尾崎さんの言っていた秋祭りとは、翌月の九月の中旬、フクロウの拠点地であるセンダギからもほど近いネヅで行われる祭りのことだった。私はあの辺りにはあまり寄り付かないので知らなかったが、聞くところによれば歴史も古く、相当に大きな催しらしい。年によっては夏祭りに引けをとらない盛り上がりのこともあるという。
 祭りの当日、昼過ぎに待ち合わせ場所であるバス停すぐの寺の門前に到着すると、尾崎さんはすでにそこで私を待っていた。開襟シャツにジャケットを羽織った尾崎さんは、すぐに私に気付いて手を振り寄ってくる。
「おお、今日は着物だ」
 開口一番に尾崎さんが言った。私の和装が物珍しいのだろう。いつも尾崎さんと会うときには久世先輩を見習い洋装を纏うことにしている。
 今日は祭りに行くので、いつもの和装で家を出てきた。私にとっては此方の方が馴染みが深く気楽だが、むろん、そんなことは口にしない。
「さすがに浴衣はもう着られませんけど、お祭りですから」
 しれっと誤魔化してみたものの、何故だか尾崎さんの視線は何かもの言いたげに私に絡んできた。どういうわけだか分からないが、それはときめきを引き起こす類のものではないらしく、私の胸は不穏にざわつくばかりだ。
「あの、尾崎さん?」
 思わず首を傾げると、尾崎さんは慌てたように笑顔を顔に貼り付けた。
「ああ、いや。せっかくの祭りなのに、こっちはいつも通りで悪いなと思って」
「いえ。尾崎さんは洋装がよくお似合いです」
 というよりも整った顔立ちと上背がある尾崎さんならば、和装だろうが洋装だろうが自在に着こなすに違いない。フクロウの制服にしても、着崩してなお様になっていた。
 私が尾崎さんのことを慕っていることはとうに知られているのだから、今更彼を褒めることには何の照れも抵抗もない。尾崎さんに限って褒められ慣れていないということもないだろう。てっきりさらりと流されるかと思い何気なく放った褒め言葉だったが、しかし尾崎さんは一層もの言いたげに眉根を寄せた。
「ううん……、なんだろうな、この先に言われた感は」
「え?」
「普通、こういうのは男から褒めるものだろ」尾崎さんが苦々しげにぼやく。「それに俺はいつも通りで、あんたは今日は着物じゃないか。どう考えても俺が褒める側、あんたが褒められる側だと思うんだけど」
「そう言われると、そうかもしれませんね」
 自分では普段通りの恰好をしているせいで、いまいちそういう意識はなかった。もっとも普段通りというのであれば、尾崎さんの洋装だって彼の普段通りの装いだ。わざわざ褒めるほどでもなかったのかもしれない。
 尾崎さんが、じっと私を見つめていた。今日は何だか、出会い頭からやけに尾崎さんの視線を感じる。好きな人から視線を送られるなんて心浮き立つ出来事だが、その視線はかつて尾崎さんが久世先輩に注いでいたものとは違うようだ。何か変なところがあるだろうかと、ただただ心が落ち着かない。
 やがて尾崎さんは、ふっと意味深に息を吐き出し言った。
「まあ、いいや。それより行こうか。はぐれないように気を付けて」
「子供じゃないですよ」
「これは失礼」
 にこりと笑って、尾崎さんが歩き出した。手を差し伸べられたりはしない。それでも私が隣に並べるよう、小さな歩幅で歩いてはくれる。今の私と尾崎さんの心の距離はちょうどそのくらいなのだろう。そう思うと満足のようなもどかしいような、何やら不思議な気持ちが心の中に広がって、胸の中で感情の灯りがあちこちちかちか瞬くのだった。

 歩き出してすぐ、出店の立ち並ぶ通りに出た。美味しそうなにおいが混ざり合い、何とも言えぬ祭りの空気が辺りに充満している。人いきれの中を漕ぐように歩いて行くと、足元を子供らが器用に駆け抜けていった。
「何から食べたい?」
 隣を歩く尾崎さんは、にこにこと辺りを見回していた。祭りが楽しいのか、瞳がいつもよりもきらめいているように見える。先ほどのもの言いたげな視線は、私の気のせいだったのかもしれない。そう思うと少しほっとした。
