episode 32

「結婚」
「は」
「結婚すんぞ」
「え?」
 だしぬけどころか、急劇な展開だった。二度も繰り返されてしまったけれど、しかしそれは飛雄の口から飛び出すに相応しくないことこの上ないワードだった。けっこん。
「殺人現場に点々と落ちる」
「……血痕のことか」
「欠けて不完全な状態」
「……?」
「欠損」
「知るかよ」
 心の平静を取り戻すべく益体のない遣り取りに持ち込もうともしてみたけれど、生憎と国語が壊滅的な飛雄とではこの手の言葉遊びの遣り取りはうまくいかなかった。しかしうまくいかなくて却ってよかったのかもしれない。この遊びが飛雄とうまく続けてしまえたならば、それは飛雄が普段とは完全に違うメンタリティになっていることの証明になってしまう。先ほどの発言が、飛雄にとっての妄言、虚言であったことの証明になってしまう。
 もちろん、妄言虚言の類であったならばそれはそれで問題がないのだけれど──その場合は適当に誤魔化してさっき考えていた通りに部屋でいちゃいちゃしてどうこうしようというだけだ。その方がむしろ話は簡単だったと思う。

 ただ、そうはならなかった。
 一度は置いた箸を無意味に持ち上げ、それからまた元の場所に戻す。飛雄を見る。いたって真面目な顔をしてはいるものの、その表情に気負いなどは一切感じられなかった。つまり飛雄は今、限りなくまともな精神状態をしているということになる。私に対して揶揄ってやろうとしているとか、そういう気持ちすらなさそうだ。
「え? 待って、待って。なんでそうなるの? どことどこがどう繋がってそうなったの?」
 けっこん。漢字にすれば結婚、英語にすればmarriage。今日日こんな簡単な言葉くらい幼稚園児でも知っている。二十代半ばの飛雄だって、当然知っている。というか今日の昼間、飛雄は結婚式に出席していたのだから結婚というのが如何なるものであるのか、もしかしたら私以上に実感しているかもしれない。
 それならば尚更、どうしてそんな話になってしまったのだろう。

 混乱する私に、飛雄は簡単に言う。
「全部解決するだろ。お前の家問題も、会社問題も、なんかその他諸々も」
「荒療治すぎない!?」
 思わず叫んだ。
 つまり飛雄の言うところはこういうことだ。結婚すれば生活を共にすることになるから、どのみち今の家を出ることになる。家賃は家計費として出すことになるので、私と飛雄の単独収入よりも、それらを合わせた世帯収入から考えた方が収入に対しての住居費の割合は少なく済む。結婚すれば今のようにしゃかりきに働く必要もない。
 ついでに今までぽろぽろとこぼしていた「実家の親が色々うるさくってね」という問題も片付く、という話なのだろう。たしかに解決はする。解決はするけれど、さすがに思ってもみなかった大改革すぎる。私はまだ事情をうまく飲みこめていない。
「結婚すれば社宅入れるしな。俺は今も寮だからそんなに変わんねえけど、部屋の数増えるのはいいよな」
「そ、そういう問題!? そんなノリで話進めていいの!?」
「何か問題あるか? 社宅結構倍率高いから申し込みすんなら早めに申し込んだ方がいいらしいぞ」
 さくさくと話を進めていく飛雄に、もはやどこから突っ込んだらいいのか分からず、私は呆然とした。

 結婚。ケッコン。
 たしかにそれが有効な解決策のひとつであることを認めないわけにはいかない。今だって家が近所であるのをいいことにほとんど半同棲みたいな状態なのだし、それを思えば部屋をふたつ借りている今の状況よりも一緒に暮らした方がはるかに経済的である。結婚すれば手当とかも増えるというし。何より、私は飛雄のことが好きだ。飛雄も私のことを好きでいる。結婚における一番の問題、この人と一生一緒に居たいかという気持ちの部分は大いにクリアしている。

 けれど──そうは言っても結婚だ。人生の問題。付き合ってとか別れてとか、そんな恋人同士の事情とは話が違う。簡単にイエスと言える問題ではない。気持ちがあればいいというものでもない。
「ていうか、待って。私たしかにセクハラ課長のことは嫌だけど、それでも仕事辞める気なんて全然ないんだけど」
「知ってる。けど『やめても何とかなる』って余裕があるなら多少は違ェだろ」
「飛雄らしからぬことを……」
 私なんかよりよほど深く物事を考えている発言だった。言葉を失う私に追い打ちをかけるように飛雄が言う。
「つーかどうせ遅かれ早かれ結婚すんなら早い方がいいだろ。今更お前のことで知らないこととかねえし」
「わ、分かんないよ? 実は飛雄に言ってない借金とかあるかも……」
「あんのか!?」
「ないよ!」
「じゃあ言うなボケ!」
 そもそも結婚することが前提にある飛雄の物言いに、もはや私に反論の言葉はなかった。ただ、黙ってテーブルの上に投げ出した手元を見つめる。結婚。結婚か。そりゃあ恋人がいる二十代半ばの女子としては、その手の話を考えないわけではないけれど。でも、しかし、だって相手は飛雄なのだし、今までわざと考えないようにしてきた節があるのは否めない。

