episode 23
影山からの返信はまだ来ない。溜息をつきつつ携帯をかばんに戻すと、チャッピーが横から差し出したドリンクメニューに目を遣った。まだまだ宵の口、梅酒二杯程度ではほとんど素面のようなものだ。
「杏子酒、水割りで」
ちょうどやってきた店員さんにオーダーし、改めて室内を見回す。どこのテーブルもそれなりに空気が出来上がっている。私は私でここでちびちびお酒を飲んでいるのでまあまあ満足なのだけれど、いつまでもチャッピーをそれに付き合わせるのは申し訳ないものがあった。
「チャッピー、私のこと別に気にしなくていいからほかの人とも飲んできていいよ。もう少ししたら私お暇するし」
「え、そうなの? 門限?」
「いや、一人暮らしだし門限とかはないけど、明日から仕事だしね。みんなみたいに遅くまで飲んで次の日起きられる自信もないし」
それに、あんまり遅くまで飲んでいたいような気分でもなかった。もしかしたら影山から連絡が来るかもしれないと思うと、どうしても飲み会中だというのに気もそぞろになってしまう。折角飲むなら万全のときに楽しみたいというものだ。
私の言葉に、チャッピーは「そっかあ」と本心から残念そうな声で言ってくれた。社交辞令であってもありがたいことだ。
チャッピーは私の隣から移動することもなく、私の杏子酒と一緒に運ばれてきた生ビールを受け取ると「かんぱーい」とジョッキとグラスを合わせた。これ以上言葉を重ねると却って感じが悪くなりそうで、ひとまずは乾杯して一緒に飲み続けることにする。
ちらりと時計を確認する。飲み会が始まってから一時間も経っていなかった。
「そういえばどの辺住んでるの?」
帰りの時間を気にしていると思ったのだろう、チャッピーが尋ねる。
今私たちが飲んでいる居酒屋は会社から二駅ほどのターミナル駅から徒歩三分ほどにある。私の家はこの駅から会社方向に五駅。こっちもそこそこに大きい駅で、駅からは歩いて十分ちょっとのマンションである。会社からは電車で三駅という距離もさることながら、うちの最寄り駅はそのまま影山の会社の最寄り駅でもある。即ち、影山の住んでいる社員寮は私のマンションのごく近くだった。
もちろん、狙ってのことだ。何せ、影山に最寄り駅を聞いた時点でその近くという条件で物件探しを始めたくらいだ。私にとって都合がよかったのは、影山の会社および社員寮があるというその地域は、治安や利便性の割にはマンションの家賃が安く、ついでにほとんど新築同然のマンションが前の住人の事情でタイミングよく空いたということだった。これは最早、この地──影山のすぐ近くに住めという神からの天啓にほかならない。
まあその天啓を受けたときには私はまだまだ影山への恋心を絶賛燃焼真っ只中だったのに対して、今はちょっとだけ、ちょっとだけ下火になりつつあるわけだけれど。そのことは今考えても仕方がないことだ。
ところで、私がそのマンションに住居を定めたと影山に話すと、影山はなんだか微妙な顔をしていた。けれど、それについて特に何かを言うということもなかった。相変わらず影山はうちにご飯を食べにくるし、練習がない日には私と出掛けたりもする。結局高校から大学に進学した時と同様に、学生から勤め人にステップアップしたところで私と影山の関係は大きく変化することもないのだった。
と、そんなことを思いつつ──当然ほとんどストーカーじみた経緯で住む街を決めたことは伏せ、
「あー、△△駅」
とだけ私は答える。私たちの勤める会社からも近いので、チャッピーは特に不審に思った様子もない。恐らくだけれど、うちの会社の人で同じ駅周辺に住んでいる人は少なくないのだろう。
「ふうん。家、駅から近い?」
「まあまあ」
「帰るとき送って行こうか?」
「いいよ、悪いし。そんなに時間も遅くないしね」
それに、うちから駅までは比較的明るい道が続く。交通量も多いので、たとえ少しくらい遅くなったところで危ないこともない。
結局、それから一時間ほどで私は飲み会を抜けて帰ることにした。私が抜けたときにはまだまだ飲み会も半ばくらいで、むしろこの後二次会や三次会くらいまで軽く続きそうな勢いだった。いつまでも大きく手を振ってくれるチャッピーに「また明日」と挨拶をして、私はそそくさと店を出た。
電車に揺られ、住み始めたばかりの街に戻ってきたのは九時半頃だった。夜といってもまだまだ早い時間だ。あんまり飲んでいない分料理はしっかり食べたので、お腹は膨れている。チャッピーが次から次へと私の皿に料理を盛るせいで、惰性で食べ過ぎてしまった。というかいっそ満腹すぎて気持ち悪いくらいだ。なんなんだ、チャッピーは私のお母さんか何かなんだろうか。
一人暮らしをはじめてからというもの、影山と一緒にご飯を食べることが多いせいで食事を作りすぎ、実家にいるころよりむしろ太った。ブラウスでやんわり隠された腹部に罪悪感を感じつつ、電車をおりた。
一応あたりを窺ってみるけれど、当然、駅に影山の姿はなかった。当たり前だ、帰宅時間を示し合わせたわけでもない。そのまま着信のない携帯とにらめっこしながら改札を出る。
帰りがけにそういえば洗濯が溜まっていたっけ、と思いだす。けれど今日はもう時間が時間だし、家に帰ったら洗濯機の予約をして、明日の朝洗濯をしよう。洗濯洗剤ってまだあったっけ?
