episode 8

 食事を終えてデザートまでしっかり食べて、それからファミレスを出た。当然だけれど自分が飲食した分は自分で支払う。影山のためにここまで来ているにも関わらず、礼らしい礼はプリント類の入ったクリアファイルを手渡したときの「サンキュ」のみだった。本当になんでこれでモテるんだろう。甚だ疑問である。

 そんなことを考えつつ。
 影山と並んで夜道を歩きながら、私は相変わらず受験のことに頭を悩ませていた。隣で自転車を引く影山は私の話を聞いていないだろうけれど、それはいつものことなので特に気にならない。それよりも選択授業の話に端を発した受験についての話題、色々と悩ましいことが重なっているのを思い出して気が重くなる。ついでに家に向かう足取りも重くなる。

「私はどうしようかなあ……」
 長く溜息を吐き出すと、影山が胡乱な目をこちらに向けた。スポーツ推薦である程度進路のめどがついている影山とは違い、私は今のところまったく強みのない状態だ。まあ日本中のほとんどの高校生はそういう状態で受験をするのだろうし、だからこそ一生懸命受験勉強をするのだろうけれど──しかしやはりというか何というか、目の前でこうも進路に対する悩みのない様を見せつけられると、どうにも自分が頼りなく思えて仕方がない。
「つっても名字は志望校決めてんだろ」
「決めてるけど、親と意見割れてる」
「なんで」
「東京の大学行きたいって言ったら反対された」
 再び溜息を吐く。そう、問題は私の学力云々だけではない。ともすれば、自分の努力次第でどうにかなる余地のある学力より、もっと厄介なハードルが私の前には用意されていた。

 うちは両親とも県内からほとんど出たことのない保守的なタイプだ。地元で生まれ、地元で育ち、地元の学校を出て地元の企業に就職した。そしてそれは彼らにとってそこそこに満足度の高い人生だったのだろう。親を見ているとそのことはこどもなりに何となく理解ができた。もちろん何不自由ない、苦労のない満ち足りた生活というわけではないのだろうけれど──それでも、大きな問題なく娘を大学に入れるだけの余裕があるのだから、十分以上の人生なのだろう。
 そんな自分たちの人生という経験がある以上、彼ら──私の両親は娘を東京に出すなんてとんでもないと思っている。東京の大学に進学するとなると親からの経済的な支援は不可欠なので、いくらなんでも勝手に志望校を決めるという訳にもいかず親との話し合いが続いていた。
 話し合いとはいっても県外に出したくない親と県外に出たい娘、話し合いは平行線のままかれこれ三か月になる。成績が上がらない以上、今のままでは私に分が悪い状態だ。

 そんなことを滔々と説明する。影山は暫くへえとかふうんとか言いながら聞いていたけれど、私が一通り話し終えると一言、
「なんで東京なんだよ」
 と尋ねた。そういえば東京に行きたいという話はしても、何故そう思っているのかについては一切触れていなかった。影山はそんなことに興味はないだろうからと端折ったのだけれど──
「まあ一人暮らししたいっていうのもあるにはあるから、それだけで言えば本当は東京じゃなくてもいいんだけど。でも一番はその先生の授業を受けたいって先生がいる大学が東京にあるっていうのが大きいかな」
 なんとなく気恥ずかしく思いながら、私はそう説明した。

 高校二年の今、将来のことなんて特に何か考えているわけではない。影山のように明確にやりたいことがあるわけではないし、大学に進学するのだって『そういうものだから』という意識が強い。
 それでも、どうせ通うのならば少しでも興味がある分野、面白いと思える学問を学べる学部に行きたかった。宮城県内には少なくともそういう大学はない。どのみち実家を出るのなら、一番行きたい学校に行きたい。
「──なんてね、まだ親以外には誰にも言ってないんだけどね。何せ恥ずかしくて」
 てへへ、と首の後ろを掻いて私は笑った。影山がきょとんとした顔で私を見る。
「恥ずかしいって何がだよ」
「なんか夢とか将来のこととか語るのって、むやみやたらと恥ずかしくない? こそばゆいというか何というかさ」
「……そうか? 分かんねえ」
「影山にはその感覚分からないかもね。だから私も、影山には話せるのかもしれないけど」
 そう言うと影山はまた「よく分かんねえな」と呟いた。

