episode 13
トレーに載せたパンを手に、空いていたテーブル席につく。ほかにも何組か客がいたけれど、男性は影山ひとりだった。ただでさえ上背があって目立つというのに、その上ほかの客がひとつふたつしかパンをトレーに載せていないのに対し、影山はパンを山のように積んでいる。かなり異様だった。おかげで店内の注目を一身に集めている。
大量のパンについては、正直見ているだけでお腹がいっぱいになってしまいそうだけれど、当の影山は当たり前みたいな顔をしている。席に腰を落ち着けると影山は早速、その山の中からカレーパンに手をつけ頬張り始めた。もしゃもしゃと気持ちのいい食べっぷりを見ながら、唐突に私は思い出す。
「そういえば、知ってる? なんだかんだ言って私、高校入ってからのゴールデンウィークの最終日って毎年影山と顔を合わせてるんだよ」
「ほうふぁ?」
「口にもの入れたまま喋らないの。──私も引っ越しのときに昔のスケジュール帳見てて気が付いたんだけど。影山と最初に話したのもゴールデンウィークの最終日だったし」
「……覚えてねえ」
「まあ影山はそうだろうね。わざわざ会う約束してたのって高二のときだけだったし。私だって忘れてたし」
苦笑しながらそう言うと、影山は悪びれる様子もなくまたカレーパンにかぶりつく。
高校のころから、私にはスケジュール帳には簡単な日記をつける習慣がある。ゴールデンウィークのことについては、引っ越しの際にそれらのスケジュール帳を引っ張り出してみてそこで初めて、私も気が付いたことだった。
高校に入学し、早い時点で影山とは友達になったと思っていたけれど──しかし改めてそうした日記を読むと、影山と親しくなったのは本当に運のようなものだった。もしも高校一年のゴールデンウィーク、影山とあそこでばったり顔を合わせていなかったらと思うと恐ろしい。そのくらい、今の私にとっての影山は大きな存在なのだった。それは昨年一年、影山と別のクラスになってみてよく実感している。
大学生になった今でこそこうやって一緒に行動しているものの、去年一年、影山と一緒に過ごした時間は本当に少なかった。私は周囲から『合格なんて絶対無理』と言われていた大学を受験するのに必死だったし、影山は影山で高校生活最後の部活で忙しそうだった。受験戦争と縁のない影山を見ているのは、翻って受験戦争にもまれている自分を思い出すことになり、フラストレーションがたまったというのもある。受験もラストスパートの頃には逆に進学クラスの空気が息苦しく、部活を引退した影山を呼び出しては一緒にお昼を食べたりもしていたのだけれど──まあ、それは私の勝手な都合の話だ。あまり関係がない。
とにもかくにも──そういう諸々の事情があって、私と影山は一時期ちょっと距離があった。その反動のようにして高校時代以上に仲良くしている現在、再びあの距離感に戻るようなことがあれば、それは寂しいと思う。
パンに水分を奪われた口腔内を潤すようにジュースを吸いあげた。さすがに人気のパン屋だけあって、ジュースも濃厚で美味しい。高級なジュースの味がする。そんなことを考えながら、私は口を開く。
「なんかさ、大人になってもし顔を合わせなくなっても、ゴールデンウィークの最終日だけは一緒に過ごせる──みたいな感じだといいね、私たち」
大学生活が始まってまだ一か月しか経っていないというのに、なんだか妙にしんみりしたことを言ってしまった。自分で言っておきながらちょっと切なくなる。
そこに影山が追い打ちをかけるように言う。
「無理じゃねえか? 毎年同じ日って、年によっちゃ色々忙しいだろ」
「すぐそういう夢がないことを言う。本当影山は可愛くない」
「可愛かったことなんてねえだろ」
「ないけど」
身長が百九十センチに迫ろうかというような男に可愛さを感じるほど、私の可愛さ受容体は敏感ではない。私が可愛いと思うのは柴犬の子犬とか、そういうあれだ。間違っても影山は可愛くない。影山の言うことは正論だった。
と、そこで悪戯心が芽生える。
「あ、じゃあさじゃあさ、私は? 私が可愛かったことある?」
