episode 25

 建物の外に出ると、やっと息苦しい空間から解放されたような気分になる。
 昼過ぎから六時までのフリータイムカラオケのせいで喉はがすがすになっている。それでも久し振りに学生のときのように休日を長時間カラオケに費やしたおかげで、日々の業務で溜めに溜まったストレスのほとんどを排出することができた。
 ううんと大きく伸びをして、傍らの影山の顔を仰ぎ見る。喉の調子を確認していた影山は、私の視線に気が付くと小声で「なんだよ」と呟いた。

 今年の影山はゴールデンウィーク中にもなんだかんだと忙しくしていた。何でも影山の所属するチームの地域活動として、毎年恒例になっている小学生対象のイベントに選手として参加したり、通常の練習に加えて短期の合宿があったりと、そんなわけなので休みらしい休みはゴールデンウィーク最終日の今日しかない。
 もちろん休み中に休日出勤した分については後日代休があるらしいのだけれど、平日に休みがあったところで影山は勝手に自主練をするだろうし、平日は普通にお勤めをしている私には関わりのないことだ。影山にしてみればいつも以上にバレーに没頭できたのにその上代休がもらえるなんてラッキーとでもいうところだろう。

 それはさておき、今日は影山と私の唯一重なった休日だったので、こうして昼前から一緒に遊んでいる。
 貴重な休みを私と一緒に過ごしているあたりに影山の交友関係の狭さと、そして私への若干の配慮を感じないでもない。ゴールデンウィークの最終日は絶対会いたい! と常から言っている私に、さすがの影山もスケジュールを譲ったというのは少なからずあるだろう。まあ、私は影山の『恋人』なので、そのあたりは世間的にみれば当然と言えなくもないのだろうけれど、 それでも私と影山の『恋人』関係はあくまでも言葉の上のものなので、世間一般のカップルの常識を当てはめるには、ちょっと、いやかなり無理があるのだ。
 私と影山の実態としては、友達以上恋人未満だけれど形式上『恋人』を名乗っています、という感じである。

 ──ちょうど一年前。
 私と影山はひとつの約束をした。それは私と影山の間にある関係の名前を『友達』から『恋人』にクラスチェンジするという約束だ。もちろん、私から影山への恋心はあれど、影山から私への恋心なんてものはまるきり存在しない。だからそれは、恋心に基づいたよくある関係性の変化などでは当然なくて、ただ、本当に名前を取り換えるだけの約束だった。
 私は相変わらず影山に恋をしていて、影山は私のことを恐らく、無二の友人だと思ってくれている。そうやって異なる色の矢印をたがいに向けあって、なおかつそのことをどちらも了承している状態を『恋人』とするのは、多分大いに無理のある関係だろう。歪んでいるとすら思う。

 それでも、影山は私が影山以外の男の人を好きになるかもしれないことを良く思わないらしいのだから仕方がない。そんな影山のわがままを聞き入れるためには私たちは『恋人』になって、そして、お互いをゆるく、やわらかく縛り合うことにしたのだ。
 それが私と影山のこの関係を成立させる、ただひとつの方策だった。

 関係は、今のところ大きな問題もなく続いている。私と影山は『恋人』で、友達としての領分をやや逸脱しつつも、しかしけして色っぽい空気になることもなく、今ここに至っている。私は特に不満を持つこともなく──多分、影山もそうだろう。そういう関係だ。

「夕飯、何食う」
 ほとんど片言みたいな言葉を投げかけられ、私は影山を見た。駅の近くのカラオケ店から出た私たちは、特に向かうあてもなく駅の近くの飲食店街に足を向けていた。帰宅して何かを食べてもいいけれど、ここまで来た以上何か適当に食べて帰った方が圧倒的に楽だ。どうせ帰って食べるとしても二人分の食事を作るのは私だし。辺りを見回しながら、私は唸った。
「そうだねえ、あんまりお腹空いてないから正直何でもいいけど……。影山は何か食べたいものある?」
「別に……肉、とか」
「肉かー。ステーキ? ハンバーグ?」
「ハンバーグ」
「たしかこの近くにあったと思うよ、ハンバーグ食べられるところ」
 果たして大通りに沿って少し歩いたところに、見覚えのある洋食店を見つけることができた。以前、職場の同期と一緒に来たことのある店だ。同期といっても女子だし、同期の中でも特に親しくしていたチャッピーとは結局、あの飲み会以降「影山と付き合った」と報告したきりなんとなく縁が薄くなっている。それがどういう意味を持つのかは考えるのが面倒なので考えないようにしているけれど、影山の勘も案外馬鹿にしたものではない、ということだろう。