 とぼとぼと歩きながら、今まさに自分が言ったこと──影山相手にならば将来のことも話せるということをぼんやり考える。仲のいい女子の友達は何人かいる。お昼ご飯を食べたりとか移動教室だとか放課後の時間だとか──日夜部活で汗を流し忙しくしている影山相手より、女子の友達と一緒に過ごす時間の方が断然多い。
 それでも、その子たちに話せないことを影山にならば話せるということはこれまでにも時折あった。その逆はないのに、不思議なことだと思う。

 思うに──影山は話を聞くのに向いているんだと思う。というか、話を聞いてもらうのに影山が丁度いいというべきか。バレーのことでもない限り、影山が声高に自分の意見を主張してくることはあまりない。不要なアドバイスもしてこないし、過剰な共感もしていない。言ってみればぬいぐるみに話しかけているのと大差ないのだ。
 その上、人のことを意味もなく馬鹿にしたりしない。自分が努力を怠らないから、努力している人間を哂わない。自分が目標をもってバレーをやっているから、将来のことや夢のことを語ってもおかしいと思わない。
 今の私にとって、影山はこれ以上ない話相手だった。私が影山に何かを返せているかは分からないけれど──少なくとも影山は私にとってかけがえない友人である。

「親の説得、うまくいくといいな」
 ぽつりと影山が言った。影山の横顔を見る。特に何を思った風でもなく、いつもと変わりない何を考えているのか分からないぼんやりした表情だ。影山にとっては今の言葉もてらいのない本音なのだろう。それが嬉しくて、私はにんまりと笑った。
「ありがと。まあその前に受験だけどね」
「だな」

 気が付けば随分とうちの近所まで来ていた。並んで歩いているはずなのに、相変わらず私と影山の歩幅は合わない。重い荷物をかごに入れているにも関わらず早足な影山に、私はせかせかと足を動かしながらついていった。もっとゆっくり歩いてくれと、そう言えば影山は歩幅を合わせてくれるのだろう。けれど、何せ一番最初に私の方から合わせてしまったために今更言い出すのも忍びない。慣れてしまえばちょっとした運動だと思うこともできる。
 しかし、一年経っても横で女子が小走りしていることに気が付かないなんて、まじでなんでモテるんだろう。

 それでもこうして『遅くなったから』とうちまで送ってくれる影山は、たしかに優しい。影山の家はうちとは中学校区が違うのでけして近くはないのだ。烏野高校をはさんで反対方向、自転車でも二十分ほどはかかる。
 自分だって合宿で疲れているのに送ってくれる優しさには素直にありがたいと思う。まあ、影山に告白してくる女子たちの一体どれほどが影山のこの優しさを知っているか、という話なのだけれど。影山がモテていることと、影山がこうして優しい一面を持っていることには多分あんまり関係がない。

 と。
 黙って歩いていた影山が「そういや」と口を開いた。
「そういやお前、一組の松木って知ってるか」
「え? いや、知らないけど」
「そっか」
 私の返事に、影山は短く答える。
 私の記憶力はけして悪くはないけれど、さすがにクラスが違う、友人関係もかぶっていない男子の名前までは憶えていない。その松木とかいう男子のことも、生憎と私は知らなかった。顔を見たら分かるかもしれないけれど。

 しかし影山は「そっか」と愛想なく言ったきりそれ以上の情報を出しては来ない。そもそもいきなりどうして松木なる人物の話になったのかの説明すらなしだ。
「え、何。松木くんって誰? そんな風に話を切り上げられたら却って気になるじゃん」
「いや──休み前に松木が、お前のアドレス知りてえって言ってたんだけど、教えていいのかと思って」
「えっ」
 その言葉に、思わずちょっと大きめの声が出た。私の中で随分と長いこと埃をかぶっていた何がしかのレーダーが、今この瞬間、ブランクを感じさせないほど敏感にぴこんと反応した気がした。もちろんそんなレーダー反応など影山が気付くはずもなく、影山は淡々と続ける。
「でも知らねえやつなら教えない方がいいよな」
「あー、うん。教えないでいてくれた方が助かる、けど」
「けど?」
 影山が復唱する。けど。助かるけど。けども。けれども。
「松木くんって格好いい?」
「は?」
 私の言葉に影山は眉根を寄せて首を傾げた。けども、けれども、私は至って真剣である。

