episode 30

 ──ご、ごごご、強盗!?

 先ほどまでのしょんぼりモードも一瞬で吹き飛ぶような最悪のワードが脳裏をよぎった。いくらここいら一帯が治安がいい地区とはいえ、そういう話がまったくないわけではない。むしろ治安がいい地区だからこそということだって十分に考えられる話だ。そしてこの部屋には私ひとりしかいない。身を守るものの備えもなく、玄関の心もとないシリンダー錠を突破されてしまえば、私には為す術がない。
 昼間からひたすらベッドの上で蹲っていたため、幸か不幸か室内の電気はついていなかった。現在の正確な時間は分からないけれど、しかし今はお腹の好き具合から察するにほとんど深夜に近い時間だろう。そうなると家主が寝静まった頃合いを見計らっての押し入り強盗ということになる。金目のものだけでなく、最悪私の貞操とか命とか、もろもろ危ないんじゃないだろうか。

 もやがかかったような頭が急速にフル回転を始めた。現代において失われかけていた、生存本能というやつなのだろう。
 その生存本能が告げている──これはもう、応戦するより身を守る方が得策ではないだろうか。とにかく被害を最小限に留めるのが最良ではないかと。
 幸いにして我が家には大した貴金属や貴重品は置いていない。いや、幸いも何もただのジリ貧OLというだけなのだけれど、とにかく命さえ助かれば、それ以外のものは案外取られても大した被害ではない。命あっての物種ってやつだ。
 暗がりの中そう判断し、足元で丸まっていたタオルケットをばさりと頭からかぶる。再びベッドの上で蹲ると、タオルケットを頭からかぶった状態でじいっと息をひそめた。暗がりの中ならば、最悪これで隠れ切れるだろう。ベッドの下には収納ボックスで隠れる場所がないし、クローゼットの中は強盗に見つかる可能性が高い。このくらい強気な方が却って安全な気がする。
 ガチャガチャと鳴っていた鍵穴は、一瞬だけ間を置いて、それから恐ろしいほど容易にガチャリと音を立てて開錠した。
 タオルケット越しに、玄関からのびる廊下の電気が灯るのが見える。いよいよ、侵入者がメインの一間のドアを開ける。ぱちん、と音がして部屋の電気がつけられた。

 思わず息を呑む。まさか、いや本当にまさか、この夜更けに侵入してきた強盗がわざわざ電気をつけるだなんて思いもしなかった。暗がりに乗じて忍び込むという、最大のアドバンテージを自ら放棄してくるとは思いもしなかった。
 タオルケットにくるまっただけの私は、電気をつけられてしまえば隠れているともいえないような心もとない状態だ。ベッドの上に明らかに不自然なふくらみがあれば、強盗中に電気をつけてしまうような愚かな強盗といえどいくらなんでも気が付くだろう。私の命は今、風前の灯火となった。

 ──万事休す……!

 二十年そこそこの人生に終止符を打つことになってしまいそうな展開に、さすがに私も腹をくくらないわけにはいかなかった。ああ、飛雄にひどいことを言ってしまったまま私の人生は終わるかもしれない。せめて飛雄に謝罪のメールでも送っておくか。どうせ電気をつけられてしまったのだから、今更タオルケットの隙間から洩れる液晶の明かりなど些末な問題だろう。

 そう思った瞬間──タオルケットの向こうから「名前?」とよく知った声が聞こえた。
 恐る恐る、タオルケットの隙間から顔をのぞかせる。タキシードの足元が見えた。
「……とびお?」
「……何してんだ、お前」
「と、飛雄ー!!」
 叫ぶなり、勢いよくタオルケットをはねのけて私はベッドの上から飛雄に飛びつく。本気でドン引きした顔をした飛雄だったけれど、いきなり跳ねとんできた私を両腕でキャッチするだけの反射は見せてくれた。大事な指先は守る、腕でのキャッチだ。
「うわっ!?」
「うわああ飛雄だ! 飛雄だ! よかったあ! 強盗じゃなかった! 命守られたーっ!!」
 心の底から安堵する。あわや命まで取られ明日か明後日の一面記事を飾る大事件に発展するのではと、実は結構本気で心配していた。
 私が会社に出勤しなければ、さすがに先輩あたりが捜しにきてくれるはずだ。とはいえ今年はすでに猛暑の兆しが感じられるほどの暑さであるから、もしかしたら先輩が私を発見にくるまでに死体が腐食し始めてしまうかもしれないとか何とか思ったりもしていた。強盗の正体は飛雄だったので、それらの不安も杞憂に済んだのだけれど。