にっこりと満面の笑顔をつくって、ついでに顔の横でピースなんかしてみる──世間に疎くていまいちどういうポーズが可愛いポーズなのかが分からなかったので、なんだかぎくしゃくした感じになってしまったけれど。ともかく、クオリティはどうあれ、ファンサービス的な感じでポーズつきの笑顔をつくって質問した。
そんな私の可愛らしい姿を見た影山は、しかし私のテンションとは対照的に、冷徹無比なしらーっとした目を私に向けた。そして一言。
「は?」
「え、ひどい……いくら何でもそんな氷点下の眼をしなくてもよくない……?」
およそ女子に向ける視線とは思えない、一切の情を排した冷たい視線に絶句する。そんな顔をされるくらいならばいっそ、時々日向くんに向けていたような、蔑んでいることを全面に押し出した視線の方がまだしもましだ。温度も情もない視線はなんというか、心が寒くなる。悲しい。
「名字がふざけたこと言うからだろ」
「ふざけてない。いや、ふざけてるけど……」
女子が『私かわいい?』と聞くのって、そんなにふざけたことなんだろうか? これでモテる、自分は私よりも恋愛経験値が高いと言い張るのだから恐ろしい。そんなんじゃ仮に女子と付き合ったところで絶対に長続きはしない。影山に対してここまで友情を感じている私ですら若干引いてるのに、普通の感性の女子がこの『影山節』に耐えられるはずがない。
考えてみれば、影山に告白してくる女子というのは大概下級生である。つまり同学年──換言するところの、バレーをしている以外の影山をよく知っている女子が影山に告白してくるというケースは、実はほとんどない。もちろん、憎たらしいことに影山はモテるので、同学年の女子が告白してくるというケースもまったくないわけではない。けれど、それでも同じクラスや近しい女子ということはない。なかった。何故知っているかというと、影山が誰それに告白されていたぞというような情報は、当時の影山交際説の相手役だった私のもとに自然に集まってくるからだ。
影山の交友関係を考えてみても、バレー部か私くらいしか影山が特別に親しくしていた友人は思い浮かばない。そりゃあ私以外にもクラスに友人はいたんだろうけれど、特別親しくしていたということはなかった。影山はそういうことに無頓着だ。
そうしていくと、逆説的に私は影山の奇矯なふるまいや性格に付き合う変人ということになってしまう。間違ってはいないけれど、影山にとって、私はかなり貴重な人材のはずだ。私が第三者だったらそう思う。当事者でもそう思う。
ミニクロワッサンを二口で食べきる影山に、私は言う。
「よくもまあ、この付き合いのいい私にそんな冷たい態度がとれるものですよ。そう思わない?」
「思わねえ」
「うそ。微塵も? これっぽっちも?」
「思わねえ」
「信じらんない。あーあ、私はこんなにも影山のことを好きなのに全然思いが通じないんだよねー。片思いつらいわー」
影山は私のことをもっとありがたがってもいいんだぞ、と。そんな思いをこめての台詞に、影山は一度ぱちくりと瞬きをした。そしてまた、目を細めて鼻を鳴らした。
「いや、だからその『は?』とか鼻を鳴らすとかっていうのやめてくれないかな。普通に傷つくからね」
今度は完全に馬鹿にしたニュアンスだった。友人を馬鹿にするな。人として。
渾身の説得にも一切応じてもらえず。すっかり傷心の私はチョココロネをぱくつきながら影山を睨む。しかし影山は私が何に怒っているか分からないようで、不思議そうに首をかしげている。どう考えてもさっきの馬鹿にしたような態度のせいなのだけれど、そこに思い至らないって、一体全体どういう思考回路をしているんだろう。甚だ不思議だ。
そんな影山相手に怒ったり悲しんだりするのもなんだか馬鹿らしくなってしまって、私は溜息をついた。影山と喧嘩したって大体いつもこのパターンで終息させられてしまう。暖簾に腕押し、馬の耳に念仏。一人相撲で空しくなるだけだ。
「いいもん、いいもん。どうせ私の片思いですよ。影山は私のことなんか欠片ぽっちも好きじゃないんでしょ、ばーかばーか」
しゅううと鎮火させられてしまった感情の残りかすで、そんな子供じみた暴言を吐いてみる。これには影山もむっとしたようで──いや、『ばーかばーか』までレベルを落とさないと通じないというのも悲しいものがあるけれど、影山は気に入らなさそうに言った。