 どうにも影山はぴんときてないようだけれど、話したことのない男子が、特に用事もないであろう女子のアドレスを知りたがるというのは、その、なんというかまあ、ざっくりといえば恋愛絡みであることが多いんじゃないだろうか。統計上というか経験上というか、世間一般ではそういうこと、なんじゃなかろうか。
 こう言ってしまうと自分がさもほかのクラスの男子に思いを寄せられているみたいで面映ゆいし、誰にという訳でなくともなんとなく気恥ずかしいものがあるのだけれど、しかし可能性としてはその手の話であるというのがもっとも濃厚である──と思う。

 私がどこでその松木くんの琴線に触れたのか、それはまったく定かではないけれど、そういう事情なんじゃないだろうかと思ってしまうのも無理からぬところだ。だって私、女子高生だし。影山とつるんでいると忘れがちだけれど、女子高生は恋愛の話が好きだし。
 ここのところ影山との交際説といういわれのない巷談に辟易としていたけれど、しかしいわれがあるかないかもまだ未知であるこの手の話題は大歓迎だ。というかはっきり言って、影山ばかりモテて私はそのおまけ、ステーキの横のパセリみたいな扱いを受けるのもいい加減うんざりだった。私だってもっと華やかな女子高生生活を送りたい! 派手に浮名を流したいとまでは言わずとも、ちょっとくらい甘い美味しい思いをしたい!

 そんなわけで、今、私は必死でその松木くんなる人物のことを思い出そうとしていた。バレー部の同級生は影山以外の三人も知っている。去年も今年も影山とはクラスが一緒なので、私が知らなくて影山──私以上に交友関係が狭い影山が知っている人物となると。
「中学の同級生」
 私の思考を読んだようなタイミングで影山が言った。中学──北川第一の頃の同級生。それならば私が知らなくても無理はない。というか影山だってそんなことでもなければ碌に会話なんてしないんじゃないだろうか。この一年で私は影山のごくごく狭い交友関係のほとんどを把握するに至っているのだから。まあさすがにバレー関係者の他校生まではフォローしきれていないけれど、少なくとも松木くんは一組の男子らしいのでそこは考えなくてもいい。

 さておき、松木くんの話だった。私は再び、
「格好いい?」
 と尋ねる。松木くん情報が現在「一組」「北川第一出身」という履歴書レベルの情報しかない以上、やはり気になるのはルックスだった。
 私の勘違いでなければ、松木くんは私のアドレスを入手するために影山に接触してくるくらいなので、そこそこに好意を持たれている、あるいは持たれかけているということになる。何となく気が大きくなって、ルックスのことを気にしてみたりもする。

 私の質問に、影山は特に考えたりすることもなく、
「普通じゃねえの」
 と言った。まだ恋愛絡みの話であると察していないようで、旧友の色恋を応援しようという気配は微塵も感じられない。少しでも事情を察して橋渡しをする気があればもう少し気合の入った松木くんのプレゼンをするだろう。
 影山に『普通』と評された松木くんの顔を想像してみる。普通。実際のところ、そんなものは情報とは呼べないような──あってないような情報だった。
 そもそも『普通』と評しているのが影山なのだ。影山にとっての『普通』がどの程度のレンジを持っているのかすら不明である。
「影山基準の普通って分っかんないなー。人気女優さんでも『みんな同じ顔に見える』とか言うし、あんまり審美眼が鋭いとは思えないしなー」
「何の話だよ?」
「うーん、松木くんかー。松木くん、松木くんねえ……だめだ、ちょっと気になり始めたな。顔写真ないの?」
「ねえけど、だから何の話だよ」
「いや、うん。何でもない。とりあえずアドレスはまだ教えないで大丈夫。休み明けにさりげなく松木くんが誰か教えてよ。それから私たちも色々考えよう?」
「全然意味わかんねえ」
 話が見えずに苛々し始めた影山の背中を叩く。夜の中にあっても影山の白いTシャツが何故だかやけに眩しい。さっきまでの受験で悩んで塞いでいた気持ちはすっかり軽やかになっていた。

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