episode 29

 最悪だ。最悪すぎる。
 ブラックアウトした携帯の画面にうつる自分の惨めな顔を見るにつけ、ひたすら気持ちが沈んでいく。どんよりとした目は死んだ魚のようだし、起きてからもう数時間経つというのに未だに髪もぼさぼさのままだ。年頃の女子としてはあるまじき醜態である。それでも誰に会うわけでもないので、ベッドからおりようという気すら起きない。ただひたすら、ベッドの上で丸まって落ち込んでいる。

 ゴールデンウィークの連休最終日。今年は祝日の関係でかなりの大型連休だった。私の勤める会社はカレンダー通りに休みをとるので、私もしっかり大型連休を満喫させてもらった。
 その最終日──だというのに、こうまで気持ちが落ち込んでいるのは、ひとえに自分の愚かさに因るものだった。

 つい数時間前に電話越しに言葉を交わした飛雄も、電話の向こうで呆れるのを通り越して困惑していた。何せ電話口で私は散々取り乱し、挙句の果てには飛雄に対して八つ当たりまでしてしまったわけで──けれどもそこから謝ったり取り繕ったりすることすらできないまま、時間切れで電話は切れてしまった。最悪だ。
 何もかもが最悪で、そんな最悪な状況に身を置いている私こそが、最悪の中の最悪だ。

 事の発端──あるいはトドメの一撃は、一枚のビラだった。
 ゴールデンウィークを目前に控え、仕事が尋常ならざる忙しさを迎えていた、そんなある日の仕事帰り。帰宅して何の気なしに除いたポストに投函されていたそれを何気なく眺めると、そこには時候の挨拶に始まり、文末にしれっと再来月からの家賃値上がりについて記載されていた。
 あまりにも自然に記載されていたのでうっかり見落としかけたくらいである。というか普段の私ならば大して中身も確認せず、不動産案内の広告と一緒に処分してしまっていたに違いない。その日きちんと配達物に目を通していたのは、たまたま知り合いの結婚式の招待状が届く予定があったからである。
 その値上がりはざっとプラス一万五千円。弱小薄給OLの私からしてみればとんでもない額の値上がりである。

 けれど、家賃の値上がりだけならばやばいとは思えど、それほど致命的な事態ではなかったはずだ。今住んでいるマンションは社会人になったときに越してきたマンションだけれど、当時の地価が安かったために多少設備の整ったマンションにも手が届いた。社会人二年目になりたての私には、多少分不相応なくらいの物件だ。一度便利なところに住んでしまった手前、物件のランクを下げるのには心理的な抵抗があるものの背に腹はかえられない。少しくらいランクを下げればこのあたりでもほかにもいい物件はあるだろう。
 不動産屋を巡って、引っ越し業者を手配して。そんなことの段取りをつけるくらいは容易なことである。ただ、今の私はそれしきの事態にも対応できないほどに疲弊していた。
 ストッキングだけを脱ぎ捨てて、着替えもせずにベッドに倒れこむ。今年になって『二年目だから』と新しい仕事を割り振られるようになり、それはそれでたしかに疲労の原因になっている。けれどそれはどちらかといえば、新しい仕事を任せてもらえるわくわくの方が勝っているので大した問題ではない。
 問題は、この春より異動してきた課長とそりが合わないことだった。

 言い訳をするのなら、私の性格がどうこうという話ではない──と思う。社会人二年目の若輩者の私が、直属の上司に楯突くなんて真似をするはずがないし、そもそもこれまでの人生を思い出しても、私はそこまで他人と衝突することはない。目上の人間を敬う精神だってちゃんと持ち合わせている。
 異動してきた上司は、簡単にいえば男尊女卑が激しいセクハラ野郎だった。
 このコンプライアンスの順守をうるさく言われている昨今に、まさかここまでの人間と出会うとは正直思っていなかった。その被害に遭っているのは私だけではなく、私よりもいくらか年上の先輩の方がむしろひどいことを言われている。
 そしてこれまでそういう事例がない平和な部署だっただけに、私たち女性社員以外も、その課長に対してどのように対応すべきかよく分からないまま一か月が経過してしまっていた。

 セクハラだって、ひとつひとつは大したことを言われているわけではない。我慢できる範疇だし、実際我慢できている。けれどそれも積み重なればしだいに消耗してくるし、じわじわとボディブローのように効いてくる。最初こそセクハラ課長の悪口で先輩と散々盛り上がっていたものの、ここ最近ではだんだんとその話題を出すことすら少なくなっていた。そして話題にしなくなったということは、自分の裡に降り積もっていくということでもある。

