episode 24

 沈黙が流れる。我に返るのにおよそ数秒を要した。
 影山と向かい合ってフリーズしていた私は、しかし現実に復帰するとすぐ、影山の手から自分の携帯を取り返した。もちろんすでに通話は切れて画面は暗転している。
「えっ、影山、どういうこと」
「……?」
「なんで影山がよく分かりませんみたいな顔してんの!?」
 訳が分からないのはこっちの方だ。そりゃあ影山と一緒にいるのにほかの人と電話をしていたのは悪いと思うけれど、影山だって似たようなことはよくするし、それこそ私と影山の関係においてそんなことは『今更』だ。一緒にいる時間が長い分、こういうことは日常茶飯事である。
 それなのに、一体なぜ。一体何が、影山に私の携帯を取り上げるなんて意味不明な行動をさせしめたのだろう。影山は何に突き動かされているんだ。

 私よりやや遅れて我に返った影山は、はっとした顔で私を見るなり、ばつが悪いのを誤魔化すように私に怒鳴った。
「お前がチャッピーチャッピーうるせえから! だからなんか、手が勝手に……!」
「ええ? 何それ、意味わかんない。まったくもう、謝るメール入れておかないと何があったのかと思われちゃうよ」
「後でいいだろ」
「いいわけないでしょ、うっかり警察なんか呼ばれても困るし」
 何せ夜道を歩いている女子が通話の途中でいきなり電話を切ったきり折り返してもこないのだ。チャッピーじゃなくとも何かあったんじゃないかと思うのが普通だろう。まして、私が今一緒にいるのが影山だということをチャッピーは知らない。女子と一緒にいると思われていた場合、犯罪に巻き込まれたとか、不測の事態に陥っていると思われてもおかしくない。

 影山の不服そうな視線に晒されながら、チャッピーに『急に通話切れた、ごめん。またあとで連絡する』とだけメッセージを送信した。そして再び携帯を鞄に戻すと、再度影山を仰ぎ見る。驚いたショックで足が止まってしまっていたけれど、何となく、歩き出す気にはなれなかった。影山も完全に足を止めて 私を見ている。
 さっきのはなんだったのだろう。フリーズして、復旧して、一段落して。遅れてやってきた動揺で、どきどきと高鳴る心臓を胸の上から手で押さえつける。
 私がチャッピーとばかり話をしていたから? チャッピーの名前を何度も呼んだから? 影山はたしかにそう言った。聞き間違いでも、あるいは言葉の解釈の問題でもない。それならば、影山は今、チャッピーに対して妬いたとか、そういうことなのだろうか。

 都合のいいことを考えて、しかし慌ててそんな考えは打ち消した。
 まさか、影山に限ってそんなはずはない。影山はどこまでも影山で、嫉妬なんてそんなものをバレー関連以外でするはずがないのだ。まして、相手は私。影山が嫉妬する理由なんて何ひとつ存在しない。

「本当影山意味わかんないんだけど。合宿で疲れておかしくなってるんじゃない?」
 動揺を隠すように、わざとぞんざいな物言いをした。影山もぶすりとした顔をしている。やはり自分でも何が何だかという様子ではあるけれど、それでもなお偉そうな態度を崩さないのだから影山の態度はある意味では一貫している。
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあ何よ」
 今の行動の意味を、理由を、影山の口から説明してもらえるというのなら、それが一番しっくりとくる。

 影山は暫し黙り込んでいた。自分でもよく分からない何かをつかみ取ろうとしているように見えた。考えてみれば影山の行動にはそういう『よく分からないけれどなんとなく』みたいなものはほとんどない。たとえそれが野性的な勘に基づいたものであったとしても、影山本人にはきちんと理由に納得がいっていて、筋が通っている場合がほとんどだ。
 だから、こうやってふわふわと意味も理由も置き去りにした行動は、影山の中には存在しないものなのだ。影山本人が困惑してしまうのも仕方がない。

