episode 17

 会計を済ませ、そこから歩いて十分ほどの映画館に向かった。食事の最後、合コンに関する意見のすれ違いで若干の気不味さはあったものの、しかしそれを引きずっていても仕方がない。影山に『男に飢えている』なんて思われるのは心外すぎるけれど、真意はどうあれ合コンに顔を出しているのは事実なので、釈明するのも何だか白々しい感じになってしまうだけだ。
 影山にはおいおい、少しずつ誤解を解いてもらうことにして、今はとりあえず映画を楽しむことにした。

 映画館の中は思ったよりも混んでいた。平日の七時半すぎという、レイトショーには早く退勤後には遅い狭間の時間なので、館内はもう少し空いているかと思ったけれど、私たちと同じような若い男女のふたり組が多く見られた。チケット売り場に掲げられた座席表に目を遣ると、意外にも『少林バレー』もほとんどの座席が埋まっている。

「ええー……人気映画なの? これ」
 影山から受け取ったチケットを手に思わず声をあげると、影山は何故か自慢げに
「当たり前だろ」
 と、鼻を鳴らして言った。影山自身を馬鹿にされたわけでもないのに、むしろ影山自身を馬鹿にされたとき以上の過剰な反応である。
「まじか」
 なんだかすっきりしない気持ちを抱きながら呟く。

 『少林バレー』なんて、どう考えてもB級ネタ映画にしか思えないのに。小さな劇場で細々と、一部のマニアックな客層にウケながら短い期間上映するタイプの映画だと思っていたのに。
 よくよく見ると日本語吹き替えまできっちり用意されている。私が『少林バレー』に抱いていたイメージは、どうやら修正が必要であるとここに至ってようやく私も認めた。認めざるをえなかった。
 昨今の文化の流れに困惑しつつ、それでも私が好きそうな派手なアクション映画が一番大きなスクリーンで上映されていることに気付き、少しだけほっとした。よかった、私の感性が世間から大幅にずれているというわけではないらしい。

 釈然としない思いを抱えつつ、売店で飲み物を買う。夕食を食べてきたばかりなのでお伴のポップコーンは買わなかった。どのみち映画の上映が終わった後にはラーメン屋に連れていかれる未来が見える。
「私はアイスティーのM──影山はジンジャーエールでいい?」
「カルピス」
「そんな甘いの、よくあのデザート食べたあとに飲もうと思えるね……」
 と、カウンターの向こうのクルーがにこやかな笑顔で私たちに呼びかけた。
「ジンジャーエールのMサイズとカルピスのMサイズですね! お客様はカップルでいらっしゃいますか?」
「──え?」
 そのにこやかさに圧倒されつつ──しかしすぐに我に返り、と狼狽した。なんて質問なんだ。脈絡がないどころか何の関連もない質問である。本日二度目の狼狽。
 さっきは油断していた隙にしっぺ返しを食らったというか、影山にうまいこと裏を返された感じだったけれど、今度は完全に不意をつかれた形だった。まったく心の準備をしていないところへ、思いがけない方向から切りつけられる。完璧な袈裟切り。

「なっ、えっ、え? な、なん、なんですか?」
 声が裏返り、困惑しているのが一目瞭然だった。あからさまに慌てている私に対して、隣の影山はよく分からないぼんやりした顔をしている。そのあまりの温度差に、私がひとりでおたおたしている様子はさぞ滑稽だろう、とそんな卑屈さまで顔を出してくる。というか影山のその冷静さ、鈍感さは一体どこからくるんだ。少しは狼狽しろ、少しは意識しろ。こっちが悲しくなってきちゃうでしょうが。

 それにしても──影山への憤りにも似た感情のおかげで、少しだけ我に返る。それにしても、この不毛な片思いをしている私に対して、一体どういう鬼畜なサービスなんだろう。もういっそ狼狽を通り越して若干怒りすら湧いてきかけたところで、クルーはその疑問にあっさりと説明してくれた。
「本日当館カップルデイですので、カップルのお客様にはドリンクをご注文いただくと特別にチュロスを二本おつけしております!」
「カ、カップルデイ……」
 相変わらずの接客スマイルと何ともふわふわした言葉に、うっかり復唱してしまった。しかし復唱してみたところで何の実感も沸いてこなかった。

 シルバーデイだとかレディースデイだとか、そういうサービスがあるのは知っているけれど、カップルデイというのははじめて聞いた。詳しく聞きくところによると、どうやらこの映画館が独自で設けているサービスらしい。系列の館にはない独自サービスなので、映画の鑑賞料金のサービスはできないために、売店サービスを展開しているとのことだった。
 どうりで館内にカップルが多いはずだ。鑑賞料金のサービスがないとはいえ、カップルデイなんてものを実施していると知っていたらその日を狙ってくる人は多い。私と影山はそんな事情はまったく知らずに今ここにいるけれど、見た感じではなかなか知られたサービスのようだし。

 事情を理解したところで、私はちらりと影山を見上げた。影山は相変わらずぼんやりとした顔をしている。これは私が何かしらの受け答えをするのを待っているんだろうか。もしそうだとしたら、この場合どう答えるのが正解なんだろうか。カップルなのだと一言いえばチュロスをおまけしてもらえるのだろうけれど、私と影山はカップルじゃないし。ていうか。

 ──カップルって名乗りたい……!

