episode 4

 そろそろ出ようかと言うタイミングを逃したなと気が付いたのは、時計の針が午後の六時半を回った頃だった。夕飯前の中途半端な時間に甘くてずっしりしたものを飲んでしまったせいでお腹もすいていないし、なんとなく店を出にくい空気がある。影山くんが何を思っているのかは分からないけれど、彼も大体同じようなものだろう。終わり時を見つけるのがうまくないふたりだったらしい。
「そういえば、影山くん」
 と。
 出ようか、と言えばいいものを、何となく会話の糸口を探してしまう。影山くんは空になったカップを手の中で弄びながら、視線だけで返事を寄越した。
「影山くんが休み時間のたびにどこかいっちゃの、あれ、どこにいってるの?」
「ああ、バレーやってる」
「え、お昼まで?」
「一年にひとり、へったくそがいんだよ。そいつの練習に付き合ってんだ」
 影山くんだって一年なのに、随分な言い様だった。

 バレー部の一年には同じ中学から進学した生徒はいない。下手くそって誰だろうと考えてみるものの、入学して一か月しか経っていないのに見当がつけられるはずもなかった。影山くんがバレー部だってことすら今さっき知ったばかりだ。
「影山くんって面倒見いいんだ。なんか、意外」
「別に、そういうわけでもねえけど」
「でも練習見てあげてるんでしょ? だったらやっぱり面倒見いいよ」
 そう言って褒めると、影山くんは何故か変なものを飲みこんだような顔をした。強い中学でレギュラーをしていたくらいなのだから褒められ慣れているのだと思っていたけれど、もしかしたらそういうわけでもないのかな、とその表情を見て思う。ストイックで褒めたり馴れ合ったりしないような風潮の部だったのかもしれない。

 バレーの話をするときにはあんなにも熱心なのに、影山くん自身のことに話が及ぶと途端に無頓着だったり、思いがけないリアクションが返ってくる。孤高というわけではないみたいだから、単純に人と人とのコミュニケーションがあんまり得意じゃないのだろうか。同級生に対して『コミュニケーションが得意ではなさそう』なんて感想を抱くのは失礼な話かもしれないけれど、でも、やっぱりそういう印象だ。
 はじめに抱いていた近づきがたいというのは、私、あるいは私たちが勝手に作り上げたイメージだったのかもしれない。

「影山くん、思ってたイメージとちょっと違ったかも」
 そう伝えると、影山くんは少しだけ考えるような素振りをした。それから、ぼそりと言う。
「俺も」
「え?」
「俺も、名字思ってたのと違った」
 今度ははっきりした声音だった。思いがけずちゃんとした返事が返ってきたので、うっかり面食らう。また「そうか?」とかそんな感じの返事が返ってくるとばかり思っていた。
「というか『思ってたの』って……影山くん私のこと覚えてなかったじゃん」
「そ、それは名字が制服着てねえから」
「ああ、なるほど。そういうこと」
 私の名前を憶えていなかったのは事実だけれど、別に私を認識していないわけではなかったらしい。ほっとする。
 たしかに学校でしか顔を合わせたことがない相手の私服姿というのは印象ががらりと変わる。私の私服はあまり派手な方ではないけれど、むしろ制服のスカートを短くしたり周りの子に合わせている分、私服のぱっとしない私は学校での姿と結びつきにくくても仕方がないことだった。

 別に学校での私が無理をしているとか、まるきり贋物というわけではないけれど──それでも、私服に比べればまあ、ちょっとは背伸びもしている。それに今は「ちょっとそこまで」の格好だ。よそ行きの気合いが入った私服でもない。

 今更ながら自分の私服が気にかかり始めたところで。
「影山くんは私のことどんなやつだと思ってたの?」
 気になっていたことを尋ねると、
「もっとうるせえやつかと思ってた」
 と簡潔な返事が返ってきた。影山くんがオブラートというものを知らない直球勝負の人であるということはここまでの遣り取りで何となく察しているものの、それだけに彼からの『うるさい』は地味に傷つく。悪気はなくても人を傷つけることはできるんだぞということを説明したいけれど、そもそもうるさくしているのはそっちだと言われてしまえば返す言葉もない。
「そんなに大きい声で騒いでるつもりはないんだけど」
 せめてもの言い訳を弱弱しく発する。声に覇気がないので言い返しているというほどのものにもなっていない。

 ちょうど店員さんが試飲のコーヒーを小さなカップで持ってきてくれたのでそれを受け取った。店員さんがテーブルを離れたのを見計らって、影山くんが私の言い訳に首を傾げた。
「そうか? ああ、でもそうかもな。うるせえのは名字じゃなくて、周りの女子かもしんねえ」
「それもそれで……」
 うるさい一団だと認識されているのも嫌ではある。それでも、私個人をうるさいと言われるよりは数段ましだった。

 しょんぼりと項垂れる。そうか、私は影山くんからはそういう風に見えていたのか。中学時代はクラスのヒエラルキーでちょうど真ん中あたりにいたけれど、中途半端に高校デビューじみたことをしてしまったせいで人に迷惑をかけていたのかもしれないと気付き、ふつうにへこんだ。いくら名字ではなかったかもしれないと言われても、私もその一団にいる以上はまったくの無関係というわけにはいかないだろう。

 そんなことを考えてしょげていたら、再び影山くんが私の名前を呼んだ。
「今日の方がいいぞ」
「ん?」
「教室の名字より、今日の方がこう──」
「親しみやすい?」
「それ」
 これは影山くんなりの励ましなのだろうか。そうだとしたら、さっきの『コミュニケーションが苦手そう』というのも取り消しにしなければならない。教室でほかの生徒の迷惑になっている一団の一員である私より、影山くんの方がよほど善良だ。いや、そもそもコミュニケーション云々と善良かどうかは関係ない話か。

