episode 22

 自分の前に置かれた梅酒をじっとり睨んで、私は溜息をつく。大人数を収容できるよう居酒屋の宴会場を貸し切った今日の懇親会には、昨年の秋以降、何度か話したことのある同期たちが十数人。近しい部署の同期だけを集めたという割にはかなりの人数が参加しているけれど、そのせいで色々な人と話すのに疲れてしまった私は、さっきからひとり、座敷の端っこでちびちびお酒を舐めている。

 春から社会人になり、大体一か月になる。ついこの間までは新入社員全員で全体研修をしていたけれど、ゴールデンウィーク明けの明日からはいよいよ自分の部署で実地研修が始まる。
 この研修期間が長いのか短いのか、それはさておき、それぞれに部署が決定したこともあって、今後の業務上の協力を深めるためにも──という名目で設定された今日の懇親会である。
 会社には遊びにきているわけではないし、人づきあいも得意じゃない。会社の人たちとは、たとえそれが同期であってもそこそこに親しくしつつ、あまり深入りするようなことはやめておこうというのが、入社時に自分で決めたルールだった。第一希望の会社に入社できたのだ。業務以外のところで余計な心労の種を作りたくはない。

 今日の懇親会には付き合いで参加しているけれど、それだって本当ならば参加したくなかったのだ。何故なら今日はゴールデンウィークの最終日で、例年のならわしからいけば私は影山と過ごすはずだったのだから。

「名字ーっ、何一人で寂しく飲んでんだよ」
「チャッピー……」
「うわっ、暗っ」
 同期の男子、今回の幹事役を引き受けているチャッピーがやたら親し気に近付いてくると、私の横に腰をおろした。本名は何と言うか忘れてしまったけれど、昨年あった内定者の懇親会の頃から周りがみんな彼を『チャッピー』と呼んでいるので、私も何となく『チャッピー』と呼んでしまっている。とはいえ、本人はそんなキャッチ―でファンシーなあだ名など似合わないタイプの、すらりとした今風の文系男子である。

 そんな彼ことチャッピーは背の高さでこそ影山に及ばないものの、顔面偏差値は正直あの影山といい戦いをするレベルだし、何より影山にはないコミュニケーション能力を持っている。
 今回の懇親会も、言い出しっぺは別の騒ぎたいだけの男子だったらしいのだけれど、それでも特に不満を言うことなく自ら幹事を引き受けたというから凄まじい傑物だ。おまけに私のようなはぐれ者までこうして気にかけてくれるとは、まったく頭が下がる。

 そのチャッピーは、隅っこでひとりいじいじとしている私を発見し、わざわざ話しかけにきたようだった。私の梅酒の横に自分の生ビールのジョッキを置き、それからわざとらしく私の顔を覗き込む。
「なんでそんな落ち込んでんのか当ててやろっか? 例の彼氏から返信が来ない」
「……影山は彼氏じゃないよ」
「そういう細かいことはいいじゃん。ね、大体正解でしょ」
「二割くらいはね」
「ほぼ正解ってことじゃん」
「どういう計算?」
 適当なことをふかすチャッピーを横目で睨む。まあまあ、と笑ったチャッピーはまったく悪びれた様子がなかった。

 そも、なぜチャッピーが私と影山のことを知っているのかといえば、チャッピーが大学時代にバレー部に所属していたこと、そして内定者の懇親会から四月の入社までの期間で何度か私と影山が一緒にいるところを見かけたから、らしい。
 私のような人間とは違って、チャッピーは一度言葉を交わした相手の顔をちゃんと覚えられるという、まあ何ともしっかりとした人間である。内定者懇親会では挨拶と当たり障りない会話くらいしかしていない私のことも、チャッピーはばっちり覚えていてくれていた。その上どうやら大学時代の私とチャッピーは行動圏内がそれなりに近かったようで、それで入社してすぐの頃に影山の話を聞かれたのだった。
 幸いにしてチャッピーは口が堅いタイプなので、私が影山相手に実るとも思えない片思いを続けている痛いメンヘラ女だということは、まだ同期のみんなにはバレていない。けれどチャッピーはしっかりそのネタを面白がっていて、こうして機会さえあれば私を揶揄ってくるのだった。

