episode 1

 長いようで短かった高校一年のゴールデンウィークも今日で終わりだ。中学を卒業した頃は、学校に行きたくて仕方がなくなるような、そんな素敵な高校生活を送れたらいいなと思っていたけれど──、一か月高校に通ってみて、特にそういうこともない。中学時代と変わらず、行かなければいけないからなんとなく毎日通っている──学校は、私にとって、そういう場所である。

 とはいえ、別に学校が楽しくないわけじゃない。新しくできた友達だっているし、部活にも入った。憧れの制服を着て、女子高生らしいことをして。充実した高校生活を送っていると思う。
 だから、学校に行きたくないだとか、そんなことを考えてしまうのはほんの気の迷いなのだ。ゴールデンウィーク最終日の夕方という今日この日、この時間が、私にそんなくだらないことを考えさせる。

「──あ」
 気分転換にスタバに飲み物でも買いに行こうと、そう思って家を出てきたけれど、スタバまで辿り着くより先に私は短く声を発して、足を止めた。赤信号の横断歩道の向こう側で、同じクラスの影山飛雄くんが私と同じように信号待ちをしていた。

 横断歩道を挟んでいるのでまさか私の声が聞こえたなんてことはない、と思う。けれど、私が声を発した瞬間、影山飛雄くんは手元の携帯に落としていた視線を上げた。
 影山飛雄くんがこちらを見る。ばちりと視線が合った。が、その視線にはあからさまに「知らないやつだな」というメッセージが込められており、私は少しだけ肩を落とした。
 私も人の顔と名前を覚えるのは得意な方ではないけれど──いくら何でもさすがに、一か月隣の席で授業を受けていたら知らないなんてことはないだろう、影山飛雄くんよ。

 影山飛雄くん──この春から同じクラスになった、烏野高校一年三組の男子生徒。入学して以来、私と彼は机を並べて授業を受けている。
 けれど彼が私のことを恐らくクラスメイトとして認識していないことからも分かるように、同じクラスになってからの一か月で私と彼はろくに言葉を交わしたことはない。
 新学期の最初に挨拶くらいはしたはずだけれど、私はこの一か月は女子の友達をつくることに心を砕いていたし、影山飛雄くんは影山飛雄くんで、休み時間になるたびにふらりとどこかへ出かけていた。親しくするタイミングがなかったのだった。

 とはいえ、さすがに誰だか分からないというのはひどいんじゃないだろうか。
 青信号になるのを待ち、歩き出そうとして──やめた。影山くんがこちら側に歩いてくるのならば、私も横断歩道を渡ってしまっては道路の真ん中で鉢合わせすることになる。影山くんに話しかけようと思っている以上、それは危ないので、大人しくその場で影山くんがこちら側に渡ってくるのを待った。

 待ちながら、私はぼんやり影山くんのことを観察する。教室では制服である黒の学生服姿しか見たことがなかったけれど、今日の彼は白いTシャツに黒のジャージだった。シャツの胸元に何かアルファベットで印字されている。けれど何が記されているかまでは、この距離では見えなかった。
 肩からは大きなエナメルバッグを提げ、それはぱんぱんに膨らんでいる。随分と大荷物だ。

 横断歩道をしっかり大股で横断してきた影山くんは、私の前に立つとそこで足を止めた。私が誰かは分からなくても、私が顔見知りであることくらいは分かるらしい。いや、もしかしたら知り合いかどうかも分からないけれど私が影山くんをじっと見つめて待っていたから、念のため立ち止まっただけかもしれない。
 いずれにしても、一応は影山くんは私を素通りすることなく立ち止まってくれた。
「こんにちは、影山くん」
「お、おう」
 その返事から、どうやら「念のため立ち止まった」の方っぽいことと判断する。やっぱり私が誰かは分からなかったらしい。がっくりと肩を落とす。そりゃあ私は目立つ方ではないけれど……。

 しかしいつまでも肩を落としていても仕方がない。困惑した顔の影山くんに、
「隣の席の名字だよ」
 と簡単な自己紹介をする。影山くんはそこでようやく私が誰なのか分かったようで、はっとした顔をして私を見つめた。ほっと胸をなでおろす。
「誰か分かってもらえてよかったよ」
「悪ィ。まだクラスのやつの名前覚えてねえ」
「だと思った」
 そんな会話をしながら、私たちは歩道の端に移動する。別に長話をするつもりはなかったけれど、ここで会ったのも何かの縁だ。これから一年間同じクラスでやっていく影山くんと──休み時間のたびにどこかへ消えてしまう影山くんと話す機会に恵まれたのならば、それを有効活用しない手はなかった。

 話が長くなるのを察したのか、影山くんが肩から鞄をおろす。どさりと音を立てたそれを見て、私は尋ねた。
「それにしても、随分な大荷物だね。部活帰り?」
「おう」
「そっか。影山くん何部なの? 身長大きいしバスケとか?」
「バレー」
「ああ、なるほど。バレーも身長大きい方が有利だっけ」
 別に身長が大きいからというだけでバレーをやっているというわけじゃないだろうと、言ってから気が付く。けれど影山くんは特に何を思うでもなかったようで、小さく頷いただけだった。口数が多いわけではないものの、別に会話をしたくないわけではないらしい。
 調子に乗って私はさらに続ける。
「うちのバレー部って強いの?」
「まあ……昔は強かった」
「ふうん。今は?」
「去年まではそんなに」
「今年は強いってこと?」
「そんなとこ」
 ということは、影山くんは強豪バレー部に在籍しているということになるのだろうか。昨年まで強くなかったチームが今年いきなり強くなるなんてことがあるのかは私には分からないけれど、影山くんの口ぶりにはそれなりの余裕というか、確信みたいなものが感じられた。まあ、烏野は普通の公立高校だし、特別部活に力を入れているというわけでもない。ここは話半分に聞いておいた方が良いのかもしれない。

