episode 27

 海浜公園は首都部から歩いて行ける距離にありながら、しかし都会の喧騒を離れた大きな自然公園でもある。
 その敷地の中央を大きな歩道がつらぬき、歩道より陸地側には陸上競技場や運動場、アスレチック広場が広がっている。今まさにライトアップされている観覧車などもこちらの陸地側にある。
 対して浜辺側は磯まで砂浜が続いており、その砂浜も途中からは環境保全のために立ち入り禁止区域になっている。

 陸上側のほとんどの施設はすでに使用可能時刻を過ぎていたので、私たちは迷うことなく浜辺側へとおりていった。観覧車のあたりには少しだけれど出店も出ているようなので、ほとんどのカップルはそっちに向かうのだろう。浜辺側は、寂しいくらいがらんとしていた。砂浜と立ち入り禁止区域を分けるネットくらいしか遮蔽物もないので、びゅうびゅうと海風が吹き荒び、私の髪をさらう。

 浜辺に足を踏み出すと、こまかな砂を、スニーカーがぎゅうぎゅうと踏む感触が伝わってくる。磯までそれほど距離があるわけでもないので、少し行くとすぐに黒々とした海が見えた。
「なんか、ロマンチックっていうよりも不気味だね」
 今にも何かよからぬものが海の中から這い上がってきそうな気がして、私は思わずそう言う。
 私が生まれ育った宮城の海はもっときれいだし、何より昼間の海にしか私は行ったことがない。夜の海がこうも不気味でおどろおどろしいものだとは、思いもしなかった。
「さすがに海風が吹くと寒ィな」
「そうだね、ちょっと歩いたら引き上げよう」
「なんだよ、お前が行きたいって言い出したんじゃねえか」
「そうだけど、まさかこんなうすら寒い寂しい場所とは思わなかったんだもん」
 反論し、私は鼻を鳴らして砂浜を歩き始めた。後ろを影山がついてくる気配がする。

 しばらく海岸線に沿って歩いていくと、浜辺に流木で何かを書いたあとが残っていた。暗いので目をこらしてもよく見えない。鞄から携帯を取り出し、画面の光で照らすと、そこには三角形の下に棒を一本足した図形と、ふたつの名前が並べて記されていた。海風に晒されてだいぶ薄くなっているけれど、相合傘だろう。
 しゃがみこんでさらによく見てみる。傘の下に書かれた名前のうちのひとつに、私は思わず噴き出した。
「見てみて、影山。これ」
 所在なくうろうろとしていた影山に手を振り呼ぶ。しゃがんだ私の頭越しにそれを覗き込んだ影山は、目を眇めて文字を読んだ。
「なんだそれ? ──『名前』?」
「そう」
 笑って返事をする。男性の名前の方には覚えがなく当然知らない名前であったけれど、しかし相手の女性の名前は『名前』──つまりは私と同じ名前だった。特別珍しい名前でもなし、ただの偶然だろうけれどそれでも笑ってしまう。
 まるい筆跡の文字を見る限り、それはこどもの戯れのようなものに思われた。深い意味のあるものではなく、ただこの恋が続きますようにと、私の名前と同じ名前の誰かがこうして相合傘を書くような幸せなデートをしたか──あるいは浜辺に相合傘を書いてしまうような愛らしい片思いをしていると思うと、なんだか心があたたかく、ほっこりとしてしまう。
「『名前』ちゃんってどんな子だろう?」
 私と同じ名前の女の子なのだから、素直ないい子だったらいいなと勝手なことを考える。影山はさして興味もなさそうに返事をした。
「さあ? で、なんでわざわざ俺にそれ見せたんだよ?」
「え? なんでって、だから『名前』って名前だったからだけど」
「? だから、それが何だよ? 知り合いか?」
 影山の返事に、私は思わず目を剥く。知り合い? いや、そりゃあ知っている名前ではあるけれど。というか知っているも何も二十数年、生まれてこの方ずっと名乗り続けている名前なのだし。

 そこで私は、ある恐ろしい可能性に思い至った。沈黙の後、もしやと思い、私は恐る恐る影山の顔を仰ぎ見る。
「……影山、私の下の名前、知ってる?」
 暫しの逡巡の後、影山は答えた。
「……知らねえ」
「なんで知らないの!?」
 思わず叫んだ。そんな、そんなことってあるだろうか。いくら影山がバレー一筋のバレー馬鹿とはいえ、いくらなんでも九年近く友人をやっている私の名前を、苗字しか認識していないというのはあんまりすぎる。他人のことに興味がないとかそういう次元を超えている。

 私の非難に満ちた視線を受けて、影山は慌てたように叫んだ。
「お、お前だって俺の名前知らねえだろ!」
「飛雄」
「うっ」
「飛雄でしょ。知ってるよ、そのくらい。呼ぶ機会がないから呼んだことないってだけで。飛雄。とびお。トビオ」
「う、ううううるせえよ! 大体俺だって呼ぶ機会がねえから忘れてただけだっつの!」
「ええ? どうだかなあ……怪しいなあ……」
 明らかに狼狽し、その上逆切れをかましている影山の発言には信憑性など皆無である。大体、もしも知っていて忘れていただけだとしたら、砂浜に書かれた『名前』の文字を見た時点で思い出すのが普通だろう。影山の言うことにはまるきり筋が通っていない。