 それはさておき。
「なっ、な、なな、何してんだお前!? 電気もつけず」
 キャッチした私を静かに押し返しながら、飛雄は困惑した顔を私に向けた。飛雄にしてみれば、それは至って自然な疑問だろう。
 改めて時計を見るとすでに二十一時を回っていた。電気がついていない方がおかしい。眠っているのならばまだしも、布団からびっくり箱のように飛び出してくるのだから、飛雄にしてみれば意味が分からない上に普通に怖かったと思う。そもそも、在宅しているにしても隠れている理由がない。私を抱きとめたときの飛雄の顔も引きつっていた。

 しかし疑問もというのならば私にだって疑問はある。飛雄は今日は地元で結婚式に出席していたはずだ。二次会まで参加して、実家に一泊して明日東京に戻ってくると聞いている。
「か、と、飛雄こそ、何しにきたの? 今日は帰ってこないはずじゃ」
「本当は一泊してくるはずだったけど、俺だけ先帰ってきた。急用っつって」
「そ、そうなの?」
「さっき今から行くってメッセ―ジ送っただろ。見てねえのかよ。つーかお前、え、おい、お前泣いてんのか……!?」
 飛雄に言われてはっとした。慌てて目元を拭うと。思ったよりもぐっしょりと拳が涙でぬれていた。
 取り繕うようにぶんぶんとかぶりを振る。悲しくてどうという涙ではなく、強盗だと思っていたら飛雄だったという、気のゆるみからくる涙だったけれど、シチュエーションも相まって飛雄からしてみればさらに混乱してしまっただろう。
「い、いや、これは別にそういうんじゃなくて!」
「暗闇でひとりで泣いててそういうんじゃないって、逆にこえーだろ……」
「うっ」
 正論である。飛雄が来るまでは、気落ちこそすれ泣いてなどいなかったのだけれど、しかし今のこの状況では何を言っても信用してもらえそうにない。

 影山の困惑の視線い晒されながら、どうこの状況を収拾したものかと思案する。完全にあらぬ誤解をした飛雄に正しく現状を飲みこませるのはなかなか困難なことだろう。飛雄はこうと一度決めてしまうと頭が固いところがある。それに、普段の私を知っている影山ならば、強盗だと思ったら知り合いでした、なんて展開には安堵することはあっても、それで泣くような女ではないことは知られてしまっている。

 ──さて、どうしたものか。
 もじもじと自分の指先を弄び、この後のことを考える。
 と、ようやく困惑の渦から復活した飛雄が唐突に言った。
「……飯」
「え」
「飯食いに行くぞ」
「えっえっ? なんで? お腹すいたの?」
「すいてねえ。二次会でも食ったし、新幹線の中で弁当食ったし」
 予想斜め上の提案に今度はこちらが困惑する番だ。たしかに私は夕食はおろか昼食だって食べていないし空腹であるけれど、しかし今このタイミングで、何がどうして食事の提案をされているのだろう。食いしん坊の飛雄の考えていることは分からない。
「え、じゃあなんで」
「お前、腹減ってねえのかよ」
「え? いや、そりゃあ、まあ」
「まあいいか。とにかく出るぞ」
 人の話を聞かない飛雄は、自分の意見だけであっさりとまとめるとそのまま部屋を出ていこうとする。私は慌ててその背中に「出掛ける支度するから三十分、いや十五分待って!」と声を掛けた。

prev - index - next
- ナノ -