「前に来たときには結構列ができたと思うんだけど、ランチじゃないから空いてるね」
 行列に並ぶのが好きじゃない影山は、私の言葉にこくりと頷く。
 時刻は夕方六時半。食事処はどこも混み合う時間だけれど、ここのお店は駅から少しだけ離れていて、なおかつ店のつくりが分かりにくいので案外穴場なのだった。平日ランチは格安なので行列のできる人気店。休日は主な客層のOLもいないので、予約をしていない私たちもすんなりと席に通された。

 メニューから、それぞれハンバーグを注文する。ライスとスープとサラダをつければそれだけで立派な食事だ。1ポンドで注文した影山は、いつものことだけれど0.5ポンドで注文した私に「足りんのか」と疑いの眼を向けた。
「影山と違って運動習慣もないし、女子ならこんなもので満足だよ」
「そう言って帰りにコンビニでアイス買うんだろ。そっちのが太るんじゃねえの」
「う、うるさいな……!」
 影山のくせに痛いところをついてくる。大体、自分だって一緒になってアイスを買うくせに、なぜ私だけを糾弾するんだ。むっとしながら、先に運ばれてきたスープをすすった。

 テーブルを挟んで向こう側。その距離は、基本的には高校時代、ファミレスでくだらない話をしていたころからほとんど変わっていない。そりゃあお互いの家を行ったり来たりして、こうやって休みの日にふたりきりで遊ぶというのは高校時代では考えられなかったことなのだけれど、しかし、やっていることは別に、そう変わりないのだ。

 『恋人』になって一年が経つ。それでも、私と影山は恋人らしいことを何一つしていない。セックスはおろか、キスだってしていないし、手と手が意味を持って触れ合ったこともない。好きだという言葉を受け取ったこともない。もちろん、それは『恋人』になるときに取り決めた約束だし、私はそこに何の不満もない。だからそのこと自体は構わないのだけれど、時々不思議になる。影山は、私とどうなりたくて、どうしているのだろう。
 いくらバレー一筋の影山といえど、いつかは誰かを好きになったり、結婚したりとか、まあそういう人生のイベントも消化していくことになるのだろう。何も影山は人を好きになれないというわけではないようだし、一生独り身でいようという気もないらしい。結婚願望を口にしたことは無くても、周囲が当たり前にするのならば、いずれは自分も、くらいの認識を持っていることを、私は長い付き合いの中で薄々知っている。

 今でこそこうやって恋心のない私との間に『恋人』という関係を掲げている影山ではあるが、しかし影山がいざ本気でバレー以外のこと、恋愛や結婚のような雑事に向き合ったとして、私との関係をどうする気なのかは、やはり気になるところだった。
 一番理想的なのは、この名前ばかりの『恋人』関係が実態を伴うことだろう。影山が私を好きになって、私も影山のことを相変わらず好きで。それが実れば言うことはない。けれど、果たして出会ってすでに八年の私たちに、そんな転機が訪れるのかは甚だあやしい。影山が今更、私に抱く友情を恋慕にシフトさせることができるかと言われれば、それは無理そうな気がしてならない。
 そうなると、影山は私以外の誰かを好きになるのだろう。そうしたら、今のこの『恋人』という関係は終了だ。影山は自分に好きな人ができたら、私が誰と親しくしようがどうでもよくなるだろうし、私という『恋人』がいるのはむしろ不都合である。だから、この『恋人』関係はいつか破綻する。そういう未来がすでに約束されていて、私たちはそれでも『恋人』なのだ。

 テーブルにハンバーグが運ばれてくる。じうじうと音を立てて鉄板の上で焼けるハンバーグを見ながら、私は昏い思考を振り払った。考えても仕方がないことならば、考える必要はない。少なくともこうやって今目の前に影山はいるのだ。影山を目の前にして、影山を失うことを考えるなんて馬鹿げている。
「やっぱもう少し大き目のサイズ頼めばよかったかも……」
 わざとらしく発した言葉に、影山は「それ見たことか」と言わんばかりのドヤ顔をした。

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