episode 31

 ぼさぼさの髪を適当に束ね、最低限外出できるような化粧だけを施す。飛雄は今更私のすっぴんなど見慣れているけれど、しかしそれにしたって人の目というものがある。飛雄にまだかまだかとせっつかれながら身支度を整え、ようやく外に出たのは飛雄が我が家にやってきてからぴったり三十分後のことだった。

「で?」
「え?」
 飛雄からの振りに、私は素のリアクションを返す。場所はうちからほど近いところにある終日営業の牛丼屋だ。まだそう遅い時間ではないけれど、私の家を拠点にして外食をするときには大体この牛丼屋か、もう少し離れたところでちょっとおしゃれなカフェ、大衆居酒屋くらいしか選択肢がない。カフェはもう閉まっている時間だし、居酒屋まで歩いていく元気もなかったので牛丼屋である。私も特に異論はない。
 飛雄はタキシードのままで少し窮屈そうにしていたけれど、それでも一度家に戻る手間と天秤にかけて、そのまま移動することにしたらしい。大きな荷物は我が家に置いてきたので、携帯と財布だけを入れたサイドバッグを持った、まさに結婚式参列スタイルである。背が高いので一日着てよれたタキシードでもそれなりに様になって見える。おかげで私は部屋着に毛が生えた程度の格好で出てきてしまったのがますます恥ずかしい。

 大盛りの牛丼を前に、飛雄は再度「で?」と私に促した。
「話したいことあるんじゃねえのか」
「なんでそう思うの?」
「……なんとなく」
「なんとなく……」
 なんとも曖昧で根拠のない話である。思わず復唱した。なんとなく。
 しかし──真に話したいかは別として、私に飛雄に話していない悩み事があるのは事実である。飛雄はそれを察して言っているのだろうから、やはり飛雄の勘は侮れないものがある。勉強はできなくても頭はいい。飛雄はそういう人間である。

 目の前の飛雄をじいっと見つめた。話すべきか否か。私の現在置かれている状況を共有すべきか否か。
 そもそも飛雄に話さなかった理由は、飛雄にこの程度のことにかかずらっていてほしくないというのが大きなところだ。バレー以外のことで飛雄のけして大きくはない容量を圧迫するのは好ましいことではない。だから言わないという選択をした。
 しかし飛雄が、それこそ『この程度』のことで容量を圧迫されると思わないのもまた事実である。飛雄が興味や関心を抱く対象はけして多くはない。一応『恋人』である以上、私に対しては興味関心を抱いてくれているようだけれど、しかしその私が抱えている問題にまで興味を持つ可能性は限りなく低い。友達の友達になんて大して興味を持っていないのと同じように。

 だから私は、飛雄に事情を話すことにした。気が滅入るような話だけれど、話すのならば今このタイミングしかない。夜も更けてきたころの牛丼屋でしか話せない話題というのが、果たしてこの世に存在するのかは不明だけれど。

「別に何がどうって話じゃないんだ。ひとつひとつは大したことじゃなくて」
 そう前置きをして、私は会話を始める。飛雄はどうでもよさげに耳を傾けている。
「いや、本当に大した話じゃないんだよね。だから飛雄に話すまでもないと自分では思ってたんだけれども」
 しかしそれで電話越しとはいえ飛雄に八つ当たりしたことを思えば、その判断はミスだったと言うしかない。飛雄以外に相談する──捌け口にするという手もないわけではないのだろうけれど、しかし残念ながら私には飛雄以上にプライベートで親しくしている人間はいない。久し振りに会う友人に対して会社での愚痴をぶちまけるほど、私のコミュニケーション能力は破綻していない。
「たとえば家賃が値上がりして生活がきつくなるとか。値上がりっていっても一万五千円なんだけど、でも飛雄も知っての通り、結構ぎりぎりの生活をしてる私にしてみれば一万五千円は結構大きいわけ」
 こくりとひとつ、飛雄は頷く。月々一万五千円という金額が生活を圧迫する金額であるという件についてはコンセンサスを得ることができたらしい。

「あとは、まあ──異動してきた上司がセクハラまがいのこと言うとか」
「セクハラ」
 飛雄の目つきが剣呑なものとなる。慌てて私は言葉を足す。
「いや、飛雄が想像してるような露骨なのじゃないからねっ!? お触りとかないし謎接待の強要もないよ、女だからって仕事外されたりもないよ!」
「じゃあ、セクハラってどういうのだよ」
「うん、そうだね。たとえば『女は愛嬌がよければいい』とか『彼氏とうまくやってんのか』とか。余計なお世話で時代錯誤な感じのことかな。その課長に色々と言われてるのは私だけじゃなくて、先輩とかはもう少しひどいこと色々言われてたりもする。それでも我慢できないほどじゃないんだけど──」
「我慢しないで言えばよくねえか」
 と、私の話を遮って飛雄は言った。やっぱりそうくるよね、と私は内心頷く。
 オブラートというものを持ち合わせていない直情型の飛雄がそう結論を下すことはすでに予想がついていた。もちろんそれは正論であり、この上ないほどの解決策なのだろう。私の勤め先はけして大会社というわけではないけれど、内部にセクハラパワハラ対策室は用意されているし、それはきちんと機能していると聞く。今まで使う機会がなかっただけの話だ。