「俺だって名字のこと、好きではある」
「だからまたそういう──……へ?」
反論しようとしてから一拍おいて、間抜けな声が出た。
影山は続ける。
「つーか好きでもねえやつと家具買いにいかねえだろ、ふつう」
ふつう。いや、まあそうだ。ふつう。嫌いな人と買い物になんていかないし、買い物にいくとなればそれなりに親しい間柄の人間がいいと思う。ふつう。親しい間柄かあるいは──それなりに好意を抱いている相手を選ぶだろう。ふつう。
影山はいたってふつうの、当たり前のことを言っているに過ぎない。そうだ、ふつう。影山も言っている通り、それはふつうのことだ。私だってそう思う。なのに、なんだかやけにそれが胸に引っかかった。
好きでもないやつと買い物にはいかない。だったら、今、影山とこうして買い物に出かけてきている私は、影山にとっては好きでもなくない相手──好きな、相手。
「か、影山? その好きっていうのは、ええと──友達として、みたいな、そういう」
自分でも何を言っているのかよく分からないまま、しどろもどろになって尋ねる。それに対する影山の答えはシンプルだった。
「は? それ以外に何があんだよ」
「あ、うん。そうだよね。そうなんだよね。それ以外何があんのって話よね」
「お前、大丈夫か? 疲れてんのか。昨日も遅くまでバイトだったろ」
「いや、うん。それは大丈夫。心配してくれてありがとう。このパンが美味しすぎて言葉を失ってた」
「へえ」
そう、それ以外に──『友達として』以外に何があると言うのだろう。私と影山の間には高校三年間で積み重ね、築き上げてきた友情がある。今この東京において私が全幅の信頼を寄せることができる相手は影山だけだし、影山だって多分、何かあればいの一番──とは限らずとも、まあ三番目くらいまでには相談してくれるだろう。
友情という言葉がくさいなら、単純に信頼関係と置き換えてもいい。影山は私のことを裏切らないし、私も影山を裏切らない。私は影山と一緒にいるときが一番自然体だし、影山も私と一緒にいることを少なからずいいものだと思ってくれていると思う。
だから──だから、本来影山が私の言葉を肯定した時点で、私が抱くべきは安堵のはずだった。私と影山の間には共通の感情が流れている。同じように相手を尊重し、大切に思っている。無二の友人だと思っている。そのことに安堵し、喜ぶべきだった。
それなのに。
それなのに、どうしてだろう。私は今、傷ついている。影山の言葉に落胆している。影山が私に『友達として』以外の『好き』を抱いていないという事実に、裏切られたような気持ちになっている。こんなのはおかしい。こんなのは不当だ。だって、それじゃあまるで──
「名字?」
影山に名前を呼ばれ、はっとする。顔を上げると影山が胡乱な目で私を見ていた。急に黙りこくった私を不審に思ったのだろう。慌てて笑顔を取り繕う。口角を無理矢理上げると鼻の奥がわずかに痛んだ。
「いきなり何ぼーっとしてんだ」
「ごめんごめん、ちょっと考え事」
「何でもいいけどそろそろ行くぞ。駐車券の時間に間に合わなくなる」
「はあい」
何でもないように振る舞うため、ことさら間延びした間抜けな返事をする。けれど私の心臓は、そんなゆるい言葉とはうらはらにどくどくどくどくと早鐘を打ち続けていた。
いやだ、いやだ。その現象に──その感情に名前をつけようとする本能を理性で打ち消す。私が知らない感情は、しかし本当はずっと心の端っこに引っ掛かるように存在していて、それが不意に──影山との些細な遣り取りでずるずると表舞台に引き摺りだされたようだった。その存在を、私は認めたくない。認めてはならない。だってそれは、影山が持っていないものだから。私だけが持っている、今の均整の取れた関係を不格好に揺るがすものだから。
それでも──
分かっている。そんな思考をする時点で、本当はもう『詰み』である。ジュースを飲み干し席を立つ影山の顔を直視することができなくて、私はただ俯いて、淡々と店を出る支度をする。
絶望的な気分だった。ああだめだ──これじゃあまるで、私が影山のことを好きみたいじゃないか。
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