吸い込まれるように、そのまま駅を出てすぐのコンビニに入った。洗濯洗剤と、それから目についた適当な雑誌──『今年の夏こそ彼を落とす、美ボディへ』という見出しの、ビキニ姿のモデルが表紙の雑誌を中身も見ずに手に取る。美ボディねえ。このややふわふわとしてきたお腹を見せる相手も私にはいないわけだけれど、そもそも彼を落とすために磨くべきは服を脱いだ先ではないのでは? と、そんなことをつらつらと考える。少なくとも、私は影山に付き合うまでにお腹を見せる機会があるとは思わないし、かりにそんな珍事があったところで、影山が体つきで私に惚れてくれることなど万に一つ、いや億に一つもないだろう。
頭では分かっているのに、それなのに私は何故こんな雑誌を買ってしまうんだろう。自分の理性と正直な欲望のギャップにほとほと呆れる。それでもまあ、たまにはいいか。
無事に買い物を済ませコンビニを出る。
と、そこで。
「あ、影山」
思いがけず、思考の中心にいた人物が大きなエナメルバッグを肩から袈裟懸けにして、ちょうどこっちへ歩いてくるところだった。思わずどきんと胸が鳴る。けれどすぐ、その手元に携帯があるのに気が付いてむっとする。なんだよ、携帯触ってるなら返信くらいできるだろ。
そんな私の胸中などいざ知らず、影山は私に気が付くと「お」と短く発して、携帯をジャージのポケットにしまった。
社会人になってもジャージを着ていることがほとんどの影山は、もとの顔の幼さも相まってまだまだ学生にしか見えない。仕事の日はもちろんもう少しきちんとした格好をしているけれど、それもほとんどが内勤なのできっちりとネクタイを締めていることはまずないと言っていい。
影山もちょうど今自宅に向かうところのようだった。
「ほかのチームメイトの人たちは?」
「飲みに行った」
「影山は? 行かなくていいの?」
「俺は眠い」
協調性のないことこの上ないけれど、影山はそれでもある程度許されるキャラをしている。まったく、なんともお得なキャラだ。とはいえ私も飲み会を勝手に早抜けしてきた身なので、あまり影山に強く言える立場ではないのだけれど。
家の方向が同じなので、なんとなく並んで一緒に歩き出す。正直、疲れているから駅から家まではタクシーに乗ろうと思っていたのだけれど、影山と一緒なら話は別だ。
「こんな時間まで何してんだよ?」
何の気なしに影山が言う。今日は飲み会だとメールで話してあった気がするのだけれど、覚えていないんだろうか。まあ、覚えていないんだろうな。影山だし。
「職場の一年目飲み会。けど、なーんか肩凝っちゃったよ」
「うわ、酒くせえ。寄んな酔っ払い」
「ひどい」
酒くさいと言われるほどの量は飲んでいないし、意識だって明瞭だ。本気で酔っぱらったときの影山の方が酒くさいじゃないか、と言おうとして、しかしそれは別に今は関係ないと気が付く。それに何でもかんでも反論する元気も、今はない。
だから、代わりに労いの言葉をかけて話の方向を戻した。
「そういう影山は合宿おつかれー。大変だね、明日から普通に仕事あるんでしょ?」
「あるけど、明日は午後の練習ねえから。朝も遅出だし」
「なるほどねえ」
さすがに合宿の翌日に通常業務をこなすことを求めるほど、とんでもない会社ではないらしい。自分のことではないけれど、少しだけ安心した。私こそゴールデンウィークの間は気が弛んで毎日遅起きをしていたから、ちょっと気合を入れないと明日は寝坊してしまいそうだ。
そう考えて「あ」と呟いた。結局今年もゴールデンウィークの最終日にこうして影山と顔を合わせている。予定はしていなかったけれど、結果だけを見れば今年も無事、影山と過ごすことができていると言えなくもないのだ。
そのことに気が付いて、少しだけ心がふわりと浮き上がった。これまでの数年は意図的に影山と一緒に過ごすようにしていたけれど、そうしなくたって、私たちはこうやって一緒にいる。やっぱりこれって、神の思し召しってやつなんじゃなかろうか。焦ったり惑ったりしなくたって、いつかは神様のはからいで一緒になれるんじゃないだろうか。赤い糸でつながった、運命の相手みたいなものなんじゃないだろうか──
「何にやにやしてんだよ、きめえな」
最悪なセリフが隣から聞こえ、思わず眉間に皺を寄せた。ついさっきまでの楽しい浮かれた気分が一気にぶち壊しだ。こんなに一途に思ってる人間に対して、どういうぞんざいな扱いをする気なんだ、影山よ。
ちらりと横目で影山を見る。まだしつこく酒くせえだとか文句をぶつぶつ呟いている影山に、なんでそもそも私は影山なんかにいじらしく片思いを続けているんだと、己を呪ってしまいそうになる。いや、自分で自分をいじらしいだなんて言うのはさすがにちょっと自分を良く評価しすぎか。いじらしいというか、いっそいじましいというか。