 呆れた。影山に対してあらゆることを期待していない私ではあるけれど、しかしいくらなんでも名前を忘れられているとは思いもしなかった。予想の斜め上をいく影山の影山ぶりに、知らず知らずのうちに溜息がこぼれた。
 影山はそれでもまだ反論しようと言葉を探しているように見えたけれど、結局反論するだけ墓穴を掘るだけだと気が付いたのか、ただぽつりと一言
「しゃあねえだろ、使わねえもんは忘れる」
 と言い訳のように呟いた。
「使わないって……そりゃあまあそうだろうけど、もうちょっとほかに言い方があるでしょ。人の名前に向かってどういう言い草よ、それ」
「使ってたら忘れねえよ」
「どういう理屈?」
「普段から名前って呼んでたら忘れねえだろうが」
 ぶすりとした顔で影山は言う。それから何度か、確認するように小声で私の名前を呼んだ。名前、名前、名前。
 うっ、と思わず服の上から胸を押さえる。不覚にも、影山の声で呼ばれる自分の名前にときめいてしまった。これまでの九年間、影山からは名字以外の呼び方で呼ばれたことはない。そもそも、異性から下の名前で呼ばれるという経験をほとんどしたことがないといってもいい。

 ──好きな人に呼ばれる名前って、こんなにも直接的な破壊力があるのか。
 齢二十そこそこにしてはじめて知る感覚だった。雷に打たれたように、私は茫然とする。なんだろう、この感覚は。はかいこうせんを打たれたみたいなショックを受けつつも、なんだか胸がうずうずとしてむず痒くて、鳥肌みたいな何かが肩のあたりにぶわりと広がる。未だ体験したことのない、未知との遭遇だ。

 しかして、その感覚がおさまるより先に、影山から「おい」と声を掛けられ、はっとした。
「お前、何変な顔してんだ。気持ち悪ィ」
「へ? 変な顔なんかしてた?」
「変なもの食ったときみてえな顔してたぞ」
「そ、そっか……」
 さらりと織り交ぜられた暴言もうっかりスルーしてしまう。変なものといえば変なものだ。影山に名前を呼ばれる機会などほとんどないのだから。

 びゅおうと、ひときわ強い風が吹いた。砂浜にしゃがみこんでいた腰をあげ、真っ黒に染まった海に視線をやる。未だ心臓はどきどきと高鳴っていた。
 ごくんと一度、つばを飲み込む。指先がつめたい。
「──飛雄」
 影山に倣って、ぼそりと小さく彼の名前を呼んだ。
 とびお。シャープな音の響きなのに、どこか愛嬌のある、彼らしい名前。私が今まで呼んだことのなかった、彼の下のなまえ。私の恋人のなまえ。

 てっきり海風に流されて消えてしまうかと思ったその声は、しかし影山の耳にはっきりと届いた。
「何だよ?」
 怪訝な声で尋ねる影山は、名前で呼んだことを気に留めてというよりも、声を掛けられたことそのものに対する返事をした。心のどこかでほっとする──私が名前を呼んでも影山は嫌じゃないんだ。
「別に、何でもない。飛雄、飛雄。とーびお」
 調子に乗って、歌うように言った。やっぱり影山は怒らない。
「人の名前を口癖みたいに言うんじゃねえ」
「いいじゃん、使わないと忘れるし」
「……お前、さっき言い方がどうのって言ってなかったか」
「細かいことは気にしないでよ、飛雄」
「……うるせえな、名前」

 潮騒を聞きながらのやりとりは、まるで仲睦まじい恋人たちのもののようだった。相変わらずむず痒い感覚を味わう。意味もなく理由もなく、ただ呼びたいから相手の名前を呼ぶ。たった三文字の文字の羅列すら愛おしくて、幸せになれる呪文のように繰り返す。しかしそんな幸福を噛み締めながらも、やはり心のどこかでは、言い知れぬ寂しさがひたひと胸を濡らす。
 ちゃんと分かっている。
 ちゃんと知っている。
 いくら恋人らしいやりとりをしてみたところで、影山は別に私のことを好きなわけじゃない。成り行きで名前を呼んだからといって、そこに甘やかな意味が含まれているわけではない。私にとっては幸福なひとときであっても、影山にとってはそうとも限らない。

 我に返ってしまうと、この海辺というシチュエーションも相まって、なおさら物寂しかった。心の中にもすうすうと海風が吹き抜けてような、そんな心持ちになる。影山との『恋人』という今の関係に満足しているはずなのに、どうしたってやっぱり、そういうことを考えてしまうときはある。

 そんなくだらない思考を振り払うように、私はぐぐっと伸びをして、それからくるりと影山の方に向き直った。
「そろそろ帰ろっか!」
「だな」
 こんな風に考えてしまうのは真っ黒の海のそばに二人きりでいるからだ。いつものように人混みにまぎれ、いつものような影山といれば、そのうちこんな思考も感情もどこかへいってくれるだろう。見たいものだけを見る、幸福な日々に戻れるだろう。

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