 自分はさぞおモテになるのだろう。私の影山への片思いの話は、そんなモテ男のチャッピーにとっては面白くて仕方がない携帯小説のようなものらしい。まあ大学時代の友人たちにも『希少種』としてよく話をせがまれていたので、気持ちは分からなくはない。けれど当事者である私からしてみれば、こうもままならない恋愛を娯楽として消費されてはたまったものではない。いい加減、どうにかしたいのは私だって同じだというのに。

 私の心中を察したのか、できる男ことチャッピーはとんとんと私の肩を励ますように叩いた。こういうちょっとしたボディタッチにも下心とかいやらしさみたいなのがまったくないところがチャッピーの凄いところである。
 肩を叩いたチャッピーは人のよさそうな笑顔を浮かべて言う。
「いい加減、不毛な片思いは諦めたらどうよ?」
 不毛。たしかにそうだ。自分でだって何度も『不毛だ』と思ってきた。しかし同じ言葉でも人に言われると、しかも軽い口調で貶してくる女友達じゃない、異性であり、影山と同じ男性であるチャッピーに言われてしまうと、さすがにちょっと重いものがあった。
「ううう……だって……」
「だって?」
「好き、なんだもん……」
「いい大人が『もん』とか言ってんじゃないよ」
 今度は盛大に笑い飛ばされてしまった。少しだけ恥ずかしくなって、テーブルの上の梅酒を手に取るとグラスの半分ほど残っていたそれを一気に飲みほす。傍らのチャッピーが「いい飲みっぷりだね!」とまた笑った。

 こうやって飲み会にでも出ていれば、ちょっとは影山不在で落ちたテンションも戻るかと思っていた。私のスタンスがどうあれ、職場の同期はいい人ばかりだ。チャッピーはもちろんだけれど、男子も女子も、基本的にはよくできた人が多いと思う。
 けれどそれはそれ、これはこれ。飲み会に顔を出してみたところで、影山不在の穴はやはり埋められない。

 そもそも、ゴールデンウィークの最終日まで合宿があるなんて方が異例なのだ。影山に聞いたところ、例年ではゴールデンウィークの最後ふつかは毎年オフになっているところだけれど、今年は祝日の日数の関係でうまく調整ができなかったらしい。翌日からは仕事だというのに、今日も遅くまで影山はバレーに勤しんでいる。
 もちろん、私と影山は付き合っているわけではないし、ゴールデンウィークの最終日には必ず一緒に過ごそうと約束を交わしているわけでもない。あくまでも毎年のならわしというだけだ。
 だから落ち込んだところでそれをどうすることもできず、せいぜいがこうやってアルコール摂取しながらいじけるくらいのものだ。

 それでも、影山だってこの日に会えないことをちょっとくらいは残念に思ってくれてもいいのに。
 合宿に出発する前の、影山の晴れやかでウキウキした顔を思い出す。そこからは『例の日に一緒に過ごせなくて残念だ』なんて思いは微塵もうかがえず、むしろ休みのギリギリまでバレーに没頭できる喜びでいっぱいだった。
 合宿になると連絡が途絶えるのもいつものことだけれど、それでも、この時間ならばとっくに帰りのバスだか新幹線だかの中のはずなのに。なんだよ、なんだよ。そりゃあ私の片思いなんだから影山に期待なんてしていないけれど、少しくらいはこう、報いるものがあったっていいんじゃなかろうか。

