそうな相手ということだ。
 ブラッドリーの言葉は気詰まりな沈黙への救いではあったが、言われている内容はほとんど悪口と変わりない。
「誰が虜囚ですか。誰が」
 ためしに適当なつっこみを入れれば、
「軟禁されてんだから虜囚だろ」
 と、すぐに憎たらしい返事が返ってくる。
「それとも偽賢者の方がいいか? 異世界人」
「虜囚でいいです……。いや、虜囚もよくないんですけど」
 私からしてみればあなたたちの方が異世界人だし。
 ブラッドリーは的確に、こちらが嫌がる言葉を選んでくる。人をからかうのが絶妙にうまい。
 弁舌でこの人にかなうとも到底思えず、私はさっさと言い合いを投げてしまうことにした。ついでに「というか私、名前教えませんでしたっけ?」と尋ねておく。
 私がブラッドリーの名前を知っているのだから、こちらも向こうに名乗っているはずだ。そうでなくても私の場合、名前がすでに魔法舎中に知れ渡っていてもおかしくない。
 しかしブラッドリーは心底思い出せないとでもいうように、「聞いたか?」と首を捻った。多分忘れているのだろう。まあいいか、と早々に諦め、私はふたたび自己紹介をした。
「苗字名前です。苗字で呼んでもらえると助かります」
「なんでだよ」
「下の名前で呼ばれるのはちょっと、ブラッドリーさんとはそこまで親しくないと思うので」
 というのは冗談だが。ブラッドリーも分かっているらしく、にやりと口許をニヒルに歪め、
「ハッ、俺様も同意見だな」
 私の言葉を笑いとばした。
 こういう会話をできる相手はこの魔法舎にはいないので、ブラッドリーはそういう意味でも貴重な話し相手といえる。わざわざ相手の部屋を訪ねるほどではないのだが、個人的には廊下で出くわしたい相手ランキングの二位に彼を置いている。一位はもちろん真木さんだ。
 私と適当な遣り取りをしながらも、ブラッドリーは抜け目なく周囲を確認する。私もふと視線を周囲にめぐらせた。すると今の今まで私と気まずく向かい合っていたクロエが、何時の間にか気の抜けたような、それでいて会話に混ざっていいのか分からず戸惑っているような、分かりやすい顔で私とブラッドリーを交互に見ていた。
「仕立て屋はそこで何きょどきょどしてんだ。虜囚に恫喝でもされたか?」
「ちょっと、人聞き悪いこと言わないでください。彼はたまたま居合わせただけで……、ええと、私とは何の関係もないですよ」
 うっかりクロエが私と親しいなどと思われてはクロエも困るだろう。ブラッドリーの言葉をきっちり否定して、私はうんうん頷いた。
 明らかにやんちゃな輩感あふれるブラッドリーと比べるまでもなく、クロエは見るからに純真で善良そうな子だ。子という年でもないのだろうか? そのあたりの詳しいことは知らないが、いずれにせよ、クロエは私のせいで迷惑をかけていいタイプにはまったく見えない。
 この魔法舎において、私と親しくなったところで百害あって一利なしだということは、自分が一番よく知っている。ブラッドリーは構わないにしても、クロエがほかの魔法使いたちから要らぬ誤解を受けるのは避けたかった。
 そう考えると、ブラッドリーの登場は私とクロエどちらにとっても、渡りに船というほかない。私はにっこり微笑んで、おもねるようにブラッドリーの名を呼んだ。
「ちょうどよかった、ブラッドリーさん。世間話ついでに私にキッチンの使い方教えてもらえません? 水差しの水がなくなっちゃったんで汲みにいきたくて。あと、備品のコップを自由に使っていいのかとかも分からないし」
 そもそもキッチンの場所からして私は知らなかった。ここの魔法使いたちは、必要最低限以上の情報を私に与えないようにしているとしか思えない。
 ブラッドリーはあからさまに面倒くさそうに眉間に皺を刻む。
「はあ? んなもん他のやつらに聞けよ」
「だって他の人たちに話しかけて、私のせいでその人を不幸にしたらまずいでしょ」
「なんだそれ」
「私、凶兆のしるしらしいんですよ。賢者を脅かすかもしれない、禍人」
 今度は卑屈にならぬように、つとめて淡々と口にした。クロエはやはりぎくりと肩を揺らしたが、ブラッドリーの方はといえば、
「ああ、その話か。てめえが凶兆なぁ? せいぜい落し物するとか脛をぶつけるとかその程度じゃねえのか?」
 と、さして興味も無さそうに片づける。やはりこの人はほかの魔法使いたちとは少し考え方が違うのだと、今の言葉ではっきり確信した。この際本心がどうであろうとかまわない。見た目のうえでのポーズとしてだけでも、ブラッドリーは私を重要人物として、あるいは腫物のように扱わない。そのことが、私にとっては途轍もなくありがたいことだ。
 嬉しくってゆるみかけた顔を引き締め、私はブラッドリーさんの腕をたたいた。
「ね、そういうわけなので、私にはブラッドリーさんくらいしか頼れる相手がいないんですよ」
「おい。俺様は不幸になってもいいってか」
「ブラッドリーさんは私ごとき小娘が不幸にできるような相手じゃないでしょ? 見るからに強そうだし! かっこいいし! 大物っぽい感じ!」
「しゃあねえな、キッチンの使い方教えてやるよ」
「やったー!」
 おだてに弱そうだとは思ったが、想像以上に弱かった。ここまでちょろい、もとい呆気なく話を聞いてもらえると、いっそ私のおだてに敢えて乗ってくれたのだろうかと疑いたくなってくる。キッチンに連れて行ってさえもらえるのなら、どちらだろうが別に構いはしないのだが。
 ともあれ、ブラッドリーは話がついたところで、私を置いてさっさと階下に続く階段に向け歩き出す。私はその背中を追いかけようとして、しかしはたと立ち止まり、ぽかんとしているクロエに慌てて声を掛けた。
「クロエくん、さっきは話しかけちゃってごめんなさい。あと、あんまり私に話しかけたり近づいたり方がいいと思う。あなたまで魔法使いに何か言われたり怒られたりしたら困るから」
 早口に重ねた私の言葉に、クロエは何か言おうと口を開く。しかし彼が声を発する前に、
「それじゃあね」
 と私はクロエとの会話を打ち切った。ブラッドリーが私を待ってくれる気配はないし、クロエにもしも謝られたりしたら、私の方が却って申し訳ない気持ちになるだろう。そうなることを避けるため、私はすぐに踵を返し、先を歩くブラッドリーを追いかけた。

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