episode 5

 その日は夕方から影山との用事があったので、昼過ぎに家を出た私はまっすぐに学校へと向かった。
 ゴールデンウィークの最終日だというのに、一体どうして私が学校なんかに行かなければならないのかと言われれば──合宿のためにゴールデンウィークの間に一日だけあった平日出校日を休んだ影山のため、影山に頼まれてかわりに受け取っておいたプリント類一式を、私が学校に忘れてきていたからなのだった。半分は自分のせい、半分は影山のせいである、と自分の非の比率を極限まで下げ、私はぷんぷんしながら通学路を歩く。

 そも、私がなぜ影山の面倒を見なければならないのかというと、実際のところ──当の私にも皆目理解不能である。
 去年のちょうど今頃、私と影山──当時は影山くんと呼んでいたけれど、名前を呼ぶたびに影山のことを『くん』付けするのも煩わしくなるくらい、去年のゴールデンウィーク以降、私と影山は急速に親しくなっていった。
 折しも当時の私は、高校に入学直後から仲良くしていた女子グループとは何となくそりが合わないと思い始めていたし、影山も影山でクラスで若干浮いていた。ゴールデンウィークを期に急速に親しくなった私たちはそれからずるずると一緒にいる時間を増やし、そして今に至っている。
 もちろん一年の間に私は元のグループより親しみやすい女子の友達ができたし、影山にも男子の友達ができた。とはいえ、それはそれ、これはこれ、というやつだ。私は影山と仲が良くて、影山は私と仲がいい。部活一辺倒で学業や学校生活がおろそかになりがちな影山の尻拭いはいつの間にやら私に一任されており、二年になって進級した今も、影山とは同じクラスの縁でそういうことを頼まれることが多かった。

 そんなわけで、休み中にもかかわらず学校までやってきた私は、無事に教室で影山の分のプリントを回収し、すぐさま教室を後にした。まったく、世話の焼ける友人である。

 休み中であろうとどこの部も部活はあるようで、遠くから吹奏楽部の金管楽器が鳴っているのが聴こえる。一年のときには私も部活に入っていたけれど、それも一年の終わりに色々と思うところがあって退部してしまった。だからこういう、きらきらとした音はなんだか眩しく思えてしまう。
 そんなことを思いながら私服に上靴という何とも間の抜けた格好で廊下を歩いていると。

「あれ、名前先輩」
 ふいに背後から私を呼ぶ声がした。くるりと振り返る。
 そこには中学時代の後輩が、黄色いきんちゃく袋片手ににこにこと立っていた。
「久し振りですねえ」
 と、彼女は言う。
 中学時代に私が所属していた部活の、一学年下の後輩。私は後輩と仲良くするよりも先輩に懐くタイプだったし、この後輩とも特別に親しくしていたわけではなかった。加えて私は私で中学までやっていた部活を高校入学を期にすっぱりやめていたので、彼女が烏野に入学していたことすら、今の今まで知らなかった。
 私が知る二年前の彼女と同様に練習着を着た彼女と久し振りに顔を合わせ、少しだけ驚いた。彼女の方は特に驚いた様子もないので、きっと私が烏野にいることを知っていたのだろう。

 久し振りの再会にはてさて何を言うべきかと口を開きあぐねていると、先に彼女の方から話し始めてくれた。
「先輩何してるんですか、こんなところで」
 再会の挨拶もそこそこにそう問われ、私もそれに乗る。
「いやー、ちょっと忘れ物を取りにね。そっちこそ、どうしたの?」
「私ですか? 私も先輩と似たようなものです」
「忘れ物?」
「はい。実はゴールデンウィーク前に教室に弁当箱を忘れたことを思い出したので、部活の休憩中にそれを取りに来たところで」
「エッ、汚っ!」
 思わず叫んで距離をとった。
 ゴールデンウィーク前っていつだよ。もしかして一週間前の話か。
 後輩は何故だか照れたように笑って、きんちゃく袋をこちらに差し出してきた。褒めてないし臭い。いくら今年の春が比較的気温が低いとはいえ、さすがにそう何日も放置したお弁当箱を近づけるのはやめてほしかった。というかもういっそ、そんなお弁当箱は捨てた方が良い。絶対においがついてるし。洗ってもとれないだろうし。