「これだけ色々お店が出ていると迷ってしまいますね。カルメ焼きも美味しそうだし、煎餅も……ああ、でもしょっぱいものを食べたい気もします」
「それじゃあ色々買っていって、むこうの神社の境内で食べよう」
「神社?」
「通りの先にあるんだ。というより、そもそも祭りを出してるのが神社」
 尾崎さんによればこのまま出店の並ぶ通りを進んでいけば、その神社に辿り着くとのことだった。たしかに落ち着いて買ったものを食べるにはそれが一番良さそうだ。それに神社が出店の通りの終着点だというのなら、神社に辿り着く頃には一通りすべての出店を見ることができる。
 目についた出店で食べ物を買い込みながら、尾崎さんと私は神社への一本道を歩いて行く。途中途中にある射的や輪投げに目を奪われるたび、尾崎さんが「遊びたい?」と私を冷やかす。
「腹ごしらえが済んだら、少し遊んでいくか」
「そうですね。尾崎さんは射的はお得意ですか?」
「それはその目で確かめてもらおう」
 ふっふと不敵に尾崎さんが笑った。茶化した物言いがこそばゆくて、私はそっと視線を伏せた。目元が赤くなっている気がする。折角の楽しい雰囲気に、私の恋情で水を差したくはなかった。
 やがて屋台の列が途切れ、神社の境内まで到着した。境内にもわずかに出店が出ており、普段より参詣客は多そうだ。それでも外の通りに比べればずっと静かで空いている。
 祭りついでに参詣する客のために、境内の端に床几がいくつか用意されていた。幸い空いている場所を見つけ、尾崎さんと私はそこに腰をおろす。日が翳ってきたためか、空気が冷えてぶるりと身震いした。腰の下の床几が冷たい。
「飲み物、本当にお茶でいいのか? ソーダ水でも何でも買えばいいのに」
 祭りの参加者に振る舞われていた番茶を啜りながら、尾崎さんが不思議そうに呟いた。冷たい飲み物はもちろん、秋なので甘酒や燗酒も販売されている。私は未成年なので酒の類は飲めないが、それでも尾崎さんは折角の祭りなのにわざわざ番茶で済ませなくても、と思ったのだろう。
「いいんです、お茶美味しいですし」
「ふうん……」
 本当のことを言えば、あまり甘い飲み物は好きではない。尾崎さんとフラマンローズで食事をするときには久世先輩を真似てミルクセーキを注文するが、わざわざ祭りでまで甘い飲み物を買おうとは思えなかった。
 そういえば尾崎さんは今日のことを久世先輩に話しているのだろうか。隣でたこ焼きを頬張る尾崎さんを盗み見て、そんなことを考える。ここ最近は久世先輩と会うこともなかったので、私からは特に何の報告もしていない。しかし尾崎さんは毎日久世先輩と顔を合わせているわけで、そういう話をしていたとしてもおかしくはない。
 いや、尾崎さんはきっと久世先輩に私の話などしていないに違いない。何となくそう思い、浮かんだばかりの疑問をすぐさま打ち消した。嫉妬心を煽ろうというのならともかくも、誰が好き好んで意中の相手にほかの女の話をするものか。むしろ尾崎さんならば、久世先輩にだけは何としても私とのことを知られたくないと思っていてもおかしくない。そしてそれは、けして私が咎めるような筋の話ではない。
 私は尾崎さんの見合い相手ではあるけれど、ただ見合い相手に過ぎないのだ。
 そんなことを、番茶を飲みながら考えるともなく考えていた、その時。
 ふいにぽつりと、小さな雫が天から一粒私の手の上に落ちてきた。空を仰げばすぐさまふた粒、三粒と続けざまに雫が降ってくる。
「あら、雨」
「うわ、本当だ。申し訳ないが少し軒先を貸してもらうか」
 尾崎さんが立ち上がり、私もそれに続いた。ちょうどそばに舞殿があったので、その軒下に身を寄せる。雨はすぐに本降りになり、砂利の地面を瞬く間に濃灰色へと染めた。参詣客が何人か、私たちと同じように社殿の軒下へと避難していくのが見えた。舞殿には私と尾崎さんしかいない。