 影山が言葉を発するのを、私は黙って待っていた。とっぷりと更けた夜闇の中、大通りを歩いてはいるものの、歩行者は私と影山くらいしかいない。
 何台目かのタクシーが私たちの横の車道を通り過ぎて行ったとき、影山はやっと、伏せていた視線を上げて私を見た。その眼にはまだ迷いが浮かんでいる。
「なんかむかついた」
 影山はぶすりとして言った。そして続ける。
「ほかの男と楽しそうにしてんなよ」
「は──」
 思わず言葉を失った。隣を大型バイクが轟音を立てて通り過ぎていく。

 時間が止まったみたいだった。時間も、空間も、何もかも。けれど思考はやたらとクリアで、普段の私ではありえない速度で脳が情報をぐるぐると処理していく。それなのに、頭は尋常ならざる処理能力で稼働しているはずなのに、全然思考はまとまらなくて、ただ影山の言葉だけがまとまりのない言葉の羅列として頭の中をばたばた行ったり来たりしている。
「なに、それ」
 と──
 やっとの思いで発した言葉はそんな意味のないものでしかなくて、私の心や思考とはかかわりがなく反射で紡がれたようなものだった。それでも影山は自分のことでいっぱいいっぱいなので、そこに思い至ることもなく眉間の皺を深める。
「仕方ねえだろ、腹立ったんだから」
「そ、そんなの勝手すぎるよ……」
「うるせえな、ほかの男のこと見んなって思っちまったんだからしゃあねえだろ!」
「別に、そういうのじゃないし。ただの職場の同期だよ。そういう空気になんかならない。私モテないし」
 なぜ私がこんな自虐じみた、言い訳のようなことを言っているのだろう。誰に対する、何に対する言い訳なのだろう。もやもやとした思いを抱きながら、私は影山の言葉に言葉で返す。

 言い返しながら、何とも形容しがたい思いがふつふつと心の底から湧き上がるのを感じる。けれどその思い、感情──それは恋心を構成するようなあたたかだったり、心躍るような類のものでは到底なくて、どちらかといえば──空虚で、がらんどうで、もの悲しい。そういう感情。
 ああ、やっぱり私はもう、影山のことを好きでいつづけることが苦しいんだ──と、その時はっきり自覚した。嫌いになんてなれない。だけど、好きでいることはきつい。

 きっとこれから先、影山は何度だってこうやって無自覚に私を振り回す。恋人同士にはなれないのだと一線を引いておきながら、私が律儀に守っているその一線を、自分勝手に乱していく。
 そこに悪意や害意はなく、いっそ他意など一切なく──影山はただ自分の思うまま、私との『友情』を履行しているだけなのだ。分を弁えることなく、いつもそうであるように。今までそうであったように。

 だけどそんな無遠慮な『友情』に、恐らくこれ以上私は耐えられない。自分から『友達』になろうと持ち掛け、自分から『友達』のままでいいと言ったのに、それでももう、これ以上は限界だ。情けなくて、不甲斐なくて、どうしようもない意気地なしだと思う。曲げられない芯がないのかとも思う。だけど、そんなものは私にはないのだ。ただの大学出たばかりの新社会人女子に、そこまで大仰な確固たる信念を求められても困る。

 私は、もうこれ以上影山を待つことも、期待することもできない。疲れてしまった。

「──私の告白断ったくせに」

 私の声に、影山が小さく肩を揺らした。
「彼氏になんか、なってくれないくせに」
 声は震えない。心を揺らして涙を流せるほどの気力は、今の私にはもう残っていないのだ。ただ淡々と、目の前の影山に、思い浮かんだ言葉を、本心を、そのまま弱弱しくぶつけるだけだ。
 影山の気持ちを慮る余裕さえ、私には欠片も残っていない。
「本当、影山は勝手だよ」
 勝手で、身勝手で、自分勝手だ。
 好きでもない女に、ほかの男と親しくするなという。ほかの男と親しくされると不快だと、そう言う。そんなのは思わせぶりで、自分勝手でしかない言葉だと思う。そんなことを言われたら、影山のことを好きでいる私がどう思うのか、それにすら影山は気付かない。私が影山のことを好きでいることは影山にとってはもう普通のことで、だから私が影山以外の人間を好きになるかもしれないことを──たとえ実際はそんなことはなくたって、影山は面白く思わないのだ。