本当に、どうしてこんなことになってしまっているのだろう。呑気な顔の影山に溜息をつく。影山よりも好きな人ができなかったというのは事実だけれど、それだって、もしも私が早々に──影山にフラれた時点でその気持ちをすっぱり諦めていたのなら、多少は違った結果が得られた可能性だってある。
影山に告白をしてからというもの、私はいわゆる『出会いの場』には一度も顔を出していない。合コンはもちろん、ちょっとでも色っぽいにおいがしそうな場にはまったくといっていいほど近づかなくなった。
それはひとえに、影山に対する義理立てだ。好きだと言ったのにほかの男を探すような真似をする女だと思われたくなかったし、何より、もしもほかの男の人を見て『いいな』と思ってしまったら、それは自分にもその男の人にも、影山にも、誰に対しても不誠実である気がした。不誠実で、不実だ。影山を好きでいる資格を失う気すらする。
けれど、それも私がただ意固地になっていただけなのかもしれないと、此処に至って私はそんな風に思っていた。合コンだって何だって、結局は影山には言わなければ分からないことなのだ。そして私は影山の彼女ではなく、影山は私の彼氏ではない。私が自分の思いを受け入れてくれない影山以外の男性を視野に入れたって、それは別に悪いことじゃなかったはずだ。大学時代の友人たちにだって何度も言われてきた──「ほかの人も見てみなよ」。
私は結局、生まれたばかりの雛みたいに、最初に好きになった影山に執着してるだけなんじゃないだろうか。最初に好きになってしまって、それからずっと一緒にいる影山のことをこの上なく特別で素敵な人間だと、そう思い込みたいだけなんじゃないだろうか。
その可能性を考えた瞬間、うっすらと背筋が寒くなった。思わず両腕で自分の身体を抱く。いや、そんな、ここまでの数年間を真っ向から否定するような、そんなことを考えたくはないけれど。でも、そういう可能性だってあるわけで。それならばせめて、これ以上実らない思いを抱えているよりも、早いところ方針転換をした方が──
と、その時鞄ごしに僅かな振動を感じた。
「ちょっとごめん、電話かかってきた」
影山に断りを入れてから鞄の中の携帯を取り出す。画面を見るとアプリでの通話画面が立ち上がっており、発信者はついさっきまで一緒にいたチャッピーだった。
「チャッピーだ」
「は? チャ……?」
「チャッピー。同期の男の子」
説明しながら画面を指先でスライドして電話を受ける。電話口の向こうからは静かなざわめきが聞こえた。まだ飲み会の最中だろうか。もしそうだとしたら何の用だろう。何か忘れ物でもしたとか?
「もしもし、名字さん?」
「あ、おつかれさま」
「おつかれさまって、飲んでただけだけどね。まあいいや。名字さん、もう家ついた?」
「まだだけど、もうすぐ着くよ。何かあった?」
「別に、何もないけど。ちゃんと家帰れたかなって思って」
「あはは、やだなあ。チャッピー心配性だ」
「心配性じゃないって。女子相手だったらそのくらい気遣うって普通に」
「うっそ、それ普通じゃないよ、絶対。チャラい人だよ」
なんだか自分の中でわだかまり燻っていた重い何かが少しだけ軽くなっていくような気がして、私は思わず笑みをこぼす。電話の向こうでチャッピーも笑っていた。
「今ひとり?」
「え? いや、人と一緒にいる」
「なんだ、この後予定あったんじゃん。それならそうと言ってくれたらよかったのに」
「えー、違う違う。そんなんじゃなくて、駅でばったり会っただけだから」
「あ、そうなん? じゃあ連れの人に悪いしそろそろ切るわ。ていうか今日もうちょっと話したかったのにな、この後また電話していい?」
「この後? いいけど、チャッピー飲み会じゃん」
「そっちは大丈夫、俺いなくてもみんな楽しそうだし──」
残念ながら、彼の言葉はそこまでしか聞き取ることはできなかった。そこから先、チャッピーが何を言ったのか、言わなかったのかは分からない。何故なら、ずっと私の隣にいた影山が唐突に私から携帯を取り上げ、そのまま通話を切ってしまったからだった。その行動のあまりの素早さに、私は何も抵抗することができず、それどころか声を上げることすらできなかった。思わずぽかんと影山を見る。しかし何故だか影山も、私に負けず劣らずのきょとんとした顔で、自分の手の中にある私の携帯を、茫然と見ていた。
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