 食べ物はすべて尾崎さんが持ってくれている。私は番茶の椀くらいしか持っていなかった。その椀が手の中で冷えていくのを感じながら、ぼんやり視線を雨粒へと投げる。
「通り雨でしょうか。傘がないから長く降られるとちょっと困りますね」
「そうだな」
「ああ、でも向こうの空は明るいですよ。すぐに止みそう」
「ああ、うん」
「……尾崎さん?」
 尾崎さんにしては珍しく、生返事が立て続けに返ってきた。不思議に思って尾崎さんの顔に視線を向け、はっとした。
 相手を射貫くような尾崎さんのその瞳が、じっとまっすぐ私だけに向けられていた。
「あのさ……ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
 うるさいくらいの雨音に包まれてなお、尾崎さんの声ははっきりと軒下に響いていた。胸が不穏に鼓動を打つ。確証は何もなかったが、良くない話の気配がした。
 果たして、尾崎さんは言った。
「もしかして名前、俺に嘘ついてないか」
「え」
「大きな嘘、というわけじゃなくてさ……いや、違うか。嘘というか、無理をしてないか、というのが正しいのかもしれないけど」
 どくどくと、心臓が嫌な速まり方をした。
 指の先まで血が通っていないような、そんな嫌な冷えを感じていた。
 嘘というか、無理をしてないか──と。尾崎さんは今、私に向けてそう言った。それはつまり、私の立ち居振る舞いの中に尾崎さんが私らしくない、無理をしている姿を見出したということだ。
 眼裏にふと、久世先輩の可憐な笑顔が過ぎっていく。胸がすっと冷え渡り、私は反射的に笑顔を取り繕っていた。
「どうしたんですか、尾崎さん。もしかして私の振る舞いを見てそう思われたのですか? たしかに、まったく素のままというわけにはいきませんよ。だって好きな人の前ですもの、多少背伸びをしたりはします。それに尾崎さんは私よりも年上ですし──」
「そうじゃなくて、ミルクセーキとか」
 今度こそ、はっきりと笑顔が強張ったのが自分でも分かった。ぁ、と喉から絞められたような声が漏れる。
「本当は、好きじゃないんじゃないかなって思ってた。無理して飲んでるのかと、思ったんだけど──俺の勘違い?」
「そんな、ことは」
「久世が好きだから──だから無理して好きなふりをしてないか?」
「……っ!」
 ばれている──瞬時にそう思った。
 尾崎さんにはすべて、気付かれている。私の浅はかな見栄も、精いっぱいの虚勢も、つまらない意地も、何もかも。何もかもきっと、この人は看破している。
 足元で砂利を踏みしめる音がした。気付けば私は身を引いて、尾崎さんから距離を取ろうとしていた。まるでこのまま傍で見つめられ続けたら、ぼろが剥がれて無様を晒してしまうとでもいうように。
 尾崎さんが、何か言いかけ口を開く。やめて、何も言わないで。そう叫びたいのに、声が喉に張り付いてしまっていた。ふたたび砂利の音がする。私が下がったのか、それとも尾崎さんが踏み込んだのか──私にはもう、分からない。
「名前、俺は──」
 尾崎さんが声を発した、まさにその時。
「名前ちゃん?」
 ふいに私の名を呼ぶうつつの声がして、私ははっと我に返った。視線を巡らせ辺りを見回すと、そこには傘をさした女性がひとり、にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべて立っている。
「あ、花鶏さん!?」
 頓狂な声を上げ、私は瞠目した。そこにいたのはアタミにいるはずの平塚花鶏、その人なのだった。
 花鶏さんは驚く私に構うことなく、ゆっくりと砂利を踏みしめ歩いてくる。そうして尾崎さんと私のそばまでやって来ると、花鶏さんはまるで少女のような悪戯めいた色の瞳で尾崎さんに笑いかけた。
「あら、あなたたしか尾崎さん、だったかしら。何度かお会いしたことがありますわね。ほらあの、フラマンローズのビリヤード大会で」