 もちろんそれは私の勝手な憶測で、何の証拠も事実もない。影山の言葉を深読みし、拡大解釈しているだけだと言われればそれまでだ。
 それでも、私にはそう思えてしまった。けして私の方を向きもしないのに、私が影山の方を向いていることを当たり前だと影山が思っていると、そう、思えてしまった。
 けれどそんな無理が長続きしないことを私は知っている。知らないのは影山だけだ。まっすぐにバレーを好きでいつづける影山には、きっと私の気持ちは分からない。見返りがないと持続できない思いがあることを、そういう人間がいて、そういう人間の方が多いということを、影山はきっと知らない。知ることもない。こんなにも近くにいるのに。

「ほかの男とどうのこうのなんて、そんなこと言われたって──私は困る」
「……なんで困るんだよ?」
 この期に及んでまだ理解も納得もしていない影山は、怪訝そうに言う。いつもと事情が違うことは察しているのだろうけれど、それ以上のことを影山が自分で気が付くことはない。なんだか脱力してしまった。
 影山のこういうところが好きなはずで、今だって多分好きだけれど──このままではきっと、こういうところから順番に嫌になってしまうんだろう。嫌にならないためには、期待するのをやめるしかない。あるいは、関係を変えるしかない。
「だって、そんな風に思わせぶりって言うか……なんかそんなこと言ったって、別に影山は今まで通りなんでしょ」
「今まで通り──」
「そう、今まで通り。だけどね、もうそんなの無理だよ、困る。私はもうこれ以上影山のこと待てないし、待たないって決めたんだから」
 本当は決めてなんかいない。いつだって私は臆病で、優柔不断で、そうありたいと、はっきりしたいと思っているのにまだぐずぐずと迷っている。頭では分かっていても、心が決め切れない。どうしたって心が残ってしまう。

 だから殊更に強い言葉ではっきりと、私は影山に言う。自分に言い聞かせるみたいに、言葉にすることで事実にするために。
「見込みのない希望に期待するのはもうやめるの。夢ばっかり見てないで、現実を見て、地に足つけて生活するの」
「……分かんねえよ、言ってる意味も、全部」
「分かんないならそれまでってことじゃん」
「意味分かんねえ。何勝手にやめてんだよ、つーか何をやめるんだよ。何も始まってねえのに、何をやめるんだよ」
「始まってないって、影山が始めてないだけだよ。気が付いてないだけだよ」
「だからもっとはっきり言えよ」
 いい加減じれったそうな声で怒る影山に、唐突に悲しい気分になった。どうして影山には分からないんだろう。どうして私は影山に分かってもらえないんだろう。影山と知り合って、友達になってもう七年だ。私は誰より影山と親しくしているし、影山は、バレーの次くらいには私と近しくしてくれている。
 それなのに、こんなにも私と影山は今断絶していて、向かい合って会話をしているのに、思いが交差することはなく、ただただ言葉は平行線をたどっている。

「影山には私が誰と仲良くしようが、文句を言ったり口を挟む権利はない」
「あ? なんでだよ、あるだろ」
「ないんだよ。だってそれは、友達の口を出して言い範囲を逸脱してるから」
 影山にも分かるよう、言葉をより分かりやすいものに変換して言う。友達の領分の逸脱。線引きをした範囲を超えるということ。そんなことを繰り返すなら最初から線なんて引いていないのと同じじゃないか。私は影山のためを思って、影山のために線を引いて、自制しているのに。当の影山がそれを等閑にしていいはずがない。
 少なくとも私はそう思う。
「んなこと言われたって、しゃあねえだろ。思っちまうもんは思っちまうんだから」
「思うだけならいいけど、言わないでよ。言われても困る」
「言わねえとすっきりしねえだろ」
 影山はてこでも動かぬ姿勢で、自分の主張を曲げる気はないらしい。いい大人が何を頑固になっているんだと呆れ果てるけれど、影山からしてみれば頑固になっているのは私の方だろう。私が正しいことを言っている。絶対にそのはずなのに、だんだんと自分の決心が揺らぎ始めていくのを感じる。