 思い返してみれば、たしかにこの後輩はそういうよく分からないタイプの子だったかもしれない。飄々としているというか、良くも悪くも軽いというか。私を含め先輩を熱心に慕う後輩が多いなか、この後輩は多少異彩を放っていた。だから私も、あんまり近づかないようにしていたのだ。
 一週間放置弁当には正直本気で引いている私だったけれど、しかし彼女は特に気にした風もなく、すっと足を伸ばして私の隣に並んだ。それからのんびりと歩き始める。さっき自分で部活の休憩中と言っていたけれど、随分と呑気なものだ。

「そういえば」
 と。
 後輩はふと思い出したように言う。廊下の窓からは高い青空が見える。
「名前先輩って、バレー部の影山って先輩と仲がいいんでしたっけ?」
「え?」
 思いがけないタイミングで思いがけない話題を出され、返答に窮した。

 この食えない後輩が私と一緒に歩き始めた時点で何かしらの話があるのだろうかとは察していたけれど──しかしそれは中学時代の思い出話だとか、てっきりそういう話題だとばかり思っていた。私が中学を卒業して以来なので二年ぶりだ。普通はそういう昔話が盛り上がるだろう。
 けれどこの後輩は、そういう世間一般の規格におさまらないらしい。いきなり影山の名前を出され、正直面食らった。そして思う。私とこの子は高校に入ってから一切連絡をとっていなかったのだけれど、果たしてどこから私と影山がつるんでいるというような情報を得たのだろう。

 そんな私の疑問などお見通しだとでも言わんばかりに、後輩はさらりと言った。
「先輩はともかく、影山さんは有名人ですもん。私の耳にも入ってきますよ。私はこれでも情報通なんです」
 なるほど、と膝を打った。言いぐさは後輩とは思えないひどいものだけれど、言われてみればたしかに、影山は今となってはこの烏野高校では押しも押されもせぬ有名人である。昨年の男子バレー部の試合成績は平凡な公立高校としてはかなり華々しいものだった。むべなるかな、という感じである。

 昨年の今頃、知り合ったばかりの影山が「今年のバレー部は強い」というようなことを言っていたのを、その時の私は話半分に聞いていた。そうは言ってもよくある「今年の目標は全国大会だ」みたいなノリの話なのだろうと思っていたのだ。けれど、蓋を開けてみれば冬の大会では全国大会進出、そしてそこでも立派に成績を残した。紛れもなく強豪にほかならない。
 その結果、男子バレー部はにわかに注目を集めることとなった。とりわけ影山はひときわ有名人になった。何せ、全国ユースに召集されている。私たち一般人とは格が違う。

 そんな諸般の事情を踏まえつつ──
「まあ、仲はいいかな」
 現在校内一の有名人といっても差し支えないだろう友人の姿を頭の中に思い浮かべ、しかしあくまでも控えめに、私は言った。
「二年連続でクラスも一緒だし、まあ、それなりには」
「へえ、それなりに」
「そうそう、それなりに」
 二年生に進級してからのこの一か月にあった様々な出来事を思い出す。それはとてもじゃないけれど面白おかしく愉快な出来事とは言い難かった。人のうわさは七十五日というけれど、今年度が始まってまだ三十日ほどしか経っていないのだ。噂が風化するまでにはまだいましばらく時間を要するだろう。私は慎重に慎重を重ねて言う──けれど。
「でも、付き合ってるって聞きましたけど」
 ほうら、来た。思わず心の中でそんなことを呟いて、私は溜息をついた。

 高校一年の冬あたりから、私と影山の『付き合っている説』は私の周りでも割とよく聞かれるようになった。正確に言えば夏前あたりからすでにそういう話はあったそうなのだけれど、何せ私も影山もそういう噂好きなタイプとはあまり縁がないので、噂はあれども私たちの耳までは届いてこなかったのだ。
 それが、三学期になった頃から噂は一層加速した。その理由は明白である。バレー部が全国大会で華々しい成果を残したから。そして影山が有名人になったから──だ。

 言わずと知れたことではあるけれど、影山飛雄は頭が悪い。というより、勉強ができない。しかしながら運動は全国大会出場チームの中でトップレベルであり、おまけに顔がいい。そう、影山は顔がいいのだ。そうなってくると勉強ができないくらいのことはギャップ萌えにしかならないわけで、おかげでここ数か月、校内での影山人気は日に日にヒートアップしていた。
 そんな影山フィーバーの状態のまま迎えた新年度。入学して早々に影山の噂を聞いた一年女子からしてみれば、スーパースターと噂の影山先輩の隣にしばしば出没する、あのぱっとしない女は誰だということになるのも仕方のないことだ。遅かれ早かれ昨年から続いている私と影山の交際説までたどり着く──というのが、どうやら今年の一年生の中ではありがちなルートのようだった。

