episode 19

 私はいつまでこの場所にとどまっているのだろう。窓に写った自分の姿を見て、思う。日焼け止めだけを塗って学校に通っていた高校時代とはもう違う。クラス会のあとでだいぶよれてはいるけれど、幾重にも塗られた肌も、太く長く塗られた睫毛も、自分本来より大きく見せた目も。
 何もかも、高校時代とは違うのだ。影山のことを心の底から溢れる大きな友情でもって見つめていた、高校時代とは。

「──影山は、好きな子とかいないの」
「あ?」
「だから、好きな子」
 答えを知っていながらも尋ねてしまうのはきっと、私の心がぐらんぐらんと揺れているからだ。揺れて、惑っている。そういえば私は影山がモテるのだということを情報として知ってはいても、実際に目の当たりにしたことはなかった。だから、私以外の女子とあんな風に近しい距離で言葉を交わす影山に、私はどうしようもなく揺らされているのだ。
「いねえよ」
 そっけない返事。けれどそれが却って私を安心させた。
「そっか」
 私も呟く。ざわついていた胸が少しずつ落ち着いていき、やっと頭の芯がはっきりとしてくるのを感じた。それにほっとするのと同時に、何とも言えない苦い気持が胸の中に拡がっていく。このままでいいのだろうか、また元の通りに戻ってしまっていいのだろうかと、苦しくなっていく。
 このままこうやって元に戻って。
 このまま東京で、何も変わらず。

「お前は」
 ふいに、影山が口を開いた。ごおおうと大きな音を立てて新幹線がトンネルを抜ける。その音にかき消された影山の言葉を聞き逃し、私は聞き返す。
「え? 今、何て?」
「だから、お前はいんのかよ。そういう──好きなやつ」

 頭を強く殴られたみたいな、そんな心地がした。
 私が好きな人の話を出したから、同じ話で切り返した。影山にとってはその程度のことなのだろう。高校時代の影山とは違って、今の影山は人間関係をスムーズにするためのコミュニケーション手段に恋愛の話をするということを理解している。別段興味があるというわけではなくても、話のネタに恋愛話をするということを知っている。
 それでも、私に対してはそういうことはほとんどなかった。私と影山の友情は高校時代からの地続きに存在するものであり、そういう──恋愛の話を挟まなくても成立するものだった。それは影山自身も一度となく口にしていたことだ。
 だから、私と影山の間に恋愛の話が上がることはこれまでそう多くなかったのだ。しても私が話すばかりで、影山の方からそういう話をしてくることはない。影山の生活に恋愛なんてものが存在していないからといえば、そうなのだけれど、だからこそ、私は今こんなにも驚いている。

 慎重に呼吸を数回。ブラウスの胸元が浅く上下する。
 ぎゅっと目を瞑ってから気持ちを切り替え、それから私は返事をした。
「影山からそんな話をしてくるって珍しいね」
「名字から始めた話だろ」
「いるって言ったらどうするの」
「いんのかよ、聞いてねえ」
「そりゃあ言ってないし。聞かれないし」
「そういう問題じゃねえだろ」
 それじゃあどういう問題なのだろう。不服そうな顔をする影山の顔を、私はただ見つめた。

 私に好きな人がいる。二年前からずっと、私には好きな人がいる。そのことを影山は今の今まで知らなかった。当たり前だ、言っていないから。私は影山に、影山のことが好きだなんてことはおろか、好きな人がいるのだという事実すら話してこなかった。
 もしも私に好きな人がいると影山が知ったら? そんなの分かり切っている、影山はきっと私のことを心配してくれる。影山は私のことを恋愛対象として好きではないけれど、友人としては大層好かれている。私にはその自覚がある。影山が好きでもない人間と何年もつるむはずがないからだ。
 好きな人がいる、だけど、その好きな人を影山に紹介することはできない。そうしたらきっと、影山は私に不信感を持つだろう。影山に話すことのできないような人間に恋をしているのかと戸惑うだろう。