 突如として私の自制心を試すようなイベントが現れたことに、先ほどまでとは違った意味で私は困惑していた。困惑。いや、もうこれはいっそ血迷っているといって差し支えないレベルなのでは。むくむくと首を擡げてくる邪心を見て見ぬふりなどできようはずもなく、私は煩悶の表情を浮かべ、助けを求めるように影山を見る。
 分かっている、分かっているとも。こんなイベントは言ってみれば形式だけの話であって。映画館側にも集客というメリットがあるからこそ行われることであって。商業的な思惑が見え隠れしているというかこれはWin-Winの関係を築いていることになるわけだから、そこに私と影山が乗っかることは別に疚しいことでも悪いことでもないわけで。
 ていうかそもそもカップルという言葉からしてふわっとしているし。そりゃあ俗にカップルといえば恋人同士の関係にあるふたりのことを指す言葉なのだろうけれど、今この場で私と影山はカップルかと問われただけであって恋人同士か、思いあっている仲かなどと問われているわけではないし。単にカップルかどうかというのであれば、男女一組で行動しているという意味で私たちは紛れもなくカップルだし。そのことはクルーのお姉さんだってよくよく承知しているだろうから、いわば私はあなた方をカップルだと了承していますが正しいですねという符合の確認でしかなく、換言するところの出来レースみたいなものであって。
 ていうかていうか、そもそも最近の世間の流れとしては男女一組である必要すらなく、ただ単純に人がふたり、一組になっていればそれはもうカップルが成立しているということにもなるわけで。つまりそういう色々な時代的背景や諸般の事情、そして私たちのカップル観などを総合し、過去の事例などと照らし合わせてみるとなると、やはり私と影山は間違いなく、御多分に漏れず、ジャストミートでカップルだという結論が導き出されてしまうんだけれど──

「カップルです」
 と。
 そう答えた瞬間、はっと口許を覆った。いやいやいやいや、いくら脳内会議でこれ以上ないほど入念に、丹念に、一分の隙もないほどに理屈をこねくり回したところで、まさかそれを臆面もなく口にしてしまうとは私は一体どんな恥知らずな女なんだ。いやむしろ大胆なのか。自分がそんな思い切りのいい女だったとは思いもしなかったのだ。
 けれどそうして口を覆ってから、自分の口が開いていなかったことに気付く。そして視線を影山へ。
 今まさに我々はカップルであると表明したのは、私ではなく、このぼんやりした顔の影山だった。
「ありがとうございます! それではチュロスは何味にされますか?」
「普通の──で、いいよな?」
 平然と問われては、私はただ頷くしかない。

 こうして、私と影山はそれぞれの飲み物とチュロスを手に入れて売店を後にしたのだった。

 ★

「ラッキーだったな」
「……」
 チュロス片手に何食わぬ顔でそうぬかす影山に、私は何と返事をしたらいいのか分からず、ただじとりと重たい視線を向ける。私の片手にも同じくチュロスが握られているけれど、それを食べる気にはならなかった。
 あれだけもだえ苦しみ、なんのかんのと理屈をこねたにもかかわらず結局「カップルです」と言うことができなかった私に対し、ほとんど悩むことなく、恐らくはチュロスがもらえるならカップルだっつっとくか、程度の軽さでカップルだと申告した影山。その影山に、私は複雑な思いを抱えていた。正直言って映画どころじゃない。

 ぶすっとした顔をした私に、影山が胡乱な目をして尋ねる。
「なんだよ、さっきの怒ってんのか? 別に自己申告すりゃいいってだけなんだからいいだろ。なんかしろって言うならともかく」
「そうだけど……そうなんだけど……」
 それでも歯切れの悪い私に、影山はいらいらしながらさらに言う。
「じゃあ何だよ。嘘でも嫌なのかよ」
「違うって、そういうわけじゃなくて」
 そんな軽はずみに──簡単に「カップルだ」と言えてしまうほどのお手軽な関係であることが悲しい、だなんて、まさか影山に言えるはずもない。言えるはずもなく、かといって代わりになる言葉を思いつくわけでもなく。私はむっつりと黙るしかない。

 冗談でもカップルだと言ってもらえてうれしかった、なんて思える性格だったらどれほどよかっただろう。物事とを良い方に捉えて、幸せな面を重視して、そして楽しく映画を観ることができたなら──それは一体どれだけ幸せだっただろう。
 けれど生憎と、私はそんな可愛い性格ではなかった。むしろ「カップルだ」と関係を偽ることに何の照れもない影山の清々しさは、ひたすら煩悶を抱えていた自分との対比で悲しいばかりである。

 ちょっとくらい、悩んでほしかった。
 ちょっとくらい、カップルだと名乗ることに照れてほしかった。

 それが現状友達の立場に甘んじている身には不相応の望みだとしても、そう望んでしまうのだから仕方がないのだ。私は、私の抱えている感情のほんの欠片でもいいから影山にも共有してほしかった。共有してほしいと、願ってしまっていた。
 友達でいいと思うかたわらで、それでも影山が私を少しでも好きだったらいいと、そんな夢物語を空想していた。恥ずかしいにも程がある。大学二年にもなって初恋に浮かれ、ありもしないことを夢見て。そのくせ物分かりがいいふりをして、直視することから逃げて。

 悲しいのを通り越して、情けなかった。自分の愚かしさに涙が出そうになる。ただの友達でよかったはずの一年前から今に至るまでに、自分の中でこれほどまでに影山への気持ちが肥大していたなんて。これではもう、自分で制御することもままならない。肥大して、増大して、醜いばかりの感情だ。初恋なんて可憐な響きに隠したまっくろい気持ち。

 上映時間十分前、館内にシアター入場のアナウンスが入る。
「中、入るぞ」
「……うん」
 先を歩く影山の背中を見ながら、ままならない自分の気持ちに泣きたくなった。

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