「平塚先生に名前をお知りいただき光栄です。アタミにご旅行されていたと伺っていましたが」
「うふふ、旅行ね。そうなの、ついさっき戻ってきたところよ。戻りついでに祭りに顔を出したらあなたたちが見えたものだから」
 花鶏さんはそう言うと、ようやく視線を私へと向けた。その視線に、呆然としていた私はやっと現実に引き戻される。雨はいつしか随分小降りになっていた。
「それにしても、こんなところで若いふたりが雨宿り? ふふ、いいわねぇ。若いって楽しくて素敵」
「いえ、花鶏さん。私たちももう帰るところですから」
「お、おい!?」
 花鶏さんに向けた私の言葉に、尾崎さんが狼狽したのが分かった。しかし私は尾崎さんの顔を見ることもなく、急いで彼に頭を下げた。
「すみません尾崎さん、ちょっとなんだか具合が悪いような気がしてまいりましたので、申し訳ありませんが今日はこれで失礼させていただきます。花鶏さん、帰るのに付き添ってくださいませんか? 私たち、傘を持ってきていなくて」
「私はかまわないけれど、付き添いなら尾崎さんにお頼みなさいよ」
「花鶏さんっ」
 もはやなりふりは構っていられなかった。どうせ花鶏さんは大体の事情を察していて、そのうえで面白がっているのだろう。しかしここで花鶏さんに逃げられては、私はこの後どんな顔で尾崎さんと過ごせばいいのか分からない。化けの皮が剥がれた私が尾崎さんに向けられる顔などなく、今はもう一刻も早く、この場を離れたくて仕方がなかった。
 久世先輩の真似をしていない私の顔など、これ以上尾崎さんに一秒たりとも晒していたくはない。
 私の必死の祈りが通じたのか、花鶏さんは逡巡ののち溜息をひとつ吐き、そうして私の方に傘を傾けた。
「もう、この子は強情ねぇ。一度言い出したら聞かないんだから。尾崎さん、そういうわけですから今日のところは私がこの子を引き取らせていただきますわ。また今度、改めてお話しましょう」
「いや、あの──」
「すみません、失礼いたします、尾崎さん」
 素早く花鶏さんの傘の下に入り、私はまた頭を下げた。一瞬尾崎さんの手が私の腕を追いかけ掴まえようとする。しかしその手も、私の腕を掴まえることなくすぐに引っ込んだ。視界の端にうつったその手の動きに、私は身勝手な落胆を覚える。そんな自分に嫌気がさし、私は花鶏さんを急かしてその場を後にした。

 〇

 往来でタクシーを拾うなり、花鶏さんはそれまでずっと閉じていた口をすぐに開いた。
「まったく、やっと帝都に戻ってきた叔母にあんな無礼な振る舞いをさせて、あなた一体どういうつもりなの?」
「……すみません、花鶏さん」
「尾崎さんびっくりされていたじゃないの。まったく、まあ男の人のひとりやふたり、振り回してこそ立派な女とも言えるのだけれど」
 溜息を吐き、花鶏さんは私の目元を指の先でそっと拭った。
 神社からタクシーに乗り込むまでは花鶏さんと相合傘をしてきたから、おかげで肩がわずかに塗れた程度で済んでいる。その前に多少雨に降られてはいるものの、タクシーで乗車拒否されるほどずぶ濡れになったわけでもない。
 それでも、顔はぐしゃぐしゃに濡れていた。花鶏さんの細い指先では拭いきれないほどの涙が、目元で盛り上がっては滲む間もなくどんどん頬に流れてくる。けれど自分で涙を拭ってしまえば、泣いていることをことさら主張しているようで嫌だった。だから歩いている間中、ずっと涙が流れるのに任せ続けてきた。傘に隠れていたおかげで、通りすがりの人たちの視線を感じることもなかった。そもそも雨のせいで、人通りはずいぶん少なくなっている。
「一度私の家に寄ってから家にお帰りなさい。その恰好じゃ、あなたのご両親が心配するわよ」
 花鶏さんの優しさが沁みる。私は無言でうなずいて、あとはずっとぼやけた視界で、膝の上の握った手の甲だけを眺めていた。

第七話・手折るまでもない花




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