episode 28

 そう思い、一歩足を踏み出す。と、その時、私の右手に何かが触れた。何かはそのまま私の指と指の間にするりと入りこみ、包み込むように私の手を握った。
 握った。手を。
 ──手を?

「えっ、あ、え、う、ううう、な、えう」
 言葉が言葉になるより先に、口から奇声として溢れてくる。思考が思考になるまでの時間にも、感覚器としての皮膚は、右手を包み込む何かのあたたかさや感触を電気信号にのせて脳に流し込んでくる。あたたかい。あたたかい。肌。皮膚。私よりも少しだけ体温が高くて。皮膚がかたくて。そのくせ力加減は強すぎず。あたたかい。肌。手。指。影山の。影山の手。影山の手が握っている。手を。私の手を。

 影山の手が、私の手を握っている。

「って、手!!!!」
「うおっ!?」
 勢いよく叫ぶと、負けず劣らずの声量で声をあげた影山がびくりと肩を揺らした。それでも手はつないだまま──私と影山の手は、つないだまま。
「な、なっ、なん!? なんで手、なに、手!?」
 もはやまともに言葉を発することもできない私とは対照的に、影山は至って普段通りのテンションで首を傾げる。
「は? 意味分かんねえよ」
「意味分かんないのはこっちだよっ! だって手! えっ、もしかして気が付いてない!? 手、握ってるよ!?」
「だから何だよ? 『恋人』って、こういうことするもんじゃねえのか」
「そうだけど!」
「付き合うってそういうことなんだよな?」
「そう、だけど!?」
 影山の言っていることは正論であり、まったく反論の余地はない。紛うことなく正解である。百点満点、花まるあげちゃう。
 けれど、一年間『不正解』を繰り返してきて、そしてそれを良しとしてきた私には、その花まる百点大正解は理解の範疇を超えていた。
 一体全体どういう風の吹き回しなのだろう。だってこの一年間、影山は『恋人』らしいことなんて一つたりとも行ってこなかったのだ。それは影山ばかりではなく私だってそうなのだけれど、ともかく、私と影山は『恋人』になってからの一年間、これまでどおりしっかりと『友達』だったのだ。ラベリングと実態の矛盾。歪み。文字通りの不正解。それでも構わなかったし、それでも文句は無かった。
 ただ、それはけしてそういうことをしたくないのとイコールではなく。本音を言えば、そりゃあ私は恋人らしいことの一つもしたかった。影山に片思いをしている──『恋人』に片思いをしている身としては、そのくらいの願いを持ったって許されるだろう。言葉にせず、態度に出さず。胸の裡に秘めているだけならば許されるだろうと、そう思って、私はこの一年を過ごしてきたのだ。

 それが一体どういうことだろう。ついさっき名前で呼び合うという一大イベントを回収したばかりだというのに、次の瞬間にはこうして仲良くお手手を繋いでいる。しかも影山の方から、私の指に指を絡めてきている。黒々として恐ろしかった海辺は、今やロマンチックな夜の砂浜と化している。
「『恋人』って……、だって、そんな急にさあ……」
「なんだよ、文句あんなら放すぞ」
「文句なんかないよ! ない、だけど──」

 だけど。それでも。しかし。
 今起きていることを素直に受け入れられるほど、生憎私はここまで幸せで順調な恋愛をしてきていない。私が相手取っているのは超弩級の鈍感野郎の影山だ。鈍感で、恋愛に疎く、人の名前を『使わないから』と忘れるようなやつ。おまけに私のことを好きではなくて、私が影山を好きでいるためだけに私と『恋人』になったような情緒があれな人間だ。それが影山で、私の好きな人。

 影山は、私が望んでいるからなんて理由で手をつなぐような健気なやつじゃない。まして、世間で『恋人はこうするものだ』と言われているからなんて理由で好きでもない女子の手を握るようなやつでもない。影山にはそんな器用さも、媚びもない。どこまでもまっすぐで、不器用で、誠実だ。
 つまるところ、だから、要するに。今こうして手を握っていて、私は影山が本心からこうしたくて、手を握っているのだ。そのことを、私は痛いくらいに実感していた。

 影山は好きで手をつないでいる。
 私のことを好きで、手をつないでいる。

 こんなの、私の理解も予想も追いつかない。
「──恋人なんて言ったって、名ばかりだと思ってた」
 ぽつりと漏らした私の言葉に、影山は不愉快そうに眉を顰める。握った手には少しだけ力が加わった。
「どういう意味だよ?」
「私が恋人じゃないとだめって言ったから、とりあえず影山は言われた通りにそうしただけで、だから名ばかりって」
「お前、俺のことなんだと思ってんだよ?」
「鈍感情緒なし男」
 正直に白状すると、握った手を思い切り握られた。痛い。バレーボール選手に思い切り手を握られて、痛くないはずがない。痛くて痛くて──涙が出てしまいそうだった。
「……だって一年間、特に変わりなかったじゃん。私もそれでいいと思ってたし」
「は? お前俺のこと好きなんじゃねえのかよ」
「好きだけど! 好きだけど……でも、影山は別に私のこと、好きじゃないって思ってた──今もちょっと、本当はまだそう思ってる」
「……」
 影山が押し黙った。ただ、ざざんざざんと寄せては返す波の音だけが聞こえる。
 影山は何かを考えているのかもしれないし、そう見せかけて、実際はただぼんやりしているだけなのかもしれない。私はほかの人よりも影山の考えていることを理解できるけれど、それでもきっと、実際は影山の思考回路の半分だって分かってはいないのだろう。