 影山くんの励ましによって少しだけ慰められた。はああ、と重くて長い息を吐きだす。なんだか高校に入って一か月の間に胸に少しずつ蓄積されわだかまっていた何かを、ずばりと指摘されたような気分だった。
 高校は楽しい。新しい友達も、今影山くんに言われたとおりちょっとは周囲を見られていないところもあるけれど、それでもいい子たちだ。多分。一緒にいたら楽しい。多分。
「でもさ、友達付き合いってあるじゃない。まだ高一の一学期の最初だし、様子見でちょっとテンション高めにしておく時期だと思うんだよね」
「俺はしてねえ」
 私の言葉を影山くんが一刀両断した。そのあまりの潔さについつい笑ってしまう。テンションが高い影山くん──いまいち想像できないけれど、バレーについて語っているときのようなイメージだろうか。なるほど、あの熱意を常時維持している影山くんというのは、なかなかアレかもしれない。アレというのは、まあ、ちょっと鬱陶しい。
「影山くんはね。我が道をいってるから」
「でも、俺と話してるときはその『テンション高め』じゃなくねえか」
「それはほら、相手が影山くんだから」
「俺だと『テンション高め』にしねえのか」
「そうだねえ、そういう風にしてほしければ今からでもするけど」
「いや、いい」
「でしょう」
 それにテンション高めというのはあくまでも相手に合わせるための技法であって、相手が影山くんでは却って会話のテンポがかみ合わなくなってしまう。そもそも影山くん相手にテンション高めに接するメリットは何一つなかった。

 と。
 そこまで考えてふと思う。相手がどういう人なのか分からないとき、私は無意識ににこにことテンション高めで──つまりはご機嫌伺いをするような態度をとってしまうけれど、影山くんに対してそういう態度で接したことは、そういえば一度もなかった。
「そう考えると逆に影山くんってすごいよね」
 私が言うと、影山くんはまたもや頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。構わず続ける。
「だって、様子見とかしなくても最初からこうやって普通に楽しくお話できるし。私、女子とでもいきなり二人きりでお茶なんてできないよ。ハードル高くて」
 影山くんのことをコミュニケーション苦手そうとか散々にこき下ろしているけれど、別に私だってコミュニケーションお化けではない。寧ろ人見知りだってするし、慣れていない人との対話は苦手な方だ。だからこそ、テンション高めなんていう仮面をかぶってこの一か月をやり過ごしたのだから。
 それに対して、影山くんも頷く。
「まあ、俺も女子と二人でどっか行ったりとかしねえけど」
「だよね?」
 食い気味にそう言うと、影山くんはもう一度頷く。

 つまり、私と影山くんはお互いにコミュニケーション能力がそう高くない同士でありながら、普段ならばありえない「あんまり仲良くない異性とのお茶」というシチュエーションにおいて、こうやって会話の場をひとつきちんと成立させているのだった。これはなかなかすごいことじゃないだろうか。
 はっきり言って、クラスで一緒にお弁当を食べる女子の友達よりも、影山くんと一緒にフラペチーノを飲んでいるというこの奇妙な状況の方がよほど気楽だった。別にクラスの女子がどうこうという問題ではなく──多分、波長の問題。私がキラキラしたクラスメイトたちとの会話に上手に乗り切れないのも、口数の多くない影山くんとの会話をそれなりに居心地よく感じているのも。

「私、影山くんとは仲良くなれる気がするんだけど、どう思う?」
 率直に尋ねると、影山くんは少しだけ考え込んでから短く答えた。
「よく分かんねえけど。ほかの女子よりは、まあ」
「本当ー? よかったー」
 影山くんが本音しか口にできないのはもう分かっている。だから今の言葉に嘘偽りはないのだろう。
 そして、影山くんの場合、クラスでも男女問わずあまり仲良さげに誰かと話をしているところは見ていない。部活にいけばまた違うのかもしれないけれど、少なくともクラスでの影山くんはそういうタイプ──話しやすさにおいて男女にそれほど差がないような、そういう人だと思う。裏を返せば女子相手だからとか、そういう気配りをすることができないということでもあるけれど、それは今はひとまず置いておくとして。

『ほかの女子よりは話しやすい』というのは、多分、そのまま『話しやすい』だと思う。というかそう思うことに決めた。
「影山くん、連絡先交換しようよ。そういえば私影山くんの連絡先知らないし」
「いいけど、連絡するか?」
「しないかもしれないけれど、いざというときのために」
「いざというとき……」

 すっかり楽しい気分になってしまった私は、そこで勢いに乗って影山くんのメールアドレスを手に入れた。影山くんと友達になれたことが嬉しくてにやにやしてしまう。
「明日からもこうやって話しかけてもいい?」
「別にいいけど」
「用事とかなくても話しかけちゃうよ?」
「寝てたら返事できねえぞ」
「やば、めっちゃ友達だ」
「友達……まあ、そうなのか……?」
 不思議そうに首をひねる影山くんだったけれど、それでも嫌がったり否定はしなかった。それがまたしみじみと嬉しくて、思わずにやにや笑ってしまう。
 明日学校に行ったら隣の席の影山くんに話しかけよう。ゴールデンウィークの前まではろくに話したこともなかったけれど、今の私は影山くんのメールアドレスだって知っている。テンションだって、いつもの私のままでいい。親しみやすいと影山くんに言われた私でもいいのだ。

 もしかしたら変な噂が流れるかもしれないけれど、そんな噂、されたってかまわない。不思議とそう思えた。
 ああ、明日の学校が楽しみだ。

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