 しかしながら、セクハラ課長が異動してきた件についてはけしてそういう不満の噴出による異動ではないらしく、前にいた部署でも彼は今と変わりない勤務態度で部下に接していたそうだ。つまり、彼に関して対策室が動いたという事実はなく──それは彼のセクハラ被害者が対策室に訴えなかったということになる。
 実際、今の私たちも対策室にこの件を持ち込もうというつもりは今のところない。そのくらい、ギリギリ許容範囲内を攻めてくるということなのだ。まあ、一周回って悪質だともいえる。

 そういう説明をかいつまんで飛雄にして──それに、と私はひとつ接続詞をくっつけた。
 それに何より、先輩との間にある関係性というか、そういうものからくる心情的な問題もある。
「私より嫌なこと言われてる先輩が我慢してるのに、私が文句言えないよ。下っ端だもん」
「……なんか納得いかねえ」
「だからあんまり飛雄に言わないようにしてたんだけどねえ」
 思わず苦笑した。

 そんなわけで、一通りの説明を飛雄にし終えた。私は改めて飛雄の顔色を窺う。飛雄は不愉快そうな顔をしながらも、一応私の話を理解したようだった。ただ、理解はしても納得はできていないみたいで、渋い顔で牛丼の入っていたどんぶりの底を睨んでいる。なまじ眼力が強いために、傍から見れば今にも犯罪を実行するための決意を固めているようにも見える。実態は恋人である私の身を案じているだけなのだけれど、そうは見えないのが飛雄らしいところだ。
 そんな飛雄の目力に圧倒されることはない。むしろ微笑ましいと思いつつ、私はまた口を開いた。

「とにかくね、そういう小さい事の積み重ねだよ。大したことじゃない、ひとつひとつなら我慢できて、対処できることばっかり。単に時期が悪かったってだけで」
「でも、我慢できても嫌なもんは嫌なんだろ。じゃあやっぱり時期がどうとかそういう問題じゃねえだろ」
「あはは、それ影山らしいね」
「笑ってんじゃねえ。お前の問題だろうが」
 不機嫌に言った飛雄の言葉に、私は「そうだね」と静かに返事をした。
 店内はこの時間であってもある程度賑わっている。作業着を着たおじさんや、男子大学生と思しき集団。店内に女子は私くらいしかいないけれど、居心地が悪いわけではない。少なくとも、今日のほとんどの時間を費やしたベッドの上よりは精神的に健全な場所である。

 飛雄には話さないでいようと思っていた諸々の事情だったけれど、いざ話してみると、それは案外大したことではなかった。飛雄の気分を不愉快にはしてしまったけれど、それでも思っていたほどのことではない。
 私ばかり話をしていたので、飛雄がすでに牛丼を食べ終わっていると言うのに私はまだ半分以上牛丼を残している。あんまり飛雄を待たせても悪いので、私も口いっぱいに牛丼を詰め込み始めた。

 牛丼を噛みしめながら私は考える。事情を話したところで、問題は次のフェーズに移行した。すなわち、飛雄をどのように納得させるか、である。
 セクハラ課長のことは私ひとりの意志ではどうにもできないので、明日先輩に相談して今後も今のように我慢を続けるか、あるいは対策室なり何なりの外部を頼るかすることになる。家賃のことはどうしようもないので、今晩からでも新しい物件を探し始めるのがいいだろう。私の抱えた問題の対処はできる。今までできなかったのは、私の置かれている状況によって摩耗した精神ではトラブルシューティングに割くリソースがなかったというだけの話だ。飛雄に話して多少余裕が生まれた今、それらに対処することは易しい。
 しかし飛雄の機嫌を元に戻すのは一苦労だ。私がよしとしたことでも、飛雄は自分が納得しなければよしとしない。妥協というものを知らない。そういう筋の通った人間であるからこそ、飛雄は一廉の人となったのだろうけれど、日常生活においてはその特性は往々にして短所になりうる。

 さて、どうしたものか。
 やっと牛丼を食べ終え箸を置く。自分の事情で飛雄の機嫌を損ねた以上、それを直すまでが私の職務だとは思うのだけれど──一番手っ取り早いのは、今から私の部屋に戻ってなんとなくいちゃいちゃして有耶無耶にする、というところだろうか。
 そんな、あらゆる意味において不純なことを考えたところで、飛雄がだしぬけに「よし」と言った。顔を上げる。意を決した顔で飛雄が私を睨んでいた──ではなく、見つめていた。

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