 影山が私に、友人として幸せになってほしいと思ってくれていることを、私はとっくに知っている。

「私に好きな人がいたら、知りたいの?」
 私は問う。それが何でもないことのようなトーンで、ひっそりと。
 影山は特に不審がる素振りも見せず、ただいつものようなぼんやりとした調子で返事をした。
「まあ──気にはなるだろ、普通に」
「普通に──」
 それでは果たして、私と影山にとっての普通とは一体何なのだろう。ふつう。影山は私に何を求めていて、私は影山に何を求めているのだろう。このままでいること、先へ進むこと、こどものままでいること、おとなになること。普通って、どれを指しているのだろう。どの枠の中での普通の話をしているのだろう。
「自分で言ったんだろ、年とったって。そりゃあそれなりに付き合ってんだから、どんな男と付き合ってんのかくらいは興味あるだろ」
「付き合ってはいないけど」
「付き合うかもしんねえんじゃねえのか。知らねえけど」
「別に、私がただ好きってだけだし」
 そんな風にしてごまかすように、私は無理矢理話を切り上げた。ビールの缶を思い切りあおってみるけれど、もうほとんど残ってはいなかった。

 新幹線が停まる。荷物をまとめており、連絡改札を抜けて地下鉄に乗り込む。地下鉄の中で数駅分揺られ。
 私たちは、私たちの住まう街へと並んで降り立つ。

 キャリーケースをごろごろと引きながら、夜も更けた街の中を私と影山は黙って歩く。駅から近く学生が多く住む街なので、終電近いこの時間であってもこのあたりはそれなりに騒がしい。どこかで誰かが歌う歌声がやけにうまくて、なんだか笑ってしまいそうになる。
 隣を歩く影山は何も言わない。特に何かを考え込んでいるというわけでもなさそうなので、おおかた明日の部活のことでも考えているのだろう。影山が何も言わずにぼんやりしているときは、大体バレーのことを考えているか、ごはんのことを考えているかのどちらかだ。

 影山はもう、さっき新幹線の中で話した会話の中身なんて忘れてしまったのだろう。横顔を見て、私は溜息をつく。もちろんまったく忘れているわけではないのだろうけれど、しかしすでに意識の向こうに追いやられていることは事実だ。その横顔に、なんだかむしょうに悲しくなった──悲しい? いや、悲しいんじゃなくて、悲しいというよりは、これはなんというか、もっと──

「──さっきの」
 自分の中で答えが出るより先に、気が付けば私は口を開いていた。
「あ?」
「さっきの話の続き、だけど。私の好きな人がって話」
「ああ」
 そういえばそんな話もしてたっけ、とでも言わんばかりの口調で、影山は頷いた。
「私が好きなのが、もし本当にしょうもないようなやつだったらどうする?」
「しょうもないやつって、そうなのかよ」
「違うよ。しょうもなくない人」
「──ふうん」
「しょうもなくないよ。真面目で、ちょっと馬鹿で、だけどいいやつで、分かりにくいけど優しくて、かっこよくて、モテるくせにチャラチャラしてなくて。バレーがうまくて、鈍感で」

 ポークカレーが好きで、ヨーグルトが好きで、お風呂上りに牛乳を飲んで、いまだに携帯を使いこなせてなくて。
 香水をつけなくて、流行りの音楽が分からなくて、アクセサリーをつけなくて、変なTシャツが好きで、あついお風呂が好きで。
 友達は少ないけど情に篤くて、私のことを心配してくれて、帰りが遅くなったらバイト先にも迎えに来てくれて。
 私のことを友達としか思っていない、私の大好きな人。私の大好きな影山。

 半分よりもちょっとだけ大きな月が、ぽかりと空に浮かんでいた。夜空との境目が曖昧で、ざらざらとした境界に私は何故だか泣きたくなる。
「なんだ、そいつ。お前そんなやつが好きなのかよ?」
「そんなやつって。そんな言い方しないでよ」
 自分のことだと知る由もない影山に、思わず苦笑する。そんなやつ。そうだ、私の好きな影山は『すごいバレーの選手』なんかじゃない、『そんなやつ』な影山だ。
「まあたしかに『そんなやつ』だよね。私だってそう思うけど──でもそんなやつだから、好きなんだよ」
 自宅まではあと十数メートル。グレーの壁のマンションが、もうすぐそばに見えている。

 小さく息を吸い込んで。息を止めて、ゆっくり吐き出す。歩みを止めて影山を見る。数歩歩いてから私が止まったことに気が付いた影山は、胡乱な目を私に向けた。その目がなんだか愛おしくて、だから私は笑ってしまった。
「私、影山のことが好きだよ」
 私は笑ってそう言った。影山は笑わなかった。

 さっきまでのざわめきは何処かに消えてしまったように静かだった。誰かの歌声は消え去り、世界には私と影山しかいないような、そんな静寂が訪れる。
 私と一緒になって笑わなかったかわりに、影山は一度視線を下げて頭を掻き、それからああ、ともうう、ともとれる曖昧な唸り声をあげた。まるで獣みたいな唸り声は、彼が本当に悩んで言葉を探しているのをあらわしているようで、いつだったか、影山のことを真っ黒い大きな犬のようだと思ったのを思い出した。