 車が道路を走って行くのを眺めていると、今度は影山くんが口を開いた。
「そっちは……えーと」
「名字だよ」
「……名字はどこか行くところだったのか」
「うん、ちょっとそこまで」
 先ほど教えてあげた名前をもう忘れている影山くんに苦笑しながら、私は答える。本当は飲み物を買いに駅前のスタバまで行く予定だった。けれど、別にどうしても飲みたかったわけではない。ただの気分転換だ。ここで影山くんと会って話をするのもコーヒーを買いに行くのも、気分転換という意味ではそう大きな違いは無かった。

 けれど、そういうあれこれの事情を踏まえての「ちょっとそこまで」という言い方は、あれこれの事情を踏まえていない影山くんにはどうやら伝わらなかったようで、不思議そうに首を傾げられてしまった。なんとなくで流してもらえばいいところだけれど、この影山くんというクラスメイトは、どうやらそういう「なんとなく雰囲気を読む」ことが苦手なように見受けられる。
 町で顔を合わせた知らない人間に声をかけられても、あたかも知っているように誤魔化すことはできないし、不思議に思えば不思議に思ったと態度に出してしまう。影山くんはそういう人のようだ。いや、正確に言えば私は影山くんにとっての知らない人間ではないのだけれど。

 とはいえ、不思議そうに首を傾げられて、それを無視できるほど私も冷たい人間ではない。
「スタバに行くつもりだったんだ」
 正直にそう答えた。隠すほどのことでもない。影山くんとここで会ってしまったので目的地を変更にしただけで、どこに行くつもりだったかと問われたらまさしくスタバなのだ。

 すると影山くんは「ふうん」と呟いて、それからぽつりと言った。
「俺、スタバ行ったことねえ。あれ、うまいのか」
「えっ」
 うまいかと聞かれたら、まあ、うまいと思う。が、その辺りは主観によるし、私がスタバに行くときにはたいてい期間限定のドリンクを購入するときだ。その時々によって多少の当たり外れはある。

 けれど、私が今「えっ」と声をあげたのは、なにもスタバの美味しさについて尋ねられて返答に窮したからではなかった。
 影山くんが、スタバの話題に食いついた──そのことが意外だったのだ。

 この数分ほどで私が影山くんに抱いた印象といえば「良くも悪くも素直」「朴訥」「割とドライ」と、そんなところだ。私の名前も顔も覚えていなかったことからして、高校に入学して最初の一か月という人間関係のスタートダッシュ時期に、彼が周囲のトレンドとは一切無視して我を貫いたのだろうことは容易に想像できる。
 今こうして会話をしていても、会話を掘り下げようとか私に対して興味を持とうとするという素振りは一切ない。あくまで私が話しかけたからそれに付き合っているというスタンスであることは明らかだった。

 だから、素直に驚いた。
 影山くん、スタバに興味あるのか。そんな俗っぽい一面があったのか。なんだ、ちょっとわくわくしちゃうじゃないか。

「影山くん、スタバに興味あるの?」
 思ったことをそのまま口にする。ただ、あんまり驚いて見せたら気分を害するかもしれないとは思ったので、あくまでも何気なくない風を装う。
 影山くんは私の問いかけにまた少しだけ首を傾けた。私が驚いたということには、やはり気付いた様子はない。
「別に興味あるってわけじゃねえけど」
「けど?」
「行ったことねえなと思って。うまいなら一度くらい飲んでみたいだろ、普通」
「ふつう」
 その言い方がなんだかやけに面白くて、ついつい繰り返してしまった。あくまでも自分の意思ではなく世間がそうだとでも言わんばかりの物言いは、却って子供っぽい響きになってしまっている。本人が気付いているかは定かではないけれど、まるで拗ねた子供が言い訳しているようだった。これが面白がらずにいられようか。

 とはいえ、まあ影山くんの言うことも一理あった。確かに美味しいと分かっていて飲まずにおく理由もない。何事も経験は大事だ。高校生ともなれば、今後そんな機会はいくらでもあるのだろうけれど、影山くんのようなタイプの場合、わざわざ「今日スタバに行こう!」、「噂のフラペチーノを飲もう!」と決めない限りはあまり縁がないのかもしれない。スタバにたむろう男子高校生という風にも見えない。
 それでも、さすがにコンビニや自販機よりは割高とはいえ、高校生のお小遣いならばドリンク一杯くらいは普通に買える。行けないわけじゃなくて、縁がない。

 ふうむ、と顎に手をあて考える。ここで影山くんと会うことができたから、本当はもうスタバには寄らずにUターンして帰ろうと思っていたのだけれど──予定変更だ。
「影山くん、甘いの好き?」
 たしか今のフラペチーノは苺だったはずだ。スウィーツ系に比べれば爽やかだろうけれど、それでもかなり甘い。甘いのが好きじゃないと、あれを飲み切るのはなかなかきついものがある。果たして飲み切ることができるのか、事前の確認が必要だった。
 私の懸念に、影山くんはよく分からないような顔をしたまま返事をする、
「まあ、好きだけど」
「そっか、それはよかった。じゃあさ、折角だし一緒に行こうか。スタバ」
「は?」
「だって、言ったことないんでしょ?」
 そう言って影山くんを見る。ややあって、影山くんは小さく「おう」と返事をした。

prev - index - next
- ナノ -