 無言のまま、海岸線に沿って歩いていく。影山は何も言わない。何かを言うべきだろうかと考えて、しかし結局、私も何も言わなかった。今更何かを言って場を繋がないといけないほど影山との間にある空気は空しいものではない。それに、今私の方から何を言っても、それはこの場にそぐわない言葉になってしまう気がした。
 ひたすら足を動かす。元来た道を引き返し、ようやく海浜公園を出ようかというところで、やっと影山が口を開いた。

「好きでもねえやつと、手は繋がねえよ」
 あれだけじっくり考えて、結局出た言葉はそんなものだった。けれど、それが影山の本音で、裏表のないまっすぐな言葉だということが溢れるほどに伝わってきたから、私はうん、と小さく頷き、それから少しだけ、つないだ手に力をこめる。
「好きじゃなきゃ、手は繋がないね」
「ああ」
「じゃあ影山は、手を繋げるくらいには私のことを好きってこと?」
「嫌じゃねえからそうなんだろ」
「……そっか」
「多分な」
 言葉少なにまとめた影山はそれきりまた口を閉ざしてしまって、肝心要の部分は結局はぐらかされてしまった。追及はしない。そんなことをする必要はまったくなかった。

 私と影山は合意の上で『恋人』になって、今までの一年を『恋人』としてやってきたわけだけれど──そして私はその一年を影山にとっては歪な関係の一年だと思っていたけれど、もしかしたらそれは私の単なる勘違い、思い込みであって、真実はそうではなかったのかもしれない。そんなことをぼんやりと考える。
 たとえばこの『手をつなぐのが嫌じゃない』という事実ひとつとってみても、影山は一年かけてその結論を導き出した。つまりはこの一年、影山はバレーに没頭する傍らで私とのことを真剣に考えていてくれていたということでもあって。それはあくまで私の推測の域を出ないことではあるけれど、もしそれが事実なのだとしたら、それは私にとって、信じられないほどの幸せ──身に余る光栄だ。

 と。
「あ」
「え」
 不意に影山が、つないだ手を思い切り引いた。引かれるまま、体勢を崩した私は影山の方へと倒れ込む。しかし腕を引いた当人である影山は、よろめいた私の肩を容易く片手で支えると、そのまま私の方に屈みこむようにして顔を近づけた。

 くちびるが重なった。
 そのことに気が付いたのは影山の顔が離れた後で、再び歩き出した影山に腕を引かれ、私はもつれる足で何とか歩き出す──いや、歩き出せるはずがない。

 半ば引き摺られるように歩きながら、急速に熱が顔に上ってくるのを感じる。名前を呼ぶ、手をつなぐだけでもいっぱいいっぱいだった私なのに、その上今、影山がしたことを思い出すだけで、頭が沸騰してしまいそうになる。 
「な、なな、なにお、何を」
「何って──キス」
「キス! キスて!」
 つないだ手をぶんぶんと振って抗議の声を上げる。影山は何とも渋い、迷惑そうな顔で私を見下ろした。何故。何故私が、完全に不意打ちでファーストキスを奪われたばかりのこの私が、そんな目で見られなければならないのだろう。状況から考えるに、もっと優しく甘い対応をされてもよさそうなものではないか。
 いや、そういう話ではない。別にキスの後の余韻に浸りたいとかそういう話をしているわけではなく、私はただ、何がどうしていきなり接吻をかまされたのかという状況説明をしてほしいだけなのだ。
「なんでいきなりキスしたの!?」
 辺りに人がいないのをいいことに、憚ることなく大声で叫ぶ。けれどもしも人がいたところで、このどうしようもなく行き場のない熱量を持った感情は、私の手では抑え込むこともできなかっただろう。周囲に配慮する余裕など、今の私には微塵も残されてはいない。

 取り乱した私とは対象的に、影山は涼しい顔でいけしゃあしゃあと言ってのける。
「なんでって、手繋げるくらいに好きってことは、キスできる程度に好きかと思って……?」
「なん、な、なに? なんでそんな理由でキスするの?」
「いや、違ェな。キスできるじゃなく──キスしたい……?」
「は」
 今度こそ、私は完全に思考停止した。これ以上の負荷に、恋愛経験値の低い私の可哀想な脳みそは到底耐えられなかった。
「なんか、手握ったら、そのままいっちまった」
 悪ィ、と影山。特に悪びれた様子もない。影山にとっては悪いで済まされることなのだろうし、むしろ本心では悪いなんてビタイチ思っていないのかもしれない。その鈍感さ由来の余裕に、いっぱいいっぱいであっぷあっぶの私は恥ずかしさや照れやら何やかんや、とにかく限界だった。
「全然分かんない!」
 叫ぶ。もはや何が何だか、どこから何を言うべきかも判断できなかった。
「うるっせえな! 別にいいだろ、一年も付き合ってんだから!」
「そうだけど、そうじゃないじゃん! 一年付き合ったってカウントも正直どうなの!?」
「知るかボケ!」
「うわっボケって言った! さいあく!」
「俺は最悪じゃねえ」
 そうして影山は、私の手から荷物を取り上げると「さっさと帰んぞ」とぶっきらぼうに言った。

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