 やがて視線を私に戻した影山は、まっすぐに私を見据えて薄く唇を開いた。瞳に迷いはなくて、それで私はすべてを悟る。影山は平坦な声で言った。
「悪い。名字のこと、そういう風に見たことねえ」
「──うん、知ってるよ」
 準備していたとおり、私は笑って頷く。眉が少しだけハの字に下がってしまったけれど、この夜闇の中では影山には分かるまい。
「付き合うとかも考えられねえ。名字じゃなくても」
「うん」
「今はバレーがあるし。ほかを見てる余裕がねえ」
「うん」
「だから」
「分かってるよ、ちゃんと。大丈夫」
 分かっていた。そんなことはちゃんと分かっていて、それでも言いたかったのだ。友情なんて場所でのうのうと過ごしているのはもう嫌だった。言ったところで報われないと分かっていても、無かったことにはできなかった。悪い方に事態が転がる可能性があったとしても、もう、ただの友達でいいなんてことは思えなかった。

 再び歩き出す。傍らの影山は何か言いたげで、けれど何を言っていいのか分からないように黙っていた。そんな影山を見て、私はあの時のことを思い出す。

 ──じゃあさ、逆に影山のこと本気で好きで、本気の告白をしてきた子がいたら──その子にはきちんと対応するってこと?
 ──そりゃ、まあ

 実際にこの目で影山が女子の告白を断っているのは見たことがない。けれど話で聞いている分には、本気の告白を受けて、きちんと対応をしたということはこれまでなかったと思う。少なくとも、影山が『本気の告白』ととらえたことは一度もなかったはずだ。
 今私もそうやって告白を断られた女子のひとりになったわけだけれど──しかし、影山は真摯だった。真摯で、まっすぐで、これ以上ないほど誠意ある対応だったと思う。
 それはようするに、私の告白は影山に『本気の告白』だと思ってもらえたということだ。嬉しかった。「何言ってんだ」とか「馬鹿かよ」とか、そんな風に茶化される可能性だって十分にあって、影山はそうやって逃げることもできた。私の『本気』から逃げて、今までどおりを貫くことだってできた──できたはずなのに、そうはしなかった。影山はどこまでも優しかった。

 仏頂面をしている影山の頬を人差し指でつつく。虚をつかれた影山はびくりと肩を跳ねさせる。
「ちょっと、そんなに深刻な顔されたらさすがに私でもびっくりするからね」
「──深刻つったってお前」
「言っておくけど、影山がちゃんと真面目に答えてくれて、それだけで私は嬉しいよ。私が今までどれだけ影山に玉砕してきた女の子たちを見てきたと思ってるの」
 影山は押し黙る。私は少しだけ表情をゆるめて、もう一度影山の頬をつついた。
「それに、別に私も影山に好かれてると思って告白したわけじゃないしね」
「──そうなのか」
「まあ、何ていうの? けじめみたいなものだよ。ちょっと地元帰って私も色々考えちゃったってだけの話。だから気まずく思ったりしないでほしいし、これからも今まで通り仲良くしようね」
「──おう」
「さーて、帰るべ」
 それから三分くらい並んで歩いて、私のマンションの前で解散した。いつもと同じようにじゃあ、と言い去り、それからこっちを振り返ることもなく歩いていく影山の背中を、私はぼんやりと眺める。

 あの背中は今何を考えているのだろう。もしも少しでも、私のことを考えていたらいい。
 人生ではじめて告白をして、人生ではじめて失恋をして。それならば私のことで頭をいっぱいにしてほしいくらいのことを願ったってきっと罰は当たらないだろう。
 実際には影山は明日になればまたバレーのことでいっぱいになってしまうのだろうから、それならばせめて、今日眠るまでは私のことを思っていてほしい。私が影山のことを好きだってことに、言い様もなく焦ったり惑ったりしてほしい。私が影山のことを好きだと自覚したときと同じように。
「──帰るか。鍵、鍵っと」
 呟いて、私はかばんから鍵を取り出す。けれど震える指先では鞄の奥底に沈んだ鍵はなかなか取り出せなかった。覗き込んだ鞄の中にまるいしずくが落ちていく。鼻をすすると大きく咽た。

「きっついなあ……」
 結果がどうであったとしても、気持ちを口にすればもっとすっきりできると思ったのに。残念ながら、現実はそんなにきれいなものじゃなかったらしい。

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