 こういう諸々を、私は飛雄にはひとつたりとも話していなかった。上司が変わったことくらいはもしかしたら話したかもしれないけれど、それすら記憶が定かではない。
 飛雄にはバレーがあるし、そういう話をしたところでいまいち分からない話だろうとも思う。家賃値上がりはともかく、セクハラについては多分同じ感覚を共有することは不可能に近い。
 飛雄に話したところで何が解決するというわけでもなく、もっと言うのなら、飛雄とはできるだけネガティブな話をしたくなかった。友人同士だった頃ならいざ知らず、恋人となるとその辺りのことにも多少は気をつかう。スポーツ選手と付き合うのならば、飛雄のメンタルのことを考えるのも恋人である私の仕事だろう。
 もちろん私の抱えるセクハラ問題ごときで飛雄が心を煩わせるかと言われれば、そうでもないというのが実際なのだろうけれど。

 けれど、結局のところはそういう私なりの『気遣い』が裏目に出てしまったのだと思う。二十代も半ばにして恥ずかしい限りだけれど、私は自分にキャパシティを正しく理解していなかった。だから、電話の向こうの飛雄に当たり散らしたりしてしまったのだ。

「何か暗くねえか」
 と。そう尋ねたのは多分、飛雄なりの気遣いのつもりだろう。日頃相手の顔色など窺わず、まして顔の見えない電話の向こうの相手の様子など、飛雄が考えるとは思えない。恋人である私の様子が普段と違うことを察して、それで声を掛けてくれたのだと思う。
 それでも、私のぎりぎりだった精神は飛雄のその一言でぷつりと限界を超えてしまった。
「暗いって何! そりゃあ私だって暗くなるときくらいあるよ! いつも元気でバレーだけやってたら幸せな飛雄とは違うんだよ! 知ったようなこと言わないでよっ!」
 知ったようなことも何も、私が自分で話していないだけのことだ。この件について、飛雄には一切の非はない。
 どこからどう聞いても完全に私が勝手にキレているだけであって、その上その言葉は的外れにも程がある。程があるのだけれど──そのことに思い至れないほど、私の精神状態はめちゃくちゃだった。セクハラ課長ですり減らし続けた精神に、家賃値上がりが追い打ちをかけていた。

 暫しの無言の後、飛雄は何か一言二言呟いて、そして電話を切った。飛雄が何を言ったのか、私は覚えていない。無言の間に我に返ったものの、頭は真っ白で何を言ったらいいのか分からなかった。真っ白になっている間に、電話は切れていた。

 ゴールデンウィークの最終日といえば飛雄の日だ。この日に飛雄に会えなかったというのも、私の精神には甚大な影響を及ぼしていたのかもしれない。付き合って二年記念日で、去年の今頃には真に恋人同士として気持ちが通じ合った特別な日。その日に飛雄がいないというのは、やはり少なからず悲しいものがある。
 けれど、飛雄だって何もわざと今日この日に予定を入れているわけではない。地元の宮城で高校時代のチームメイトの結婚式があるのだ。そんなめでたい日に私のわがままで欠席などできるはずがない。私も私で、明日は有給休暇をとって一泊してくる飛雄とは違い明日から仕事があるので、飛雄と一緒に帰省するというわけにもいかない。

「うう……うええ……ううう……」
 飛雄との電話からすでに数時間が経つ。わざわざ結婚式の直前に電話を掛けてきたのだから、もしかしたら飛雄は私に何か急用があったのかもしれない。それなのに、私は飛雄の用件を聞くこともなくひどいことを言ってしまった。私の事情で飛雄に迷惑をかけてしまった。果てしない自己嫌悪に襲われながら、私は枕にぐりぐりと額を埋める。
 いつのまにか部屋の中には暗闇がおりていた。一体どれほどこうして丸まっているのだろう。ぼんやりと計算してみるけれど、うまく頭は働かなかった。セクハラ課長によって思考能力を極限まで減退させられてしまっている上に、家賃値上がりと自己嫌悪がコンボを決めている。

 ──いや、それは責任転嫁だ。
 深く溜息をついて、それからベッドの上に転がっていたクッションを抱え込む。たしかに今の状況を招いた原因にはセクハラ課長や家賃値上がりが大きくかかわってはいるけれど、飛雄に対してひどい態度をとったのは自分の問題でしかない。そのことまでセクハラ課長に責任を求めることはできない。自分の言動はすべて自分だけのものだ。

 十年の積み重ねがあるから、あの電話一本でいきなり飛雄の愛想をつかされるということはないはずだ。そうだと信じたいし、そうであってほしいと心の底から願っている。けれど、その重みがあるからといって胡坐をかいていいということにはならないだろうということも分かっている。
 飛雄が帰ってきたら謝ろう。事情を仔細に説明するかはまた別の問題だとしても、少なくとも私がひどいことを言ったという事実だけはどうしようもないことなので、そこだけは謝らないといけない。
 と、その時──突如、玄関の鍵がガチャガチャと音を立てた。瞬時に身体が強張る。
 オートロックの賃貸とはいえ、侵入が不可能というわけではない。そしてこの賃貸は、ほとんど新築に近いきれいな物件ということもあって女性入居者が大半を占めている。

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