 そうじゃないと、私、そろそろ燃料切れになるかもしれない。

 そんなことを思って深く溜息をついたところで、チャッピーがまた「まあまあ」と話しかけてくる。私が話をぶつ切りにしたのにも堪えていないらしい。
「不毛な恋愛はひとまず置いておくとして、新しい恋愛も同時進行で探してみたらいいじゃん」
 と、存外タイムリーな話題を出されて思わずどきりとする。今まさに、影山への片思いの燃料切れの可能性について思案していたところだったので、もしやチャッピーには読心術の心得があるのでは、と一瞬警戒する。
 けれどさすがにそんな明後日の方向に向いた心配までは読めなかったらしく、チャッピーはにこにこ呑気に続けた。
「名字さんは気付いてないかもしれないけど、今年の新人の男子連中の中でさ、名字さんって実はちょっと人気あるんだよね」
「ええ? そんなまさか」
 寝耳に水──というかまったく信憑性のなさそうな話題に、思わず私はうろんな目でチャッピーを見る。相変わらずにこにことしていて掴みどころのないチャッピーは、私の不審者を見るのと同じ視線にも動じない──どころか、むしろさらに笑みを深める。もはや紛うことなく不審者である。
 不審者はなおも続ける。
「本当本当。男が集まったらまあ当然どの子がタイプみたいな話するけど、名字さん人気まあまああったし」
「まあまあって。逆に失礼だな」
「入社前の懇親会のとき、何人かから声掛けられなかった?」
「か──」
「ん?」
「掛けられてないけど」
「あれー?」
 あれーじゃない。私はチャッピーの肩をぐーで軽くどついた。大袈裟に痛がる振りをするチャッピーに溜息がこぼれるけれど、そういう色っぽい意味での声なんか一度たりともかかったことはないので、この場合の私のグーパンチはちょっと期待させられた分も上乗せされた正当なパンチである。

 そもそも、私が今こうしてチャッピーに構い倒されていることから察することができる通り、私には同期の中に特別親しい人間はいない。そりゃあ一か月の間一緒に研修をした仲なので、エレベーターで一緒になれば言葉も交わすし、食堂で会えば一緒にご飯も食べるだろう。
 けれど、それだけだ。当たり障りない、表面上のそこそこの付き合いであって、それ以上でも以下でもない。それ以上やそれ以下を求められたこともない。チャッピーだけはやや例外だけれど、この人の場合はデフォルトの距離感がまず狂っているのだろうからノーカウントだろう。だから、チャッピーの話は信憑性がなく、実感もまったくない。嘘だよ、と言われた方がまだしもしっくりくるくらいだ。

 影山以外に、私にとっての『当り障りない距離』を超える男性などそうそうおらず、あるいはそう易々とそのラインを割らせることもなく──私はそうやって、この数年を影山への恋心という、半ば執念じみたものだけをよすがにやってきた。もしも実際に私に少なからず好意を抱いてくれている人がいたとしても、その気配を察した時点で私は少しずつ、しかし着実にその誰かからフェードアウトしていったはずだ。
 けれど、影山への恋心を自覚してまる四年。大学生活をまるまる影山への片思いに捧げた私は、今こうして影山不在のタイミングでその恋心に一抹の不安を覚えている。
 果たして私はこのままでいいのだろうか。影山のことを好きでいていいのだろうか。
 そこまで考え、私は気付く。
 いや、違う。本質はもっと自分本意な部分。

 私は、このまま影山に恋をし続けられるだろうか。これまでの数年と変わりなく、私は影山から与えられるものを友情だけでいいとそう言ってきたけれど、果たしてその友情だけで私は恋心をどこまで持続できるだろうか。今私が抱えているのは、そういう不安だ。

 不毛というなら、それはまさしくその通りだろう。文字通り、不毛。
 痩せた土地では実る希望も実らない。かといって影山から新たな栄養が与えられるわけでもないので、私はただ、自分がもとから蓄えていた土地の養分だけで実る保障もない思いを育て続けている。けれど、それにだっていつか限界は来るだろう。
 友情を育むにしてはこれ以上ないほど豊かな土地であっても、そこは恋心を育むにはあまりにも土が合わなさすぎる。合わない土地でいくら躍起になって恋心を育てようとしたところで、やがていつかは枯れ果てる。そんなことは分かっていて、分かっているから今、こうして私は焦っているのだ。
 このまま私は、不毛だと知っている場所に留まるべきなのか。
 それとも、実る見込みのない思いなどには見切りをつけ、新しい場所へと向かうべきなのか。

 きっと影山とは恋心をなくしたところでうまくやっていけるだろう。それならば無理して恋心に縋る理由はないんじゃないだろうか。高校時代と同じ関係に戻れないと決めつけているのは私ばかりで、影山はきっと、そうなったらそうなったで私を受け入れてくれる。それが影山飛雄という人間だ。

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