 ──このままじゃいけない。
 そう思った。このまま平行線の話し合いを続ければ、遅かれ早かれ私は影山に負ける。負けて、今まで通り影山に振り回されながら影山を諦めきれないままだ。それだけは嫌だった。もう、私はこれ以上自分を消耗したくない。
 だから、奥の手を使うしかなかった。
 大きく息を吸い込む。昼間の暑さはどこへやら、ひんやりとした空気が肺をいっぱいに満たしていく。
 大きく何度か深呼吸をして、それから私は気合を入れなおすために拳を握った。不満げな顔をしている影山を見つめる──いや、睨む。

「ほかの男のこと見るなって言うなら、その代わりの約束がちゃんとほしい」
 私の言葉に、影山はうろんな顔をして首を傾げた。ここまでの話し合いの間、影山は終始意味が分からないというような顔をしているけれど、一度仕切り直したことで先ほどまでよりは少しだけ、苛立ちは抑えられているように見える。
「……約束ってなんだよ」
「恋人同士になってほしい」
 影山が息を呑んだ。

 このまま影山に片思いを続けることは、私にとっては苦しいばかりで何もいいことがない。感情の問題である以上、そう簡単に好きになった、やっぱりやめたというわけにはいかないけれど、好きでいることをやめようと思うことはできる。そして私はその選択をしたいと思っている。
 けれど何故だか影山はそういう風に物事が進んでいくのを面白く思わないらしい。私がほかの、影山以外の男の人と親しくするのは気にくわず、そのくせ自分は私に主張を押し付けるばかりで私の意見を聞こうともしない。
 そんなのはフェアじゃない。これまでは私も惚れた弱みで影山の言い分を聞いてきたけれど、いつまでもそんな風ではいられない。私にだって我慢の限界がある。

 私が影山を諦めることができないのであれば、影山にこちらを向いてもらうしかない。突拍子もないことだし、それこそ感情の問題を言葉で解決しようとするのは浅はかだけれど、しかし、これしかもう今の私には思いつかない。友情を続けていけないのであれば、友情以外の場所に移動するしかない。それでなくては私と影山の縁はここまでで終了だ。
「恋人になる。なってもらう。それ以外に解決策は思いつかないし、影山が思いつかないならそれしかないと思う」
「──それは」
「恋人らしいことができないとか考えられないならそれでもいい。『恋人』っていう名前だけでいい。だけど、恋人じゃない人からほかの男を見るななんて言われても困るし、今後そんな約束もできない。私、影山のことが好きだけど、今まで影山だけを好きでいられたのはたぶん、奇跡みたいなものだよ」
 影山は黙っていた。黙って私の話を聞いていた。多分、いろいろなことを考えているのだろう。影山にとっては『恋人』は未知だ。

 思えば、ずっと影山に片思いをしていた私と同じかそれ以上に、影山にとっての『恋人』とは実感の湧かない存在だろう。明日から急に『恋人』にクラスチェンジをしろと言われたところで、影山にはそれがどういうものなのか想像もつかないと思う。
 それでも、そのくらいの無茶を要求する権利は私にはあるはずだ。駄目なら駄目で仕方がない。けれど影山の無理を通す以上は私の無理だって通す。それがフェアというものだろう。
 何も何か特別なことをしてほしいとは思っていないし、要求もしていない。私はただ『恋人』になってほしい。それならばまだ、影山からの無理にも納得できるはずだから。そんな関係の名前に意味があるかと問われても困る。私にとっては重要だ、としか言いようがない。

 影山は熟考した末、やっと一言
「何もしてやれねえぞ」
 とだけ言った。
「うん」
「……バレー優先だし」
「知ってる」
「今までと何も変わんねえと思う 」
「それでも。ほかの男にいかないように、ちゃんと私を『恋人』にしておいてよ」
「……わかった」
 それで全部で、それだけがすべてだった。私と影山は『恋人』になって、けれど好きだとかいう言葉を交わすこともなく、手をつなぐこともなく。視線すら合わせないまま帰路に就き、そして分かれ道で手を振って別れた。

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