 そんな私の煮え切らない様子に、ついに飛雄はむっとした顔をして私に詰め寄った。
「お前、俺と結婚する気ねえのかよ」
「……そんなことない」
 もちろん、そんなことはない。特別に結婚願望が強いわけではないけれど、別に結婚したくないわけでもない。好きなひとと家族になりたいという夢を持つことくらいはある。好きなひと、つまりは飛雄と。
「じゃあ何に悩んでんだよ」
「だって、……付き合ってまだ一年だし」
「知り合って十年目だろうが」
「飛雄が全然そんな気配見せなかったから、今まで考えないようにしてたんだもん! 飛雄と結婚とか想像できない」
「じゃあ今考えろよ」
「そんな無茶苦茶な」
「したいかしたくねえか、そんだけだろ」
 はっきりと、きっぱりと。飛雄は言い切った。自分にはそのつもりがあるが、お前はどうなんだと、そう飛雄の眼が私に問いかけている。

 付き合って一年。正確には二年だけれど、恋人として飛雄と接していた時期はちょうどぴったり一年だ。春夏秋冬ひとまわりするだけの時間を飛雄と過ごして、その間には多少の喧嘩もした。それでも別れるなんて選択肢が頭をよぎったことは一度もない。
 バレー馬鹿で不器用で、記念日も忘れる上に人の話も大して覚えていない飛雄だけれど、私はそんな飛雄と十年も一緒にいる。誰より信用できる友人で、誰より愛おしい恋人で、家族のようだけれど家族ではないひと。いつでも私が一番に思い出すひと。多分、私のことをバレーの次くらいには思い出すひと。
 飛雄以外の人間を好きになったことなんて一度もない。飛雄より好きになれる人なんてこの先現れっこない。それだけは断言できた。掛け値なしで、私は飛雄のことだけを好きで、飛雄のことだけを愛している。

 私の人生で誰かの奥さんになるというのなら、それは飛雄以外にはありえない。飛雄と結婚なんて想像できないと言ったけれど、しかし飛雄以外と結婚する未来こそ、私には想像できない。

「できると思うし、したい」
 私は呟く。その言葉に吸い寄せられるように、飛雄が私の目をじいっと見つめた。
「飛雄と結婚したい」
「なら問題ねえな」
 にやりと笑った飛雄の顔は、プロポーズした男のものとは思えない悪戯っぽい表情で。それは高校生のころとちっとも変わりない笑顔だった。不器用で歪で、だけど飛雄らしい笑顔だった。
 そんな顔で結婚の話を語れる飛雄のことが、私はやっぱり大好きだった。

 ★

 牛丼屋の会計を済ませ、揃って店を出る。さすがにプロポーズの後だけあって牛丼屋の代金は飛雄が出してくれたけれど、よくよく考えればこれからは共同の財布となるのだから別にどちらが支払いをしたって同じことだ。
 街灯に照らされた道を歩きながら、どちらからともなく指を絡めた。タキシードを着た飛雄と、ゆったりとしたワンピースをかぶっただけの私。そんな私たちがついさっきプロポーズをした彼氏とそれを受けた彼女に見える人なんて誰もいないだろう。
 まだ何の指輪もはまっていない飛雄の左手の薬指をそっと撫でる。ここにはまる指輪を見繕いにいく日もそう遠くはないことが、私には未だに信じられない。けれど現実だ。

「ったく、お前昔からそうだよな。受験とか就職とか、そういう転機になるとすぐ狼狽える」
 呆れた声で飛雄は私を非難した。プロポーズを終えた気のゆるみから──というわけではないだろう。そもそもあのプロポーズは突発的なものであって、さっきあの状況になるまで、飛雄にはそんな思考は一ミリもなかったはずである。だからこうして飛雄が私を非難がましく責めるのは、ただのルーティンであって照れ隠しでも何でもない。
「し、仕方ないじゃん! 飛雄と違って本番に強い人間じゃないんだから!」
「本番って何だよ。大体お前、俺といてなにかに失敗したことなんかねえだろ」
「それは結果論で……これからどうなるかなんて……」
「うまくいくだろ、十年うまくやってんだから」
 自信満々に断言する飛雄に溜息が出た。簡単に『うまくやってた』などと言うけれど、私が飛雄と一緒にいることでどれほど苦労をしてきたかなんて飛雄は知るよしもない。高校時代の交際説などはまだ可愛いもので、大学時代四年間を飛雄への片思いのために棒に振ったことに気が付くほど飛雄は人の機微に聡くない。飛雄の不用心で無遠慮な振る舞いのせいで、私が何度枕を涙で濡らしたかなんて永遠に知ることはないのだろう。

 まあ、終わり良ければ総て良しと言うし。こうしてうまい具合に幸せな場所に落ち着くことができたのだから、今更過去の事をくどくどとは言うまい。結婚がゴールではないけれど、しかしひとまず第一部、完くらいは言ってもいいと思う。

「この後どうする? 私明日も仕事だから帰るけど」
「お前んちに今俺の着るものあったっけ」
「シャツとジャージ洗濯してあるよ」
「じゃあ行く」
 そうして指を絡めたまま、私たちは揃って同じ家に帰る。帰宅したら新しい家を探そうと思っていたけれどその必要もなくなったし、今は当初の予定通り明日のことは明日考えるとして、帰って飛雄といちゃいちゃしよう。

fin

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