 おまけに、影山にときめくなどという奇特でミーハーな女子たちだ。彼女たちは往々にして好奇心が旺盛なようで、噂のエビデンスを求めて遠路はるばる当事者の私のもとまでやってくる。一年の終わりに部活を辞めた私には今年の一年生の知り合いなどいないわけで、そうなるとそれは文字通りの襲撃である。
 新年度になってからの一か月で、私はすでに後輩女子たちからの襲撃に四回遭遇していた。そしてそのたび、影山との関係を問いただされる。最初は笑顔で対応していたけれど、いい加減ちょっと面倒になってきたころだった。

 見ず知らずの後輩に襲撃されるのも厄介だけれど、ちょっとは知った仲の相手に影山とのことを聞かれるというのも、それはそれで面倒だ──とひっそり思う。それでも溜息をついたりしなかったのは、ひとえに久し振りに再会した後輩への気遣いに他ならない。
 先ほど同様、慎重に言葉を選びながら私は言う。
「付き合ってるなんて根も葉もない噂だよ。たしかに、私と影山はそれなりっていうかまあまあ仲がいいけど、仲がいいイコール付き合ってるは、ちょっと話が飛躍しすぎでしょ」
 男女の友情のありやなしやについては度々話題になる永遠の議題であるけれど──少なくとも私と影山の間には友情以外の感情は一切生じていない。それだけははっきりと断言できた。

 私は影山のバレーに一途なところを友達として尊敬こそすれ、そんな人間を恋人にしたいと思うほどマゾヒストではない。何が悲しくて自分のことを一番に大切にしてくれないと分かっている相手のことなんか好きにならなければならないのか。
 どうせ誰かを好きになるのならばもっと、紳士的で私のことを大切にしてくれる愛情深い人を好きになりたいというのが女としての私の素直な願望だ。間違っても遊ぶ約束の三分前に「市の体育館借りれることになったらしいから今日は無理」といきなりドタキャンするようなやつのことではない。

 そんなことを滔々と説明すると、後輩は「ははあ」と相槌を打って、それから顎に手をあてた。妙に芝居がかったその仕草に、少しだけ心がざわつく。後輩は言う。
「そういうものなんですか。いやー、意外ですね。そうは言っても私はてっきり、付き合うところまでは至らなくても多少はそういう、好きとか嫌いとか──そういう愛憎もつれた関係なのかと思ってました」
「好きはともかく嫌いなのに友達でいる意味はないでしょ……」
 いや、別に影山のことは好きでもないのだけれど。いやいや、好きでもないと言うと語弊がある。恋愛対象として好きではないというだけで、私は基本的に影山のことをかなり好きでいる。けれどそれを言い出すとまた話が厄介な方に拗れそうな気がしたので黙っておいた。愛憎はもつれてない。

 これ以上何か言うと藪蛇になりそうだったので、私はそこで話を畳むことにした。
「ともかく、私と影山のことで何か『仲がいい』以外の話を聞いたとしたらそれはほぼ間違いなくガセネタだから。分かった?」
 きっぱりとそう言い切ると、後輩は腐臭を漂わせるきんちゃく袋をぶんぶん振り子のように振り回しながら、にやにやと頷いた。
「分かりましたけど──けど最後にひとつだけ。じゃあ、先輩は私がもし、もしも影山先輩のことが好きで告白したいって言っても、それでも止めないんですか?」
「止める道理がまったくない」
「……なるほど」
 それに影山がその告白に応えるとは、毛頭思えないし。誰かが誰かを好きになったり好意を伝えることは私には一切関係のないことだし。

 手に持ったプリント入りのクリアファイルをかばんにおさめながら、私たちはのんびり行く。そろそろ昇降口だった。後輩とはここで別れることになる。
「それじゃあ私は帰るね」
「ところで先輩、今日部活が終わったら久し振りにどっかでご飯でも食べませんか? 旧交を温めましょうよ」
 今まさに帰ろうとしている私に、後輩はそんな提案をしてくる。しかし私は努めて申し訳なさそうな声で返事をした。
「あー、ごめん。夜は先約があるんだ」
「へえ。友達ですか? あ、もしかして彼氏とか?」
「いや、まさか。私に彼氏なんかいるわけないじゃん」
 そう言って。私はへらりと笑った。

「ただの影山だよ」
「……ふうん」
 それはまた、めちゃくちゃな話ですねえと。
 後輩は呆れたように言った。

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