episode 20

「温泉気持ちよかったねえ」
「おう」
「男湯も景色よかった?」
「まあまあ。海見えた」
「うわー、やっぱ最高すぎる」
 そんな会話を交わしているのは、満腹になったお腹をさすりながら乗り込んだ車の助手席でのことだった。日帰り温泉とホテルディナーを楽しみ、その帰りのことである。
 ゴールデンウィークの最終日、たまには日帰りで遠出でもしようという提案をしたのはもちろん私だった。いつものように一緒に夕飯を食べていたある日のことである。雑誌で紹介されていた温泉は見るからに最高で、そしてその提案を了承した影山がレンタカーを借りてきて一緒に温泉まで繰り出した、というわけである。大体いつも通りの流れである。

 しかしいつも通りの流れといえど、うちの近所でちょっと買い物、というのはわけが違う。何せ、われわれの目的は日帰り旅行。行き先は温泉。自宅とバイト先と大学を順番に回るのとは違う、完全なる非日常だ。
 その上、付き合っていない男女という微妙な距離感で日帰り温泉なんて、心が浮つかないはずがない。
 ──まあ、特に何ということもないままこうして東京に帰還しようとしているのだけれど。

 高速道路は空いていて、このままだと三十分もしないうちに家に到着するだろう。窓の外を眺めて溜息をつく。運転席の影山は慣れた手つきでハンドルを傾ける。
 大学四年のゴールデンウィークといえば、就職活動真っ只中、ピリピリした時期である。斯くいう私もまだ内定をもらっていない就活生のひとりであり、けして呑気に温泉を楽しんでいる場合ではない。
 とはいえ、学生生活最後のゴールデンウィークだし、ゴールデンウィーク中には就職活動らしい活動もない。しっかり息抜きをして休み明けからまた頑張ろうというメリハリというか、まあ焦っても仕方が無いというか。とにかく大学生活最後のゴールデンウィークは私にとって、なんだかあんまり緊迫感のないゴールデンウィークであった。

 そして私にとっては焦っても仕方がない就職活動なんかよりも、目下私の恋心を知りながらも「今まで通り」という私の言葉を額面通りに受けとって、何ひとつ変化することのない影山との関係の方が重大な問題である。

 影山に告白してまる一年が経とうとしている。一年前、私が告白をしてからの数日の影山は、まあ多少よそよそしくはあったのだけれど──しかし、それだけだった。告白から一週間も経つ頃には影山はすっかりいつも通りの影山で、そして私たちはこうやってのんびりゆるく楽しい友情を満喫しているというわけで。
 それはそれで楽しいし、影山とつるむのは楽でいい。けれど私の気持ちを完全にスルーされているのは正直面白くないし、なんだかもやもやもする。そりゃあ今まで通りでいいと言ったのは自分なのだけれど、何もそこまで今まで通りに忠実にならなくたっていいものを。

 そんなもやもやを振り払うように、私は目を閉じ、それから大きく息を吸い込む。スピーカーから流れるラジオはCMにも使われている流行の洋楽を流していて、たしかそれは元気な片思いの歌だった。
「温泉楽しかったね、行ってよかったよ」
「だな」
 なんてことない口調で返事をする影山だった。付き合っていない女と日帰りとはいえ温泉にいく神経、果たして影山はそれでいいのだろうかとか、色々と問い詰めたい気持ちをぐっと堪える。そりゃあ相手が気心の知れた私だからというのはあるのだろうけれど、それにしたってアクティビティ系とかそういうんじゃない、温泉だ。ちょっとは何か考えたりしないだろうか──しないんだろうな、影山だし。すぐさま結論を出し、私はまた脱力して溜息をついた。

 そもそも、そもそもだ。今回私と影山が行ったのは日帰り温泉とはいえ、ショートデイユースというプランできちんと客室をとった、歴とした温泉旅行である。宿泊するのには少々お値が張る、大人のためのラグジュアリーなお宿だけれど、このプランならば学生の私たちにでも手が出せる値段設定だった。
 昼すぎにチェックインし、夕方にチェックアウト。言って見れば大人のお楽しみをつまみ食いするみたいなものだ。

 温泉に入っている間は当然男湯と女湯で別行動だけれど、しかしその前にチェックインした宿の部屋は同じだし、お風呂から上がったあとにのんびりするのも同じ部屋、ツインの客室である。ツイン。ツインだぞ。そんなの多少は、多少は、多少は意識してくれたっていいんじゃないだろうか。というか、意識するのが筋であり、礼儀なんじゃなかろうか。女子に対して。私に対して。

 そりゃ私は男の人と未だ付き合ったことがないような恋愛初心者だけれど、まったく男の人の意識を引かないほどの魅力ゼロな女というわけではない──と思う。窓ガラスにうつる自分の姿を見て、今日何度目かの溜息をつく。まったく、影山相手となると色々なことがままならない。

 と、そんなことを考えていたら。
「名字」
「ん? え、なに?」
 不意に名前を呼ばれ、私は運転席の影山に視線をやる。
「何ぼーっとしてんだよ。なんか喋れよ、眠くなるから」
 権高に影山は言った。
 そういえば高速の運転は暇で眠い、と行きの道中でも言っていたような気がする。私は未だ自動車免許を持たないのでその実際は分からないけれど、まあ確かに信号も曲がり角もない直線でひたすらアクセルを踏み続ける作業は単調といえば単調なのだろう。考えている間にも影山は大きく欠伸をする。

 影山には聞きなれない洋楽が流れているのがよくないのかもしれない。そう思い、自分のウォークマンを鞄から取り出すと、それを車のスピーカーに接続した。アップテンポな曲の方がいいかと思い、私たちが高校時代に流行っていたバンドのヒット曲をかける。影山は小さく「お」と言った。流行り物に疎い影山でも自分の世代のヒット曲くらいはちゃんと把握しているらしい。
「で、なんか思いついたか」
「え?」
「なんか喋ってろって話」
「えー、なんかって言われてもねえ……」
 とりあえずBGMを変えたのでその話は良しとしてもらえたかと思ったけれど、そう思っていたのは私だけのようだった。行きも帰りも車を運転してもらっている手前、眠くならないよう話をするくらいは助手席のつとめとして受け入れるしかない。

 とはいえ──言われて思案する。話をするといっても、影山ほどではなくても私だって話し上手なわけではないし、ここぞというときに披露するようなとっておきの小話もない。そも、週に一度以上は顔を合わせている影山に対して話していないとっておきのネタなど今更私にはない。

 うーんうーんと唸っていると、すかさず傍らの影山が不満を漏らした。
「いつもは聞いてもなくても喋ってるじゃねえか」
「なんですぐそういう言い方する?」
 売り言葉に買い言葉で反論したところで。
「あ」
 ぽん、と私は手を打った。これといって面白い話でもないけれど、私と影山の共通の話題──つまりは地元についての話題でひとつ、影山の知らなさそうな話があった。

「この間、お母さんと電話してて聞いたんだけど、私たちが高校の時によく行ってたファミレスあるじゃん、あの、うちの近所の」
「あったな、そんなん」
「あそこ、潰れたらしいよ。後に何が建つのかまでは聞いてないけど」
 それは烏野高校や我が家から割と近い位置にあるファミレスで、同時に田舎には数少ない、若者たちがたむろう場所でもあった。私や影山だけでなく、烏野高校の学生はみな一度は利用したことがあるんじゃないだろうか。学生が長居しても嫌な顔をしないありがたい店だったので、何かしらの行事があればその後の打ち上げに使ったりもしていた。

 話しているうちになんとなく懐かしい気分になってくる。それは影山も同じようで、まじか、と小さく呟いた。
「あそこ、そこそこ流行ってなかったか。烏野生が結構通ってただろ」
「うん。なんでも近くにもっと大きい店建っちゃったとかで」
 私たちの頃にはあのあたりでは唯一のたまり場だったのでそれなりに繁盛していたけれど、しかしここ数年でほかにも学生がたまり場にする店がいくつかできたため、どうしても古い店は客足が遠のいていたと言う。かくいう私も、地元に帰ったところで友人に会うのはもう少し新しいカフェやレストランで、思い出の場所とはいってもわざわざ古いファミレスに行くことはほとんどなかった。

 それでもやっぱり寂しいものは寂しいわけで。お金を落としていない身でどうこう言うのもなんだけれど、自分の思い出の場所が減っていくのは悲しいものがあった。
「なんかあの辺、最近再開発で色々動いてるらしいよ。潰したり新しいの建てたり。田んぼもだいぶ潰したって話聞いた。そういえば相続したか何か分かんないけど、管理できないで何年もそのままになってた田んぼ、結構あったもんねえ……」
「ふうん。まあ便利になるならいいんじゃねえの」
「そういう問題? まあ、私たちは住んでるわけじゃないし文句言う筋合いないんだろうけど──それでもやっぱり、馴染みの場所が変わっていっちゃうのは寂しいよ」
 話は弾まず、残念ながらそこで会話は途切れてしまった。私は再び窓の外の景色に視線を遣り、影山は運転に集中する。

 しばらくそうして高速道路を滑るように走り続け、次に影山が口を開いたのは、車が高速をおりてだらだらと下道を走り始めたころだった。
 運転中なので相変わらず視線は前方に向けたまま影山は言う。
「お前、東京で就職すんだろ? 親、何も言わねえのかよ」
 地元の話をしたからそんなことを考えてしまったのだろうか。言われて思わず私はうなる。

 影山との会話は当り障りないようなことが多いように見えて、実際にはかなり真面目な話が多い。そもそも影山はコミュニケーションとしての会話──親睦を深めるための会話をそこまで重要視していない。相手が気心の知れた私ともなればなおさらだ。だから自然と、会話の内容は必要に迫られて交わす内容か、あるいはいずれ話さなければならなかった内容に偏ってくる。
 就職に関しては、まだ私の就職活動が本格化していないこと、それから影山が通常の就職活動のステップを踏まないというのもあって、今まであまり影山には話してこなかった。言っても分からないだろうことを話すのは不毛だし、影山が影山の人生に必要でないことを──もっと言うのならばバレーと関係ない情報を積極的に知りたがるとも思えない。

 ふうむとわざとらしく顎を撫でて、私はぼそぼそと返事をした。
「まあ、帰ってこいとは言われてるけど。でも実家なんて、出ちゃったもん勝ちみたいなところあるじゃない? 無理矢理連れ帰られるなんてこともそうそうないだろうし」
「そういうとこあるよな、お前」
 呆れたように影山が言う。そりゃあある程度の放任で、なおかつ東京に残留する明確な理由がある影山に比べれば、私の東京残留はいわば自分勝手なわがままであることは否めない。けれど、せっかく受験勉強を頑張って親元を離れたのだ。まだまだその自由を手放す気にはなれなかった。

prev - index - next
- ナノ -